第九十ニ環 「電撃侵攻」
——人界。
漆黒の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
魔界の濃密な魔力に満ちた大気とは異なる、薄く乾いた空気。見覚えのある青い空。白い雲。
零は息を呑んだ。
人界。
一年前、妹を目の前で奪われた世界。
そして、復讐を果たすため、再び足を踏み入れた世界。
右手首のブレスレットが脈動した。まるで、この地を覚えているかのように。
「どう? 懐かしい?」
リリスが零の隣に立ち、深紅の瞳で人界の景色を見渡す。白銀の髪が、乾いた風に揺れていた。
「懐かしくはない」
零の金色の瞳が、遠方に聳える白亜の城を捉える。
「あの王を殺すために戻ってきただけだ」
六人が降り立ったのは、王都から南東へ数十キロ離れた森林地帯。
背後では転移門がさらに拡大し、魔界軍の精鋭部隊が次々と姿を現していた。
重装兵、魔導部隊、飛行兵。
そして四座が率いる、四つの精鋭部隊。
遠方に見える王都は、三重の城壁に囲まれている。その中心には白亜の王城が聳え、朝日を反射して不気味なほど美しく輝いていた。
「あれが敵の城か」
クオンが黒い大戦斧を肩に担ぎ、その瞳を細める。
「でかいな。だが、壊せないほどじゃない」
「問題は大きさじゃないわ」
ルシアが黒い魔女帽子の鍔を押さえた。
「第一・第二城壁は物理防壁が中心。でも第三城壁には精神干渉結界がある。上空には飛行無効化まで施されてる」
「つまり、高度百メートルより下を飛べばいいんでしょ?」
シエラが黒翼を広げ、王都上空を睨む。
「低空戦でも、私の速さは殺せない」
「……第三城壁の干渉は、ここからでも感じる」
レイラの緑色の瞳が細められた。
「近づくほど強くなる。皆が踏み込む時は、私が精神を保護する」
リリスが全員を見渡す。
「作戦を最終確認するわ」
魔界軍の指揮官たちが、一斉に姿勢を正した。
「第一城壁は、全軍で突破する。城壁を破るまでは誰も分かれない」
リリスの視線が、零と四座を順番に捉える。
「零と私が先陣を切る。ルシアは結界と遠距離攻撃。シエラは低空から弓兵と魔導兵を潰す。クオンは城門を破壊。レイラは幻術で兵数と侵攻方向を偽装しなさい」
四人が頷く。
「第一城壁を突破した後、四座はそれぞれ精鋭部隊を率いて目的地へ急行。敵が防衛態勢を整える前に、電撃戦で各拠点を制圧する」
ルシアは南東兵舎——苦諦剣ダッカ。
シエラは神装研究施設——滅諦剣メツ・ニローダ。
クオンは兵站管理局——集諦剣シュウ・ザムダ。
レイラは中央大聖堂——道諦剣ドゥ・マーガ。
事前に想定した相手への対策は、既に終えている。
「攻撃対象は軍事施設と支配の中枢だけ。民間人には手を出さない。四聖剣を各地へ縛りつけたら、零と私は本隊を率いて王城へ向かう」
リリスの深紅の瞳が、零を見た。
「第五席が現れた場合は私が引き受ける。あんたはアルトリウスだけに集中しなさい」
「ああ」
リリスが王都へ向き直った。
「全員——生きて帰りなさい。これは命令よ」
その声が、森に集結した全軍へ響き渡る。
次の瞬間。
魔界軍が動いた。
◆
最初に戦場を塗り替えたのは、ルシアだった。
王都の空に幾重もの魔法陣が展開され、紅蓮の炎が第一城壁へ降り注ぐ。
迎撃用の魔導砲が発射されるより早く、シエラが地面すれすれを駆け抜けた。黒翼が生み出した暴風が弓兵を薙ぎ払い、吐き出された竜炎が城門を内側から焼く。
そこへクオンが踏み込んだ。
「退け」
巨大な黒い大戦斧が、城門へ叩き込まれる。
轟音。
分厚い鉄扉が石壁ごと砕け、無数の瓦礫が城内へ吹き飛んだ。
同時に、レイラの幻術が守備隊を包み込む。
存在しない部隊の足音が四方から響き、魔界軍が何倍にも分裂して見える。偽りの伝令が飛び交い、人界軍の指揮系統が瞬く間に崩壊していった。
「——進め!」
リリスの号令とともに、魔界軍が第一城壁へ雪崩れ込む。
重装兵が前線を押し広げ、魔導部隊が防衛陣を破壊する。
第一城壁——突破。
「四座、予定地点へ!」
四つの精鋭部隊が本隊から分かれた。
ルシアは南東へ。
シエラは東へ。
クオンは南へ。
レイラは北へ。
四座は王都各地を電撃的に駆け抜け、待ち受ける四聖剣のもとへ向かっていく。
零とリリスが率いる本隊は、王城へ続く中央街道を進んだ。
あまりにも、順調だった。
第一城壁を越えてから、敵の抵抗が目に見えて弱まっている。
築かれているはずの防衛陣地も、ほとんどが放棄されていた。
まるで自分たちを、王都の奥へ招き入れているかのように。
零の背筋に、冷たい悪寒が走る。
「……簡単すぎる」
その言葉が終わるより早く。
「あははははっ!」
王都全体に、笑い声が響き渡った。
老齢の、しわがれた声。
だがその話し方だけは、十代の少年のように軽く、無邪気だった。
「やっと来たね、魔族ども! ずっと待ってたんだよ? こんなにたくさんの玩具が、自ら余の庭へ入ってくる瞬間をさ!」
零の呼吸が止まった。
忘れるはずがない。
記憶の底に焼きついた、アルトリウスの声。
王城の最上部から、黄金の光が天へ昇る。
幾重もの環で構成された巨大な紋章が、王都上空に展開された。
リリスの深紅の瞳が見開かれる。
「全軍、散開! 四座にも退避を——」
「遅いよ、リリス」
アルトリウスの声が、楽しげに弾む。
「余の神装が届く範囲を、城の周りだけだと思ってたの?」
黄金の光が、王都全域を檻のように覆った。
「この王都に入った時点で、君たちは全員——余のものなんだよ」
四本の光柱が、王都各地へ落ちた。
黄金の光が、王都の四方へ降り注ぐ。
ルシアたちが向かった、四つの拠点。
直後、四座の魔力反応が同時に揺らいだ。
空間が折り畳まれ、ルシアたちと精鋭部隊の間にあった繋がりが強制的に断ち切られる。
ルシアの姿が——南東兵舎から消えた。
シエラの姿が——神装研究施設から消えた。
クオンの姿が——兵站管理局から消えた。
レイラの姿が——中央大聖堂から消えた。
そして。
次の瞬間。
四人は、それぞれ異なる場所へ転送されていた。
西方の天命塔——ルシア。
その頂で待つのは、道諦剣ドゥ・マーガ。
東方の歓楽宮尖塔——シエラ。
そこを支配するのは、集諦剣シュウ・ザムダ。
南方の静寂院——クオン。
白い大鎌を携えて立つのは、滅諦剣メツ・ニローダ。
北方の刑罰塔——レイラ。
その最奥にいるのは、苦諦剣ダッカ。
想定していた組み合わせが、完全に入れ替えられた。
転送された精鋭兵たちも各施設の別区画へ分断され、四座はたった一人で、対策していない四聖剣と向き合わされている。
「あはははっ! どう? 余の永劫支配は!」
アルトリウスの笑い声が、王都の空を満たす。
「君たちの狙いも、配置も、誰を誰にぶつけるつもりだったのかも、最初から全部見えてたよ」
しわがれた声が、少年のように楽しげに続ける。
「だから入れ替えてあげたんだ。準備してきた通りに戦えたら、つまらないだろ?」
零の右拳が、白くなるほど握り締められた。
右手首のブレスレットが激しく脈動し、漆黒の魔力が漏れ出す。
怒りが全身を焼く。
「——零」
リリスの声が、その意識を現実へ引き戻した。
「怒りに呑まれないで。アルトリウスの狙いは、あんたを冷静でいられなくすることよ」
零は奥歯を噛み締める。
怒りを消すのではない。
怒りの中で、冷静であり続ける。
三日間、繰り返した訓練を思い出しながら、四重概念操作を起動する。乱れかけた漆黒の魔力が、次第に安定していった。
「……分かってる」
リリスは四方へ魔力探知を伸ばした。
「四人とも生きてる。精鋭部隊も全滅はしていない。ただし、完全に孤立させられた」
「救援に向かう」
「待ちなさい」
動こうとした零を、リリスが制する。
「ここで本隊まで分散したら、敵の思うつぼよ。あの子たちは、決められた相手としか戦えないほど、脆くない」
リリスは王城を睨んだ。
「四人の戦況は私が追う。救援が必要になった時は、あんたを遊撃として送る」
零は、四方に聳える尖塔を見る。
離れた場所から、四つの巨大な魔力が立ち上がっていた。
誰一人として、戦意を失ってはいない。
「……分かった。四人を信じる」
「ええ。私たちは、私たちの戦いを続ける」
第二城壁の門が、重々しい音を立てて開き始めた。
その奥には、王城へ続く黄金の道が伸びている。
罠だと分かるほど、不自然に開かれた道だった。
リリスの全身を、真紅の魔力が包む。
「本隊はここで陣形を維持。命令があるまで入るな」
指揮官たちが一斉に応じる。
リリスは零の隣へ並んだ。
「行くわよ。罠だと分かっていても、進まなきゃ。王には届かない」
「ああ」
二人は並んで、第二城壁の内側へ足を踏み入れた。
◆
同時刻——人界・西方、天命塔。
転移の光が消えた瞬間、ルシアは戦闘態勢を取った。
そこは、尖塔の頂上だった。
直径五十メートルほどの円形広場。周囲を守る壁はなく、一歩外へ出れば遥か下の地上まで落下する。
精鋭部隊の姿はない。
そして、広場の中央には一人の男が立っていた。
蒼と金の長衣を纏った、長身の男。
右手には同色の杖——《天命杖》を携えている。
第四席《道諦剣》——ドゥ・マーガ。
「ようこそ、魔界最強の魔導師殿。お待ちしておりました」
その声は、慈悲深い聖職者を思わせるほど穏やかだった。
ルシアは指先に炎を灯す。
「待っていた? 随分と余裕じゃない」
「これは試練でございます。貴女が正しき道を歩むに足る方なのか。拙僧に確かめさせてください」
ルシアは即座に攻撃せず、観察を選んだ。
未知の相手だからこそ、まず情報を取る。
それが魔導師の戦い方だ。
(杖型の神装……攻撃特化? それとも能力の補助媒体?)
指先に灯した火球を放つ。
込めた魔力は最小限。牽制と観測を兼ねた一撃だった。
火球は寸分の狂いもなく、ドゥ・マーガの左胸へ迫る。
それでも、男は動かなかった。
ただ、杖を軽く振る。
次の瞬間、火球が彼の脇を通過した。
「——っ!?」
弾かれたのではない。
風圧も、魔力同士の衝突も感じなかった。
火球は最初からそこへ向かっていたかのように、自然な軌道を描いて塔の外へ消えていく。
ドゥ・マーガが、穏やかに微笑んだ。
「ご安心ください。貴女の魔法が未熟だったわけではございません」
「なら、何をしたのよ」
「その炎が拙僧へ届くという結末は、正しくなかった。それだけのことでございます」
杖を胸の前に掲げ、祈るように目を伏せる。
「この世には無数の道がございます。ですが、正しき道は、常に一つだけ」
ゆっくりと瞼が開く。
そこには疑念も迷いもなかった。
「寸分も違わぬ正しさ。それこそが、拙僧の信仰でございます」
天命杖が、ルシアへ向けられた。
「それでは、試練を始めましょう」




