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第九十一環 「人界侵攻」


——朝。魔王城・零の自室。

 

夜明けの空を一度だけ確認した後、零は再び目を閉じていた。


三日間にわたる訓練の疲労。


怒りの中で、四重概念操作を維持し続けた精神的な消耗。


そして、三人の体温に包まれた安心感。


その全てによって、零の意識は抗う間もなく、深い眠りへ引き戻された。


泥の中へ沈むような眠りだった。


夢は見なかった。


見るだけの余裕すら残されていなかった。


そして。


「——起きなさい」


冷たく、それでいて美しい声が零の鼓膜を震わせた。


沈んでいた意識が、急速に浮上する。


重い瞼を開くと深紅の瞳が、至近距離から零を見下ろしていた。


腰まで流れる白銀の髪。


頭部から伸びる、艶やかな黒い魔角。


黒と赤を基調とした魔王の装束。


リリスがベッドの縁へ腰掛け、零の顔を覗き込んでいた。


「……随分と、楽しそうな夜だったみたいね」


その声には僅かな棘が含まれていた。


零は身体を起こそうとした。


だが、動かない。


いや。


正確には、三方向から身体を押さえ込まれていた。


右腕にはルシア。


黒い寝間着姿のまま、零の腕を両手で抱き締めている。


普段はツインテールに纏められている黒みがかった赤い髪が、枕の上へ広がっていた。


左腕にはレイラ。


細い指を零の指へ絡めたまま、穏やかな寝息を立てている。


黒いネグリジェの肩紐が僅かにずれていたが身体には、シーツがしっかりと掛けられていた。


そして、背中にはシエラ。


零の背後から覆い被さるように身体を寄せ、寝間着越しにぴったりと密着している。


黒い角が、零の肩口へ触れそうなほど近い。


三人とも、目を覚ます気配はない。


「……で?」


リリスの深紅の瞳がさらに細められた。


「私には、声もかけずに?」


「……寝てただけだ」


「あら。そう」


リリスの視線が僅かに乱れたシーツと、零を囲む三人へ向けられる。


「随分と仲のいいことで」


口調は冷たい。


だが、怒っている理由が零にはいまひとつ分からなかった。


リリス自身も、自分の胸に生まれた小さな引っかかりを正確には理解していないようだった。


深紅の瞳が一瞬だけ揺れる。


だが、次の瞬間にはいつもの魔王の表情へ戻っていた。


「……まあ、いいわ」


リリスは軽く息を吐き、ベッドから立ち上がった。


「今日はそんなことを気にしている場合じゃないでしょうしね」


白銀の髪を揺らしながら、右手を持ち上げる。


——パチン。


細い指が、乾いた音を鳴らした。


同時に、僅かな魔力の波が部屋全体へ広がる。


「——っ!?」


真っ先に、ルシアが跳ね起きた。


「ま、魔王様!?」


零の腕を抱き締めていたことに気づき、慌てて手を離す。


乱れていた髪と寝間着を整えながら、真紅の瞳を泳がせた。


「……え?」


シエラも、眠たげに目を開く。


「あ……おはよう……って、魔王様?」


自分が零の背中へ抱きついていたことには、特に慌てていない。


ただ、部屋にリリスがいることだけが、予想外だったらしい。


「…………」


レイラは零の指を握ったままゆっくりと目を開けた。


緑色の瞳が、リリスへ向けられる。


三人の視線と。


リリスの深紅の瞳が静かに交差した。


「三十分後」


魔王の声が部屋へ響く。


「城門前に、全員集合」


それだけを告げると、リリスは踵を返した。


黒と赤のマントが翻り、白銀の髪が朝の光を受けて煌めく。


迷いのない足取りで扉へ向かう。


そのまま廊下へ出ようとして。


リリスの足が、僅かに止まった。


「……次は」


三人には聞こえるかどうかというほどの小さな声。


「私にも、声くらいかけなさいよ」


それだけを言い残し、リリスは、今度こそ部屋を出ていった。


扉が閉じられる。


沈黙。


零と三人だけが部屋へ取り残された。


「……い、今の」


ルシアが、閉じた扉を見つめたまま口を開く。


「私の聞き間違いよね……?」


「いや」


シエラが妙に真剣な表情で首を横へ振った。


「聞こえた。確実に聞こえた」


「……ふふ」


レイラが、零の隣で小さく笑う。


「魔王様も、案外、可愛いところがあるんだね」


零だけが三人の反応を理解できず、僅かに眉を寄せていた。


    ◆


三十分後——魔王城・城門前。


朝靄が立ち込める城門の前に五つの影が並んでいた。


ルシアは、黒い魔女帽子を被り直している。


黒みがかった赤いツインテールが、朝の風を受けて揺れていた。


真紅の瞳に宿るのは第一席ダッカと対峙する覚悟。


シエラの黒い竜角が、昇り始めた朝日を受けて光る。


長い空色の髪が風に流れ、その背中では、黒い竜翼が今にも空へ飛び立とうと僅かに震えていた。


青い瞳は穏やかだったがその奥には、メツの寂滅へ一度も触れずに倒すという強い意志が宿っている。


レイラのくすんだ金色の髪も、朝の風に揺れている。


緑色の瞳は静かに、人界へ続く方角を見据えていた。


そこに、いつもの挑発的な笑みはない。


未来固定を操るドゥ・マーガさえ騙し切る幻術師としての顔。


クオンは、巨大な武器を肩へ担いでいた。


アッシュグレーの髪が風になびき、肌に刻まれた赤い紋様が鼓動に合わせるように脈打っている。


薄橙色の瞳は、正面だけを捉えていた。


「——待ちくたびれた」


クオンの短い言葉には、抑えきれない戦意が宿っていた。


その瞳が、城門の先に広がる虚空を睨みつけている。


人界で待つ敵を、既に見据えているかのように。


そして。


五人の中心には。


魔王リリスが立っていた。


白銀の髪が朝風に靡き、深紅の瞳が真っ直ぐ前を見据えている。


黒と赤を基調とした魔王装束が、白い朝靄の中で鮮やかに映えていた。


ただ、そこに立っているだけ。


それだけで周囲の空気が震え、城門前に集った魔族たちが息を呑む。


零が到着したことで、リリスの背後に四天王と復讐者が揃った。


「——全員、揃ったわね」


リリスは振り返らない。


静かな声だけが朝靄の中を通り抜け、五人のもとへ届いた。


城門の周囲には、ほかにも多くの魔族が集まっている。


四つの重要拠点を同時に攻撃するために編成された、魔王軍の精鋭部隊。


それぞれの部隊は、既に別の転移地点へ配置されていた。


ルシア。


シエラ。


クオン。


レイラ。


四人が各地へ到着した直後、部隊を率いて王の支配を支える拠点へ攻撃を開始する。


四聖剣を、王城から引き離すために。


リリスがゆっくりと振り返る。


深紅の瞳が、四座を順番に捉えた。


「今日、私たちは、人界へ攻め入る」


四人の表情に迷いはない。


「狙うのは、王の支配を支える四つの拠点。各部隊は、現地へ到着次第、予定どおり行動を開始しなさい」


ルシアたちが、静かに頷く。


「四聖剣が現れた場合は、事前に決めた相手を引き受ける」


ルシアは——ダッカ。


シエラは——メツ・ニローダ。


クオンは——シュウ・ザムダ。


レイラは——ドゥ・マーガ。


「無理に零のもとへ向かおうとしないこと。自分の相手を確実に倒して、生きて帰る」


「……承知した」


クオンが低い声で答える。


ルシアたちも、それぞれの表情で応じた。


「当然です」


「絶対、勝って戻るよ」


「……私も」


リリスは四人の返答を聞くと、最後に零へ視線を向けた。


「私たちの目的は、一つ」


深紅の瞳が、零の金色の瞳を捉える。


「人界の王——アルトリウスの首」


零の胸の奥で三日間、支配し続けた怒りが燃え上がる。


だが。


もう、視界は赤く染まらない。


思考が、憎悪だけに支配されることもなかった。


燃え盛る怒りの中心で、零の意識は、どこまでも冷たい。


リリスは、その瞳を見て僅かに口元を緩めた。


三日前とは違う。


今の零なら、王を目の前にしても、自分の力を見失わない。


「あんたの復讐」


朝風が吹き抜け、リリスの白銀の髪を大きく靡かせる。


「最後まで——私が見届けてあげる」


零は静かに頷いた。


「ああ」


長い言葉は必要なかった。


右手首に装着された神装——夢幻抱擁《ウロボロスサーキット》が、零の意志へ呼応するように脈動している。


待ち続けた日がようやく来た。


一華を殺されてから。


魔王城へ辿り着き。


五人と出会い。


力を得るために、何度も死線を越えた。


その全ては、今日、王へ辿り着くためにあった。


リリスは再び前を向くと、右手を虚空へ掲げた。


細い指先から、深紅の魔力が流れ出す。


空間が低い音を立てて軋んだ。


何もなかったはずの虚空へ、一本の黒い亀裂が走る。


亀裂は上下へ広がり、周囲の空間を引き裂きながら、巨大な門の形を作り上げていった。


漆黒の転移門。


その表面が、黒い水面のように揺らめく。


やがて、門の向こう側へ、魔界とは異なる青い空が映し出された。


人界。


零が召喚され。


一華を奪われ。


復讐を誓った場所。


リリスの深紅の瞳が鋭く細められる。


「——行くわよ」


魔王が、最初の一歩を踏み出した。


その後に、零。


ルシア。


シエラ。


レイラ。


クオンが続く。


六つの影が朝靄の中を進んでいく。


そして。


一人ずつ、漆黒の門の向こうへ消えていった。


魔王軍による、人界侵攻。


それは、後に二つの世界の運命を変える戦いとして記されることになる。

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