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第九十環 「最後の夜」


——夜。魔王城・零の自室。


ノックもなく扉が開いた。


最初に入ってきたのは、ルシアだった。


黒い魔女帽子を脱ぎ、零が座っているベッドの端へ当然のように腰を下ろす。


続いて、シエラ。


壁へ背を預け、長い空色の髪を肩越しに流した。


最後に入ってきたレイラは、後ろ手で静かに扉を閉め、零の隣に置かれた椅子へ腰掛ける。


零はベッドに座ったまま、三人を順番に見回した。


「……全員揃って、どうした?」


「明日が侵攻なんだから」


ルシアが腕を組む。


「訓練の成果くらい、報告しておくべきでしょ」


真紅の瞳には、三日前まではなかった確かな自信が宿っていた。


「クオンとの訓練……正直、死ぬかと思ったわ」


ルシアは、思い出すように眉を寄せる。


「あいつの起源回帰を正面から受けて、結界を十三回も砕かれた」


零が僅かに眉を上げた。


十二重結界を操るルシアの防御を、十三回。


訓練の激しさはその数字だけで十分に伝わった。


「でも、おかげで分かったの」


ルシアが、自分の指先へ視線を落とす。


「ただ結界を厚く、硬くすればいいわけじゃない」


クオンの拳が衝突する瞬間。


その一点へ、必要な分だけ魔力を集中させる。


攻撃が通過した直後には魔力を解き、次の攻撃が来る位置へ結界を再構築する。


「無駄な場所へ魔力を使わず、必要な瞬間に必要な分だけ集中させる」


防御だけではない。


炎魔術も同じ。


広範囲を焼き払う巨大な炎ではなく、狙った箇所だけを焼き切る、極限まで圧縮された火。


「最小の魔力で最大の効果を生み出す」


ルシアの指先に、小さな炎が灯った。


大きさだけなら、指先を覆う程度。


だが、その炎は以前とは明らかに違っていた。


僅かな揺らぎもない。


周囲へ熱を漏らすことさえなく、魔力を一点へ凝縮している。


まるで、真紅の刃。


「第一席ダッカの苦痛転写。攻撃の威力が大きいほど、その苦痛を返された時、私自身が耐えられなくなる」


だからこそ、最初から最大火力で焼き払うことはしない。


結界で距離を保ち。


精密な炎によって、ダッカの神装や術式だけを狙う。


能力の発動条件と、苦痛が転写される仕組みを戦いの中で見極める。


「転写された苦痛は、極小結界を重ねて受け流す。完全に防げなくても一度に返ってくる衝撃を分散できる」


ルシアの真紅の瞳が鋭く細められた。


「能力の仕組みを暴いて、術式ごと焼き切る」


指先の炎が、一瞬で消える。


その後には熱も、魔力の残滓さえ残されていなかった。


「私の魔術を舐めたら、後悔させてやるわ」


零は静かに頷いた。


「強くなったな、ルシア」


「——っ」


ルシアの肩が、僅かに跳ねた。


「べ、別に……当然のことをしただけよ」


白い頬が僅かに赤く染まる。


だが、すぐに零から視線を逸らし誤魔化すように咳払いした。


「次は、私の番ね」


シエラが壁から背を離し、右手を掲げた。


その掌から漆黒の魔力が、音もなく溢れ出す。


魔力はシエラの腕を伝って背中へ流れやがて、巨大な竜翼の形を取った。


「起源回帰」


青い瞳が静かに零を見つめる。


「これまでの私は、使うたびに理性を失ってた」


起源へ近づくほど、竜としての本能が強くなる。


空を支配したいという欲求。


目の前の敵を引き裂きたいという破壊衝動。


番である零を、誰にも渡したくないという独占欲。


「竜になる本能へ呑まれて、敵も味方も分からなくなる」


力を得る代わりに、シエラ自身が消えていく。


それが、これまでの起源回帰だった。


「でも、クオンと何度も戦って、ようやく分かった」


シエラは、背中に広がる漆黒の翼へ視線を向ける。


「本能を押さえ込むんじゃない。竜であることを否定する必要もない」


本能の中へ、理性を溶かす。


竜としての自分と。


一人のシエラとしての自分を切り離さない。


「この力を使うのも、止めるのも私自身が決める」


翼から放たれる魔力がさらに強くなる。


それでも、暴走の気配はない。


純粋な漆黒の魔力が完全に制御され、シエラの身体へ静かに従っていた。


「メツの寂滅は、一度でも触れられたら終わり」


存在そのものを消す鎌。


どれほど竜族の身体が強靭でも、まともに受けることはできない。


「だから、絶対に触れさせない」


起源回帰によって引き出した、竜族本来の速度。


理性を保ったまま、その力を精密に操る。


メツの鎌が届く境界線を見極め、一度も間合いへ入ることなく、空から竜炎を撃ち込む。


「メツが鎌を振り上げるより先に、射程の外へ出る」


漆黒の翼が一度だけ羽ばたいた。


僅かな動きにもかかわらず、室内の空気が大きく揺れる。


「追いつけない速度で動き続けて遠距離から焼き尽くす」


翼が、漆黒の粒子となって消えていく。


シエラは自信に満ちた笑みを零へ向けた。


「今の私なら、一度も触れさせない」


「頼もしいな」


「でしょ?」


シエラは得意げに笑った。


「まあ、実際にやってみないと分からないけどね。でも、勝てる気がする」


「……最後は、私」


レイラが静かに椅子から立ち上がった。


緑色の瞳は、ほかの誰でもなく、零だけを見つめている。


「第四席ドゥ・マーガの未来固定」


レイラの声に応じるように足元から、闇色の魔力が流れ出した。


「相手が選んだ未来を固定して、現実をその結果へ収束させる力」


攻撃が命中する未来を選ばれれば、どれほど回避しても。


結界で防いでも。


幻術で姿を隠しても。


最後には攻撃を受ける結果へ辿り着く。


「固定されてから、未来を変えようとしても遅い」


レイラを覆う闇の魔力が静かに広がる。


次の瞬間。


零の前に立つレイラの姿が三つに分かれた。


三人。


五人。


七人。


室内の至る所へ、全く同じ姿をしたレイラが現れる。


髪の揺れ方も。


呼吸も。


漂う魔力も完全に同じ。


どれが本物なのか、零にも見分けることができなかった。


「だから、固定させない」


七人のレイラが、同時に口を開く。


「相手が見ている未来そのものを分岐させる」


一人は、炎に焼かれる未来。


一人は、刃に貫かれる未来。


一人は、攻撃を回避する未来。


一人は、ドゥ・マーガの背後へ立つ未来。


複数の結果を同時に認識させどれが本物の未来なのか、選べなくする。


「それでも、どれか一つを固定されたら——」


七人の姿が、一斉に揺らいだ。


次の瞬間には、それぞれの立ち位置が入れ替わっている。


「固定された私を幻に変える」


本物を偽物へ。


偽物を本物へ。


ドゥ・マーガが固定した未来そのものを幻術の中へ閉じ込める。


レイラの存在は、今も完全には安定していない。


だが、その不安定さこそが、未来固定へ対抗するための武器になる。


「私は、どれか一つの存在である必要はない」


七人のレイラが同時に微笑んだ。


「相手が固定した未来から、本物の私だけを外す」


そして七つの姿が、一斉に消えた。


残されたのは、零の目の前に立つ一人のレイラ。


僅かに息を乱している。


完全に克服したわけではない。


これほどの幻術を維持することは、今のレイラにとってまだ、大きな負担だった。


それでも。


緑色の瞳に迷いはなかった。


「未来を固定するなら、その未来ごと騙してみせる」


零はレイラの呼吸が整うまで、何も言わずに待った。


やがて、七つに分かれていた存在が完全に一つへ戻る。


「……強くなったな、レイラ」


「……本当に?」


「ああ」


零は迷わず頷いた。


「今の俺でも、どれが本物か分からなかった」


レイラの緑色の瞳が僅かに見開かれる。


それから、どこか安心したように、柔らかな笑みを浮かべた。


「……なら、よかった」


三人は、それぞれの準備を終えた。


明日。


どのような敵が待っていたとしても戦える。


その覚悟を伝えるために、今夜ここへ集まった。


零はそう考えていた。


だが。


「それじゃあ、報告も終わったし——」


零が立ち上がろうとした瞬間。


ベッドの端へ座っていたルシアが零の服の裾を掴んだ。


「……何?」


「いや。報告が終わったなら、明日に備えて休んだ方がいいだろ」


「そんなこと、分かってるわよ」


ルシアは零から視線を逸らした。


それでも服を掴んだ指を離そうとはしない。


「だから……ここで休むの」


「ここで?」


「悪い?」


真紅の瞳が恥ずかしさを隠すように、零を睨みつける。


その頬は、薄く赤く染まっていた。


「明日になったら、私たちは、それぞれ別の戦場へ向かう」


ルシアの声が僅かに小さくなる。


「全員で、無事に戻ってこられる保証なんてない」


「ルシア」


「分かってる。負けるつもりなんてないわよ」


ルシアは、零の服を掴む指へさらに力を込めた。


「でも、今夜くらい、一緒にいたっていいでしょ」


部屋へ静かな沈黙が落ちる。


「私も、そのつもりで来たよ」


シエラが壁から離れ零の前まで歩いてきた。


先ほどまでの自信に満ちた笑みはない。


青い瞳が真っ直ぐに、零を見つめている。


「明日は別々だから」


シエラは零の胸元へ手を伸ばし、指先で服を軽く掴んだ。


「今夜は、番の傍にいたい」


「……私も」


最後にレイラが呟いた。


零の隣へ座り直し、その肩へ自分の肩をそっと重ねる。


「一人で眠ったら……きっと、いろいろ考えちゃうから」


メツの寂滅。


消えかけた自分の存在。


明日、待ち受けているかもしれない死。


「今夜は、零が、ここにいるって感じていたい」


ルシア。


シエラ。


レイラ。


三人の瞳が零だけを見つめていた。


零は何も答えられなかった。


明日の戦いで、何が起きるかは分からない。


どれほど準備を重ねても。


どれほど強くなっても。


全員が生きて帰れるという保証はどこにもない。


零は、ルシアの手へ自分の手を重ねた。


服を掴んでいた指が、僅かに震えている。


「……分かった」


短い答え。


それだけで、三人の表情が僅かに緩んだ。


部屋の照明が落とされた。


大きなベッドへ四人で横になる。


零の左側には、ルシア。


右側には、レイラ。


胸元へ身体を寄せるようにシエラ。


「……狭いんだけど」


ルシアが、不満そうに呟いた。


「昨日も同じことしてたでしょ」


シエラが小さく笑う。


「……嫌なら、離れて眠れば?」


「嫌なんて言ってないでしょ!」


暗闇の中へルシアの声が響いた。


レイラが、零の腕へ指を絡める。


「……もう少し、静かにして」


「誰のせいだと思ってるのよ……」


いつもと変わらないやり取り。


だが、互いの身体は、いつもより近かった。


体温を確かめるように。


ここにいることを忘れないように。


零は、胸元にあるシエラの角へそっと指を触れた。


「……ん」


シエラの身体から、力が抜ける。


左側では、ルシアが零の肩へ額を預けた。


「……絶対、帰ってきなさいよ」


囁くような声だった。


「私たちより先に、勝手に死ぬのは許さないから」


「ああ」


零が答えると。


右側から、レイラの指が零の手を強く握った。


「……約束して」


「約束する」


零もレイラの手を握り返した。


誰からともなく、距離が縮まる。


重なる体温。


触れ合う指先。


暗闇の中で、互いの呼吸だけが静かに響いていた。


やがて。


窓から差し込んでいた月明かりが雲の向こうへ隠れる。


四人の姿も、夜の闇へ溶けていった。


言葉はもう、必要なかった。


決戦前、最後の夜は。


誰一人として離れることなく静かに更けていった。


     ◆


——早朝。


窓の外から魔鳥の鳴き声が聞こえた。


薄い朝日が、カーテンの隙間から差し込んでいる。


乱れたシーツの上。


零は三人の体温に包まれながら、静かに目を開けた。


左側では、ルシアが零の肩へ頬を寄せている。


右側では、レイラが指を絡めたまま穏やかな寝息を立てていた。


胸元には、シエラ。


零へ縋るように身体を寄せ安心しきった表情で眠っている。


誰も、離れていなかった。


零は三人を起こさないよう、僅かに顔を上げた。


窓の向こう。


魔界の空が夜明けの色へ変わり始めている。


今日。


魔王軍による人界侵攻が始まる。


零の金色の瞳が、静かに、冷たい光を宿した。

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