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第八十九環 「侵攻前夜」


一方。


同じ三日間。


訓練場の別区画でも、四座たちがそれぞれの戦いへ向けた準備を進めていた。


ルシアとシエラは、交代でクオンと対峙している。


ルシアは炎魔術の同時展開数を増やし、結界と火炎の壁によって、クオンの怪力を制御する戦術を磨いていた。


目的は、第一席ダッカへの対策。


苦痛を転写される以上、不用意に攻撃を命中させるわけにはいかない。


火炎の壁で行動範囲を制限し。


幾重もの結界によって退路を塞ぎ。


直接攻撃を加える前に、相手の能力が発動する条件を見極める。


クオンの圧倒的な近接能力を相手に、一定の距離を保ちながら複数の術式を制御する。


その精度は、三日間で格段に上がっていた。


そして、シエラ。


シエラが取り組んでいたのは、第三席メツ・ニローダとの戦いを想定した高速機動と遠距離攻撃。


白銀の鎌、寂滅。


あの刃には、一度たりとも触れることができない。


僅かに掠めただけでも、傷口から存在そのものを削り取られる。


竜族の強靭な鱗も。


優れた再生能力も。


存在を消す攻撃に対しては、何の意味も持たない。


だからこそ、シエラに求められるのはメツの攻撃を全て回避し、一度も間合いへ入らせない戦い方だった。


クオンの拳を、メツが振るう鎌に見立てる。


突き。


薙ぎ払い。


死角から放たれる斬撃。


クオンの攻撃を紙一重で躱し、すぐさま射程外まで離脱する。


距離を取った直後には、間髪を入れず竜炎を放つ。


接近。


回避。


離脱。


反撃。


その全てを僅かな時間の中で繰り返す。


一度でもクオンの拳が触れれば、その時点で失敗。


実戦なら存在を削られている。


「……もう一回」


シエラは何度攻撃を受けても、すぐに翼を広げ直した。


初めは、クオンの攻撃を避けることだけで精いっぱいだった。


回避後に体勢を崩し、反撃へ移るまでに時間がかかる。


速度を上げすぎれば旋回が間に合わず、訓練場の壁へ衝突しそうになることもあった。


だが、訓練を繰り返すうちに、動きから少しずつ無駄が消えていく。


クオンの肩。


腰。


踏み込む足。


拳が放たれる前の僅かな変化を見極め、攻撃の軌道を先読みする。


最小限の動きで回避し、翼を一度羽ばたかせただけで射程外へ離脱する。


そして、空中で体勢を整えるより早く、竜炎を撃ち返す。


三日目には、クオンの拳がシエラを捉える回数は目に見えて減っていた。


同時にシエラは起源回帰の制御にも取り組んでいた。


メツへ触れられないためには、今以上の速度が必要になる。


起源回帰を深めれば、シエラの飛行速度と竜炎の威力は飛躍的に上昇する。


だが、竜族としての本能へ呑まれれば精密な回避はできない。


理性を失い、力任せに一直線へ突撃すれば、メツに軌道を読まれる。


どれほど速くても、自ら寂滅の間合いへ飛び込んでしまえば、全てが終わる。


だからこそ。


力を解放しながら、思考だけは、冷静に保つ。


速度へ酔わず。


破壊衝動へ従わず。


メツの鎌が届く位置を常に見極め、絶対にその境界線を越えない。


「速いだけじゃ、駄目なんだ」


シエラは、自分自身へ言い聞かせるように呟いた。


「どれだけ力を引き出しても、私が私のままじゃないと、あいつには勝てない」


起源の力に呑まれるのではない。


竜族の本能を否定するのでもない。


その力を、シエラ自身の意思で操る。


クオンとの激突を重ねる中で、シエラは少しずつその感覚を掴み始めていた。


夕方。


クオンの拳が、シエラの頬へ迫る。


あと僅か数センチ。


その瞬間黒い竜翼が、視界から消えた。


クオンの拳が空を切る。


次の瞬間には、シエラはクオンの遥か後方へ回り込み、掌へ、圧縮した竜炎を生み出していた。


翼の展開と同時に、シエラの全身を覆う魔力の色が変化する。


蒼黒だった魔力から青みが消えていく。


残ったのは、光さえ呑み込むような純粋な漆黒。


竜族の起源へ、さらに一歩近づいた証。


それほどの力を解放しながらも、シエラの青い瞳から理性の光が消えることはなかった。


「……今の私なら」


漆黒の魔力を纏いながら、シエラは静かに笑った。


「一度も触れさせない」


   ◆


クオンもまた、二人の訓練相手を務める合間に自らの力を研ぎ澄ませていた。


シュウ・ザムダの欲望増幅を受ければ、鬼族としての闘争本能はこれまでとは比較にならないほど膨れ上がる。


敵と味方の区別すら失い。


目に映る全てを、壊したくなるかもしれない。


だからこそ、クオンは自分の欲望を抑え込もうとはしなかった。


「……私が殴るのは、敵だけだ」


己の内側で燃える破壊衝動へ、何度も戦う相手を刻み込む。


欲望がどれほど増幅されても。


理性が闘争本能に呑まれかけても。


拳を向ける相手だけは、決して見失わない。


起源回帰を発動し、限界まで深く潜る。


破壊への衝動が全身を満たした状態で、ルシアやシエラの攻撃を見極め、必要以上の反撃を加えずに止める。


その訓練を、三日間にわたって繰り返した。


最も大きく変化したのはクオンの存在圧だった。


ただ訓練場へ立つだけで、周囲の空気が軋む。


床へ亀裂が走り、離れた場所にいる魔族たちでさえ、本能的な恐怖に呼吸を止める。


それほどの力を放ちながらも。


クオンの瞳は静かに、目の前の相手だけを捉えていた。


   ◆


レイラは一人城内の書庫へ籠もっていた。


周囲には、精神術と幻術に関する古い魔導書が幾つも積み上げられている。


調べているのは、第四席ドゥ・マーガの能力。


未来固定。


相手が選択した未来を固定し、どのような過程を辿ろうとも現実を、その結末へ収束させる力。


回避しても。


防御しても。


幻術によって姿を隠しても。


「攻撃が命中する未来」を固定された時点で、最後にはその結果へ辿り着く。


ただ幻を見せるだけでは、突破できない。


ドゥ・マーガが本物の未来を認識し、固定してしまえば、その後から幻術を重ねても遅い。


「……固定される前に、選ばせなければいい」


レイラは机の上へ、小さな幻影を生み出した。


自分と同じ姿をした五人のレイラ。


それぞれが異なる方向へ動き、異なる魔術を発動する。


相手が見ている未来そのものを、幻術によって分岐させる。


どれが現実で。


どれが幻なのか。


何を固定すれば、望んだ結果へ辿り着けるのか。


その判断自体を、狂わせる。


だが。


「……っ」


五つの幻影のうち、二つが不意に揺らいだ。


直後、輪郭を保てなくなり霧のように崩れ去る。


レイラは机へ片手をつき、苦しそうに呼吸を整えた。


メツの寂滅によって傷つけられた存在は、まだ完全には安定していない。


以前なら容易に維持できた幻術でさえ、今の身体には大きな負担がかかる。


それでも、レイラは訓練を止めなかった。


零の記憶を錨として、消滅の淵から戻ってきた。


ならば、その経験も戦うための力へ変える。


「……私が、どれか一つの存在である必要はない」


レイラが再び幻術を発動する。


崩れた二つの幻影が、異なる姿で再構築されていく。


「相手が固定した私を幻にすればいい」


本物の未来を偽物に。


偽物の未来を本物に。


ドゥ・マーガが未来を選び、固定した瞬間その認識を反転させる。


固定された未来そのものを、幻術の中へ閉じ込める。


その夜。


書庫に灯された明かりの中で七人のレイラが、それぞれ異なる未来を演じていた。


その中心で。


本物のレイラだけが静かに、緑色の瞳を閉じていた。


 ◆


——夜。魔王城・零の自室。


全員が三日間の準備を終えた。


ルシアは、複数の結界と攻撃魔術を同時に制御する精度を高めた。


シエラは、メツの攻撃へ一度も触れることなく戦うための高速機動と理性を保ったまま起源へ近づく方法を掴んだ。


クオンは、膨れ上がる闘争本能の中でも拳を向ける相手を見失わない精神を鍛えた。


レイラは、不安定な存在を逆に利用し固定された未来を幻へ変える術式の輪郭を見つけた。


そして、零は。


怒りを消すのではなく燃え盛る怒りの中で、冷静な思考を維持する術を身につけた。


明日。


魔王軍による人界への侵攻が始まる。


零は自室のベッドへ横たわり、一人で天井を見上げていた。


金色の瞳に迷いはない。


一華を奪われた怒りは、今も胸の奥で燃え続けている。


消えたわけではない。


憎しみが薄れたわけでもない。


だが、もうその炎に思考を奪われることはない。


怒りは、零を支配するものではなくなった。


王を殺すために利用する、零自身の武器となった。


「……明日だ」


静かな部屋で零の声が響く。


右手首の神装、夢幻抱擁《ウロボロスサーキット》が、鈍い光を放った。


待っていろ。


玉座から全てを見下ろし。


一華を道具として利用し。


零から全てを奪った男。


——必ず、殺す。


金色の瞳が、暗闇の中で、冷たく輝いた。

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