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第八十八環 「怒りの中心で」


——昼。魔王城・零の自室。


天井が揺れている。


いや。


実際に揺れているわけではない。


不安定なのは零の視界の方だった。


零はベッドへ仰向けに倒れ込み、焦点の定まらない金色の瞳で天井を見つめていた。


身体は、まだ動く。


真紅の閃光を何度も受けたことで、全身には鈍い痛みが残っている。


それでも、骨や内臓に致命的な損傷はなかった。


リリスは、痛みと衝撃を与えながらも決して一線を越えないよう、全ての攻撃を正確に制御していたのだろう。


魔力の威力。


着弾する位置。


零を吹き飛ばす方向。


その全てを計算し、零が立ち上がれる限界に留めていた。


だが。


精神は、限界だった。


午前中だけで、何十回繰り返したのか。


一華の名前。


あの日の光景。


兵士たちの笑い声。


玉座から見下ろす、王の嘲笑。


リリスは一切、容赦しなかった。


零が何に怒りを覚え。


どの記憶で思考を乱し。


どの言葉で、冷静さを失うのか。


怒りを生む引き金を正確に見極め、躊躇うことなく何度も引いた。


そのたびに、概念操作を維持しろと命じる。


できなければ、真紅の閃光が零の身体を撃ち抜いた。


繰り返し。


何度も。


零が立ち上がる限り、訓練は続いた。


その結果。


午前の訓練が終わる頃には、怒りに呑まれかけた状態でも二重概念操作を、五秒間だけ維持できるようになった。


たった五秒。


四重操作どころか、三重操作にも届いていない。


それでも。


昨日までの零には一秒すらできなかったことだ。


確かに、前へ進んでいる。


だが、その代償として、零の心は何度も過去へ引き戻されていた。


「……っ」


零は片腕を持ち上げ目元を覆った。


暗くなった視界の中で、今も一華の声が反響している。


リリスが再現した声ではない。


訓練によって掘り起こされた、零自身の記憶。


長い間、心の奥底へ押し込めていた妹の声がまだ、鎮まっていない。


——お兄ちゃん。


あの日。


最後に聞いた、一華の声。


助けを求めていた。


零だけを呼んでいた。


それなのに何もできなかった。


「……黙れ」


誰もいない部屋で零は呟いた。


消えてほしいわけではない。


妹の声を、忘れたいわけでもない。


ただ、今だけは聞きたくなかった。


腕の下で、目の奥が熱を帯びる。


涙は零れていない。


それでも、少しでも気を緩めれば溢れ出してしまいそうだった。


その時。


こんこん。


静かな部屋へ、扉を叩く音が響いた。


零は目元を覆った腕を退けなかった。


「……誰だ」


自分でも驚くほど声が掠れていた。


数秒の沈黙。


やがて、扉が静かに開かれた。


廊下から近づく足音は軽い。


気配を消そうとはしていない。


零に、自分が来たことを知らせるような穏やかな足取りだった。


「……零」


レイラの声だった。


零はそれでも腕を退けなかった。


天井を見ない。


レイラの顔も見ない。


今の自分が、どのような表情をしているのか見られたくなかった。


だが。


レイラは何も言わなかった。


零の様子を尋ねることも。


何があったのかと、問い詰めることもない。


軽い足音だけが近づき、ベッドの縁が僅かに沈み込んだ。


レイラが、零の隣へ腰を下ろしたのだ。


沈黙。


数秒。


十秒。


三十秒。


それでも、レイラは何も聞かなかった。


零を試すこともない。


無理に慰めることもない。


ただ、そこにいる。


やがて。


微かな紅茶の香りが、零の鼻先へ届いた。


「……飲める?」


レイラの柔らかな声が聞こえる。


「持ってきたんだけど」


いつものような、相手を試す響きはどこにもない。


挑発も。


からかうような色もない。


零にだけ見せる、レイラ自身の素の声だった。


零はゆっくりと腕を退けた。


少し赤くなった金色の瞳が、レイラの緑色の瞳と交差する。


レイラは何も指摘しなかった。


零の目元を見ることも。


泣きそうだったのかと尋ねることもない。


ただ、穏やかに微笑んでいた。


何かを求めることなく。


何かを返してもらおうともせず。


「……辛い訓練だったね」


その一言だけを、静かに零へ渡した。


零は重い身体を起こした。


全身の筋肉が痛む。


それでも、レイラが差し出したカップを両手で受け取った。


「ああ……」


一口だけ、口へ含む。


温かい。


僅かに甘みを加えた紅茶が、乾いていた喉をゆっくりと通り過ぎていく。


冷え切っていた身体の内側へ温もりが広がった。


「リリス様の訓練は……零の記憶を、直接刺激するものだから」


レイラが、自分のカップを両手で包み込む。


「精神の消耗は、普通の戦闘とは比べものにならない」


零は黙って頷いた。


身体の傷なら、治癒魔術で癒やすことができる。


だが、何度も抉られた記憶は、魔術だけでは簡単に元へ戻らない。


「……無理に話さなくていいよ」


レイラは零の隣で、カップへ口をつけた。


「私はここにいるだけだから」


再び、沈黙が訪れた。


だが、先ほどまでとは違う。


一人きりの部屋で、一華の声に押し潰されそうになっていた時の沈黙ではない。


何も求められない。


何も試されない。


何かを言わなければならないと焦る必要もない。


ただ隣に、誰かがいる。


自分の痛みを無理に理解しようとはせずそれでも、離れずにいてくれる。


その静けさが今の零には、心地よかった。


零はもう一度、紅茶を口へ運ぶ。


温かな甘みを感じながら張り詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。


胸の奥で反響していた一華の声が、ほんの僅かに遠ざかったような気がした。


   ◆


それから三日間。


零は同じ訓練をひたすら繰り返した。


朝。


リリスとの訓練。


一華の名前。


あの日の光景。


兵士たちの笑い声。


玉座から見下ろす王の嘲笑。


零の怒りを引き出す言葉を、リリスが何度も投げかける。


胸の奥から憎悪が溢れ、視界が赤く染まる中で概念操作を起動する。


失敗すれば。


リリスの指先から放たれる真紅の閃光が、容赦なく零の身体を撃ち抜いた。


昼。


精神を回復させるための、僅かな休息。


甘い紅茶の香り。


零の隣で、何も聞かずに座っているレイラ。


あるいは、誰もいない部屋で天井を見つめる時間。


午後。


再び、リリスとの訓練。


一華の記憶を抉られ。


怒りに呑まれ。


概念操作に失敗し、真紅の閃光で何度も床へ叩き伏せられる。


日が沈んでも。


零が立ち上がる限り、訓練は続いた。


そして。


怒りに呑まれかけた状態で、二重概念操作を——五秒間維持。


三重概念操作を——十二秒間維持。


失敗する回数は、まだ成功よりも遥かに多かった。


一度できたことが、次の挑戦ではできなくなる。


疲労が蓄積すれば、二重操作すら崩れることもあった。


それでも。


少しずつ。


確実に。


零は怒りの中で、冷静な思考を保てるようになっていった。


そして三日後、夕方。魔王城・訓練場。


零は床へ片膝をついていた。


全身が汗で濡れている。


荒い呼吸が、静まり返った訓練場へ何度も響いた。


身体にはこの三日間で受け続けた攻撃の痛みが残っている。


足元はふらつき。


夢幻抱擁《ウロボロスサーキット》を起動する右腕も、僅かに震えていた。


それでも。


リリスを見据える金色の瞳だけはもう、揺れていなかった。


「……もう一回」


リリスの声が訓練場へ響く。


この三日間で、何百回と聞いた言葉。


零は片膝をついた状態からゆっくりと立ち上がった。


リリスが、再び言葉の刃を振るう。


一華の名前。


あの日の光景。


助けを求める妹の声。


何もできなかった零。


兵士たちの笑い声。


そして。


王の嘲笑。


零の身体が震えた。


心臓が激しく脈打つ。


全身を巡る血液が一瞬で沸騰したように熱を帯びた。


視界の端が、赤く染まっていく。


怒りが。


憎悪が。


殺意が、巨大な津波となって押し寄せる。


これまでなら、その全てを抑え込もうとしていた。


怒るな。


思い出すな。


冷静になれ。


そう言い聞かせるほど、意識は一華の記憶に囚われ、思考を奪われていった。


だが、今は違う。


零は目を閉じなかった。


怒りを否定しなかった。


憎しみから、逃げようともしない。


押し寄せる感情を受け入れ、その奥深くへ、自ら沈んでいく。


この怒りは、俺のものだ。


王によって植えつけられた感情ではない。


一華を奪われた零自身が、あの王を許さないと決めた証。


消す必要などない。


抑え込む必要もない。


怒りを抱いたまま。


憎悪を燃やしたまま。


その中心で、思考だけを冷たく保つ。


右手首の神装が強く脈動した。


——概念操作、起動。


一つ目。


荒れ狂う魔力の流れを捉え、正しい経路へ導く。


二つ目。


赤く染まった視界の中で、干渉する対象と範囲を定める。


三つ目。


脳裏に響く一華の声を聞きながら、別の概念を重ねる。


そして。


——四つ目。


四重概念操作が怒りの中で、同時に起動した。


零の全身から、漆黒の魔力が溢れ出す。


それまで制御を失い、激しく荒れ狂っていた魔力が四つの概念に沿って、安定した循環を始めた。


リリスの深紅の瞳が僅かに見開かれる。


零の怒りは、消えていない。


むしろ、三日前よりも強く、全身を焼いている。


それでも。


燃え盛る炎の中心で、零の思考だけは氷のように冷たかった。


怒りを消すのではなく。


怒りに支配されるのでもない。


自らの怒りを受け入れ、力として支配する。


相反する二つの状態を、零は初めて両立させていた。


五秒。


十秒。


十五秒。


漆黒の魔力が乱れることなく循環を続ける。


二十秒。


零の額から、汗が流れ落ちる。


全身が限界を訴えている。


それでも、四つの概念は崩れない。


二十五秒。


三十秒。


そして、三十二秒。


「——止め」


リリスの声が響いた。


この三日間で初めて聞く、柔らかな声だった。


四重概念操作が解除される。


漆黒の魔力が霧散した瞬間、零の身体から全ての力が抜け落ちた。


両膝が床へつく。


そのまま、前へ崩れそうになる。


だが、零の口元には、薄い笑みが浮かんでいた。


リリスが零へ歩み寄る。


白銀の髪を揺らしながら、目の前へしゃがみ込んだ。


深紅の瞳が、疲労に濁った零の金色の瞳を真正面から覗き込む。


「……三十二秒」


リリスの口元が僅かに緩んだ。


「怒りの中で、四重概念操作を維持」


零は、荒い呼吸を繰り返しながらリリスの言葉を待った。


「——合格よ」


その声は小さかった。


三日間、零を何度も撃ち抜いた魔王と同じ人物とは思えないほど確かに、温かかった。

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