第八十七環 「真紅の閃光」
——午前。魔王城・訓練場。
朝食を終えた零はリリスと共に訓練場へ向かった。
四座たちは、三日後に迫る侵攻へ備え、それぞれの準備に散っている。
ルシアは、ダッカの苦痛転写を攻略するための魔法陣と結界の調整。
クオンは、シュウ・ザムダとの戦いへ向けた武具の点検と、起源回帰の制御。
シエラは、メツの斬撃を射程外から見切るため、斥候が持ち帰った戦闘記録の確認。
レイラは、ドゥ・マーガの未来固定へ対抗するための幻術研究。
三日後、全員がそれぞれに割り当てられた敵と対峙する。
零とリリスが中へ入ると訓練場の重い扉が、背後で閉じられた。
二人きり。
広大な空間に、リリスの白銀の髪だけが静かに揺れていた。
深紅の瞳が、零を真っ直ぐに見つめている。
「さて——始めるわよ」
リリスが、零へ向かって歩き出す。
黒と赤を基調とした魔王の装束が揺れ、妖艶でありながら、圧倒的な存在感が空間を満たしていく。
「まず、確認しておくわ」
零の正面で足を止める。
「あんたが、あの王のことを思い出した時。身体に、どんな変化が起きる?」
零は、すぐには答えなかった。
自分の身体に何が起きているのか。
記憶を辿りながら、一つずつ言葉にしていく。
「……心拍が上がる」
一華を殺した王の顔。
玉座から全てを見下ろしていた、冷たい瞳。
それを思い出しただけで、今も胸の奥に熱が生まれる。
「視界が狭くなる。手が震える。それから、全身の魔力が、制御を無視して暴走しかける」
零は正直に答えた。
リリスを相手に、虚勢を張っても意味はない。
些細な変化を隠したままでは、訓練そのものが成立しない。
「概念操作の精度は?」
「——落ちる」
零は右手を見下ろした。
「大幅に。四重操作どころか、二重操作すら、維持できるか怪しい」
怒りによって魔力の出力だけは上昇する。
だが、概念操作に必要なのは、単純な力ではない。
複数の概念を正確に認識し、干渉させる対象と範囲を定め
、それぞれを同時に制御する集中力。
怒りで思考が塗り潰されれば、その精度は一気に失われる。
リリスは予想していたように頷いた。
「そう。なら、今から、あんたを怒らせる」
零の目が僅かに見開かれた。
「……俺を?」
「ええ」
リリスは、何でもないことのように答える。
「私が、あんたの怒りを限界まで引き出す」
深紅の瞳が鋭い光を宿した。
「その状態で、概念操作を維持しなさい」
怒りを鎮めてから力を使うのではない。
怒りに呑まれかけた状態のまま、冷静な思考だけを手放さず、概念を操る。
「維持できなかったら——」
リリスが片手を持ち上げた。
細い指先に深紅の光が灯る。
最初は、針の先ほどの小さな光だった。
だが次の瞬間には、周囲の魔力を貪るように吸い込み眩い輝きへ膨れ上がる。
光の中心では、圧縮された魔力が激しく渦巻いていた。
深紅の輝きがリリスの白い肌を照らし、訓練場の壁と床を血に濡れたような色へ染め上げる。
空気が震える。
肌を焼く熱と圧力が、離れた零のもとまで押し寄せた。
リリスの指先で瞬くそれは、魔力の塊というより、凝縮された真紅の閃光だった。
「容赦なく叩く」
零は小さく唾を飲み込んだ。
彼女が言う「叩く」が比喩ではないことは、指先で脈打つ光を見れば明らかだった。
「……どうやって、俺を怒らせるつもりだ?」
「簡単よ」
リリスは真紅の光を灯したまま零の正面へ立った。
二人の距離が、僅かに縮まる。
深紅の瞳が零の金色の瞳を、真正面から射抜いた。
そしてリリスの纏う空気が変わった。
精神へ直接干渉したわけではない。
幻術を使ったわけでもない。
ただ、その声から感情が消えた。
温度のない、残酷な声。
零の記憶に刻まれた、あの王を思わせる声。
「——天津零」
自分の名を呼ばれた瞬間、零の心臓が、大きく跳ねた。
「お前の妹は、お前の目の前で」
リリスが、一つずつ傷を抉るように言葉を並べていく。
「お前が何もできない間に——」
零の身体が硬直した。
金色の瞳が、一瞬で濁る。
心臓が激しく脈打つ。
全身を巡る血液が、沸騰したように熱を帯びた。
視界の端が赤く染まっていく。
指先が、小刻みに震え始める。
胸の奥から、抑えきれない殺意が溢れ出す。
リリスは零の変化を見逃さなかった。
「——概念操作」
深紅の瞳が、鋭く細められる。
「維持しなさい。今すぐ」
命令。
零の感情へ呑み込まれない、絶対的な声。
零は、奥歯を強く噛み締めた。
右手首の神装——夢幻抱擁が、脈打つように光を放つ。
概念操作、起動。
だが。
「……っ」
指先の震えが止まらない。
魔力の流れが荒れ狂い、定めたはずの経路から次々と逸れていく。
一つ目の概念は、辛うじて捉えられた。
しかし、二つ目を重ねようとした瞬間、思考が一華の記憶に塗り潰される。
二重概念操作すら、形にならない。
「——遅い」
リリスの指先が僅かに動いた。
直後。
真紅の閃光が、一直線に訓練場を駆け抜けた。
発射音すら、光の後から追いついてくる。
視界を深紅に塗り潰した一条の光が回避する間もなく、零の胸を捉えた。
「——ッ!」
爆発ではない。
一点へ極限まで圧縮された衝撃が、零の身体を正面から貫いた。
胸元から真紅の光が弾け、遅れて轟音と灼熱の風が訓練場を揺らす。
零の身体は床から浮き上がり、壁へ向かって一直線に吹き飛ばされた。
背中から壁へ叩きつけられる。
石壁が低く震え、衝突した場所から蜘蛛の巣状の亀裂が広がった。
肺から空気が押し出され、全身へ激痛が走る。
だが、その痛みが、逆に零の意識を現実へ引き戻した。
頭の中を覆っていた怒りの靄が僅かに薄れる。
リリスは、床へ崩れ落ちた零を見下ろしていた。
「立ちなさい」
挑発的な笑みを浮かべたまま、再び指先へ真紅の光を集める。
「もう一回よ」
その表情に、甘さはない。
零が怒りを支配できるようになるまで、何度でも繰り返す。
挑発的に。
そして、どこまでも容赦なく。
「何度でもやるわよ」
リリスの笑みは、圧倒的な余裕に満ちていた。
「あんたが、怒りの中でも概念操作を維持できるようになるまで」
零は壁へ片手をつき、ゆっくりと身体を起こした。
背中に走る痛みに耐えながら、口元を手の甲で拭う。
僅かに滲んだ血。
口の中には、鉄の味が広がっていた。
それでも、零は立ち上がる。
膝が震えている。
荒くなった呼吸も、まだ整っていない。
だが、リリスを見据える金色の瞳に、折れた色はなかった。
「……もう一回」
零の言葉に、リリスの笑みが僅かに深くなった。
「いいわ」
指先に灯っていた深紅の魔力が、再び強く脈打つ。
「その意地が、いつまで続くか、試してあげる」
リリスは、再び言葉の刃を振るった。
一華の名前。
助けを求めていた、妹の声。
あの日、何もできずに拘束されていた零。
妹を取り囲んでいた兵士たちの笑い声。
そして、玉座から全てを見下ろしていた、王の嘲笑。
一つひとつの言葉が、零の胸に残る傷を、正確に抉っていく。
「……ッ」
金色の瞳が濁る。
視界が、再び赤く染まった。
怒りが。
憎悪が。
殺意が、巨大な津波となって押し寄せる。
今すぐ王を殺せ。
あの日の全てを、血で贖わせろ。
そんな衝動が零の思考を塗り潰そうとする。
だが、今度は完全に呑み込まれる前に、奥歯を噛み締めた。
右手首の夢幻抱擁が——激しく脈動する。
——概念操作。
一つ目。
荒れ狂う魔力を押さえ込み、対象を捉える。
二つ目。
視界を埋め尽くす怒りの中で、どうにか別の概念を重ねる。
「……まだだ」
さらに、三つ目。
一瞬。
三つの概念が同時に形を持った。
だが。
一華の最期の表情が脳裏を過った。
「——っ!」
集中が途切れる。
組み上げかけた三つの概念が、一斉に崩壊した。
「甘い」
再び、リリスの指先が、深紅に輝く。
魔力が一点へ収束し、空間そのものを焼くような光を放つ。
次の瞬間。
二射目の閃光が、赤い残像を引きながら零の身体を捉えた。
凄まじい衝撃が胸を打ち、零の身体が後方へ吹き飛ぶ。
床を何度も転がり、勢いのまま壁へ叩きつけられた。
「……がっ!」
全身へ、焼けつくような痛みが走る。
肺から押し出された空気を取り戻そうと——零が激しく咳き込んだ。
リリスは、倒れた零へ歩み寄らない。
助け起こすことも。
休む時間を与えることもなかった。
「——もう一回」
冷たい声だけが訓練場へ響く。
零は床に手をつき、三度目の挑戦へ立ち上がった。
◆
三度目。
怒りを引き出された瞬間、最初の概念すら維持できず、真紅の閃光に撃ち抜かれた。
四度目。
二重概念操作までは成功した。
だが、王の笑い声を思い出した途端、魔力が暴走した。
直後に放たれた赤い光が、零を床へ叩き伏せる。
五度目。
三つの概念を重ねることには成功した。
しかし、怒りの中でそれぞれを制御することができず、全てが互いに干渉し、崩壊した。
そのたびに、リリスの指先から真紅の閃光が迸る。
訓練場を赤く染める光。
肌を焼く熱。
着弾と同時に、全身を貫く衝撃。
床へ叩きつけられ。
壁まで吹き飛ばされ。
立ち上がった直後に、再び撃ち抜かれる。
零の身体には、少しずつ傷が増えていった。
呼吸は乱れ。
足元はふらつき。
神装を起動する右腕も、疲労で震え始めている。
それでも。
「……もう、一回」
零は立ち上がった。
何度失敗しても。
どれほど怒りに呑まれても。
身体が、これ以上は動けないと悲鳴を上げても。
金色の瞳だけは決して、リリスから逸らさなかった。
その姿を見つめるリリスの笑みからほんの僅かに、挑発の色が消える。
代わりに浮かんだのは、静かな感心。
だが、それを言葉にはしなかった。
「構えなさい」
細い指先に、六度目となる真紅の光が灯る。
その輝きが、傷だらけの零を赤く照らした。
「できるまで——終わらないわよ」
零は震える両足へ力を込め、六度目の挑戦へ向けて拳を構えた。




