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第八環 「魔界で見つけた日常」

零がふっと微笑んだ。


「——っ」


ルシアの足が、わずかに止まった。


零の金色の瞳が、柔らかく細められている。


昨日の訓練場で見せた無機質な表情とも、妹のことを語った時に浮かべていた苦痛の色とも違う。


ただ自然に零れた、穏やかな笑み。


「な……っ、何笑ってんのよ!」


ルシアは零の顔を見て、自らの頬を真っ赤にすると、勢いよく前を向いた。

その動きに合わせて、二つに結ばれた髪が大きく揺れ、零の目の前を掠める。


「別に面白いこと言ってないでしょ! ほら、ついてくる! 遅れたら置いてくからね!」


急に歩調が速くなる。


早足——というより、もはや小走りだ。


零は何も言わず、その背中を静かに追った。


◇ ◇ ◇


魔王城は、零の想像を遥かに超えて広大だった。


「ここが中央棟。魔王様の居室と謁見の間があるわ。許可なく入ったら殺されるから、気をつけなさい」


黒い石造りの廊下を歩きながら、ルシアが手際よく説明していく。


「東棟が四天王の居住区。私とシエラ、レイラ、クオンの部屋がある。あんたの部屋もこっち」


そう言って東側を指したあと、今度は反対側へ視線を向ける。


「西棟が兵舎と訓練場。昨日戦ったところね」


「地下には書庫と牢獄。初日にあんたがいたのも、地下の一室よ」


どうやら城内だけでも、すべてを把握するには相当な時間がかかりそうだった。


やがて二人は、大きな窓の前を通りかかる。


その向こうには、人界では決して見ることのできない魔界の景色が広がっていた。


ルシアが窓の外を指差す。


「城の南側が城下町。魔族の商人や職人が集まってる。北側は——」


そこで、彼女の声がわずかに低くなった。


「——魔獣の森」


窓の遥か向こう。


城の北側には、黒々とした森がどこまでも広がっている。


「あそこは四座クラスでも単独では入らない。魔王様が最初にあんたを捨てようとした場所よ」


「……なるほど」


零は遠くに見える森へ目を向けた。


魔王ですら、自分を処分する場所として選んだ森。


そして——魔王直属四座でさえ、単独では足を踏み入れない場所。


その事実だけで、あの森がどれほど危険なのかは十分に理解できた。


「……まあ、今のあんたなら近づかない方がいいでしょうね」


そう告げてから、ルシアは零へと振り返った。


真紅の瞳が、真っ直ぐに彼を捉える。


「質問があるなら今のうちに聞きなさい」


少しだけ間を置いて、彼女は付け加えた。


「……何でも答えてあげるから」


「ありがとう、ルシア。助かる」


「——っ」


ルシアの足が、また止まった。


「……は?」


一瞬、何を言われたのか分からないという顔をする。


やがて意味を理解したのか、その頬にじわりと赤みが差した。


「べ、別に……当然のことしただけだし。魔王様に任されたんだから、手を抜くわけないでしょ」


視線を逸らし、黒い魔女帽子のつばを指先で押さえる。


よく見れば、耳の先まで赤い。


「……あんたさ」


「ん?」


「そうやって、すぐ素直にお礼言うのやめなさいよ」


「どうしてだ?」


「調子狂うのよ!」


吐き捨てるように言って、ルシアは再び前を向いた。


だが、その足取りは先ほどまでの苛立った早足ではない。


ほんの少しだけ——ゆっくりになっていた。


「……ふん。まあ、分かりやすかったならいいわよ」


ちらりと肩越しに零を見る。


「次、城下町に行くわよ。ついてきなさい」


その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。


◇ ◇ ◇


城門を抜けると、魔界の城下町が広がっていた。


黒い石畳の通り。


軒先には赤い灯火が連なり、店々から威勢のいい声が飛び交っている。


角を持つ者。


背中に翼を生やした者。


人間より遥かに大柄な者もいれば、逆に子供ほどの背丈しかない者もいる。


肌の色も、瞳の形も、種族も様々だった。


人界とはまるで違う光景に、零は静かに視線を巡らせる。


その途中——ふと、一枚の張り紙が目に留まった。


通り沿いの石壁。


いくつもの告知が並ぶ中、ひときわ大きな紙に、剣を交える二人の魔族が描かれている。


その上には、大きく『公開武闘会』の文字。


——開催、二日後。


零は数秒だけその張り紙を眺めた。


「……武闘会?」


聞き慣れた言葉を小さく口にする。


だが、今はそれ以上気に留めることもなく、再び歩き出した。


まさか二日後。


自分がその舞台に立つことになるとは、この時の零はまだ知る由もなかった。


◇ ◇ ◇

 


「ここが魔王城直轄の城下町。食料品、武具、魔道具……大抵のものは揃うわ」


ルシアが歩きながら説明する。


すれ違う魔族たちは彼女の姿を認めるたび、足を止めて頭を下げていた。


昨日は零に散々悪態をついていた少女。


だが、ここでは魔王直属四座《クアトリア》の一角。


彼女が魔族たちから相応の敬意を払われる存在なのだと、零は改めて理解した。


——そして。


当然、そのルシアの隣を歩く零にも視線が集まる。


好奇。


困惑。


そして——明確な警戒。


「……気にしないの」


ルシアが前を向いたまま言った。


「人間を見るのが初めての奴がほとんどだから」


「そうか」


零は短く答えると、そのまま歩き続けた。


視線は自然と周囲へ向かう。


人界の商店街とはまるで違う。


青白い光を放つ鉱石。


毒々しい色をした果実。


魔獣の牙や角を加工した装飾品。


瓶の中で勝手に蠢く、用途すら想像できない何か。


人界では決して見ることのできないものばかりだった。


それでも零は、周囲から向けられる視線に動じる様子もなく歩いていく。


そんな彼を、ルシアが横目で見た。


「……ふん。肝は据わってるわね。普通の人間なら、この空気だけで泣き出すわよ」


「そういうものか?」


「そういうものよ」


ルシアが零を見上げる。


そして、自分より頭一つ近く高いことが気に入らないのか、なぜか少しだけ眉を寄せ、ただでさえ伸びている背筋をさらに伸ばした。


「あっちが武具店。魔王軍の装備もあそこで手入れしてもらってる。あんたも必要なものがあれば——」


その時だった。


「——おい、あれ」


通りの隅から声が聞こえた。


「人間じゃないか?」


「マジかよ。なんで四座様と一緒に……」


「しかもガキじゃねえか。食料か?」


数人の魔族がこちらを見ながら囁き合っていた。


体格がよく、いかにも荒事に慣れていそうな風貌だ。


零は特に反応しなかった。


だが——。


ルシアの足が止まる。


「——聞こえてんのよ」


空気が変わった。


先ほどまでの少女らしい雰囲気が消える。


真紅の瞳が鋭く細められ、その指先に小さな炎が灯った。


ほんの小さな火。


だというのに、周囲の温度が一気に上がったような錯覚を覚える。


「い、いや……すんません、ルシア様……」


男たちの顔色が変わった。


「次はないわよ」


「は、はい!」


蜘蛛の子を散らすように、魔族たちは逃げていった。


ルシアは小さく息を吐き、指先の炎を消す。


「……あんなの、気にしなくていいから」


「ルシア」


「何よ」


彼女は何でもないことのように、再び歩き始めた。


「私がいる間は、誰にもあんたに手は出させないわ」


それだけ言って、こちらを振り返ることはない。


四座として、リリスから命じられた役目を果たしているだけなのだろう。


少なくとも——今は、それで十分だった。


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