第七環 「復讐だけの筈だった」
「ま、魔王様!!」
珍しく下座に降りてくるリリスに、ルシアが硬直する。
「あー……リリスさまぁ……おつかれさまでーす……」
シエラはふらふらと手を振った。
リリスは空になった酒瓶を見渡し、額に手を当てる。
「……シエラ、あんた何本飲んだの」
「わかんない……」
「はぁ……明日の会議、二日酔いで来たらぶっ飛ばすからね」
呆れたように言ってから、リリスの視線が零へ向く。
「……で、あんたは平気そうね」
「まあ、意外と、な」
零の隣の椅子を引き、当然のように腰を下ろした。
「あの神装、毒も消すんでしょ。便利なもんね」
訓練場での——あの一瞬の抱擁については、何も触れない。
「私にも一杯」
零は酒瓶を手に取った。
「あら、魔王様もご一緒に? 珍しい」
レイラが興味深そうに二人を見る。
ルシアは何となく面白くない気がして——すぐにその考えを振り払った。
リリスが酒杯を受け取り、一口含む。
「……ん、悪くない」
零が警戒した瞳でリリスを見つめる。
「ただ、酒を飲みにきた訳じゃないんだろ、魔王様」
リリスは真紅の瞳をわずかに開き、零へと視線を流す。
「へぇ、鋭いじゃない」
酒杯を置き、白銀の髪を肩の後ろへ流す。
「まあ、そうね。ちょっと確認しておきたいことがあって」
声のトーンが変わった。
先ほどまでの気安さを残しながら、その奥に魔王としての鋭さが宿る。
「零。今日、うちの四座全員と戦ったでしょ。それで、あんたの実力——大体分かった」
酒杯の縁を指先でなぞる。
「で、聞きたいのは一つ」
深紅の瞳が零を射抜いた。
「あんたの神装——今日見せたのが力の全部じゃないわよね」
零は答えない。
「弱体化とブースト。それだけで、神装を名乗るには——ちょっと足りない。神装、またの名を《神の理を穿つ、人のみに許された装》。その言葉通りの力なら……今日のは、ほんの序の口ってことでしょ」
酒杯を傾ける。
「別に今、全部喋れとは言わないわ。あんたにも切り札を晒したくない理由なんかもあるんだろうし。ただ——」
リリスが零へ少しだけ身体を寄せた。
「——ただ、いざって時は、私にだけは見せなさい」
その声に、先ほどまでとは違う重みが宿る。
命令ではない。
「それが今聞かないであげる条件」
信頼を求めているのだ。
零は少しだけ考え——頷いた。
リリスの口元が僅かに緩む。
「——よし」
酒杯を掲げ、零のグラスへ軽く触れさせた。
澄んだ音が響く。
「約束ね」
威圧はなかった。
魔王と部下。
それだけではない。
互いにまだ全てを知らない二人が交わした、小さな契約だった。
「——さて」
リリスが再び零に向き直る。
「明日から、あんたには本格的に魔王軍として動いてもらうわ。そんで、まずは魔界のことを知ってもらう。地理、勢力図、人界との関係。復讐するにしても、何も知らないまま突っ込むのはダサいでしょ」
指を一本立てる。
「明日、ルシアに案内させる。魔王城と周辺の説明」
「——えっ!? 私!?」
驚くルシアにリリスは眉を顰める。
「だって、あんたが一番真面目にやるでしょ。文句ある?」
「それは……ないですけど……別に……」
「決まり」
リリスは最後の一口を飲み干し、立ち上がった。
そして零の肩を軽く叩く。
「今日はゆっくり休みなさい。部屋は用意させてあるから」
数歩進み——振り返る。
「——おやすみ、零」
白銀の髪を翻し、リリスは食堂を去っていった。
「……魔王様、随分ご機嫌じゃない。珍しいこともあるものね」
レイラがくすりと笑う。
「……明日」
ルシアが零を見る。
「ちゃんと来なさいよ。遅刻したら許さないから」
「……飯、美味かった。おやすみ」
最後まで食べ続けていたクオンも席を立つ。
やがて、騒がしかった食堂から一人、また一人と姿が消えていった。
零は椅子に座ったまま、空になった皿を眺める。
笑い声。
くだらない言い争い。
酒に酔って絡んでくる女。
黙って肉を分けてくる奴。
昨日まで敵だったはずの魔族たち。
なのに——。
「……悪くないな」
小さく呟いた。
こんな食卓を囲んだのは、いつ以来だろう。
少なくとも、人界へ召喚されてからの一年間は一度もなかった。
復讐のため。
零が魔王軍に加わった理由は、それだけだ。
——そのはずだった。
◇
天津零は案内役の魔族に礼を言い、部屋の扉を閉めた。
静寂が訪れる。
部屋は広かった。
天蓋付きの大きなベッド。黒檀のデスク。燭台に灯された青白い炎。
窓の向こうには、人界とは異なる赤みを帯びた月が浮かんでいる。
昨日まで与えられていた、牢に近い簡素な部屋とは比べ物にならない。
——幹部待遇。
たった一日で、捕虜から幹部へ。
零はベッドの端に腰を下ろした。
柔らかなシーツが身体を受け止める。
こんなまともな寝具に触れるのは——いつぶりだろう。
人界では、固い板の上に薄い布一枚だった。
零は天井を見上げる。
——一華。
胸の奥が疼いた。
リリスに語った時の、あの痛みが蘇る。
だが、零は目を閉じ、それを押し込めた。
感傷に浸っている暇はない。
明日から魔界を知る。
地理。
勢力。
人界との関係。
復讐を果たすために必要なものを、一つずつ手に入れていく。
そして——リリスとの約束。
いざという時は、全てを見せる。
「……」
食堂での光景が脳裏を過った。
シエラの笑い声。
怒鳴るルシア。
意味ありげに笑うレイラ。
肉を差し出してきたクオン。
そして——リリス。
零は小さく息を吐いた。
魔界の夜は深い。
人界とは違う、どこか重い静けさの中で、一人の少年——天津零は異世界から召喚されて初めて、安らかな眠りに落ちた。
◇
翌朝。
扉を叩く激しい音で目が覚めた。
「——ちょっと! 起きてるの!? 遅刻しないでって言ったわよね!?」
聞き覚えのある声。
扉を叩かれるまで、深く眠っていた。
こんなに深く眠ったのは、いつ以来だろうか。
「三秒以内に返事しなかったら蹴破るわよ!」
零が返事をすると、扉の向こうで僅かに足踏みする音がした。
「……ふん。分かってるならいいわよ」
手早く身支度を整え、扉を開ける。
ルシアが腕を組んで立っていた。
黒い魔女帽子。
黒マントに黒いスカート、そして、黒タイツ。
十字架のピアスが揺れ、赤いツインテールが肩へ流れている。魔導士としての正装だろうか。
真紅の瞳が零の頭を一瞥し——止まった。
「……あんた、寝癖」
黒髪の一房が跳ねていた。
ルシアが零の頭頂部を指差し、指を振ると魔術で寝癖が解かれる。
「……行くわよ」
くるりと背を向ける。
「今日は魔王城の全体構造と、城下町、それから周辺の地理を一通り教えるから。ちゃんと覚えなさいよ。一回しか言わないから」
早足で廊下を進む。
しばらくして——その足が少しだけ遅くなった。
「あと——昨日のこと」
「……?」
「別に、気にしてないから」
ルシアは振り返らない。
「シエラがくっついてたのとか、魔王様が隣に座ったのとか。全然。別に。何も。何とも。思ってないし」
やけに早口だった。
零は首を傾げる。
「……何の話だ?」
「——っ!」
ルシアの肩が跳ねた。
「な、何でもないわよ!!」
勢いよく振り返る。
その頬は、僅かに赤かった。
「ほら、行くわよ! まず城下町から!」
「城の説明は?」
「うるさい!」
朝の魔王城に、ルシアの声が響いた。




