第八十五環 「怒りを支配せよ」
——朝。魔王城・会議室。
「それはもちろん、保証できない」
零の答えはどこまでも正直だった。
会議室へ、重い沈黙が落ちる。
ルシアが唇を噛み、シエラが目を伏せる。
クオンは胸の前で、腕を組み直した。
レイラだけが零の横顔を、静かに見つめている。
零はテーブルに広げられた地図へ視線を落としたまま、言葉を続けた。
「あの王を目の前にして、最後まで冷静でいられるか。正直、俺にも分からない」
金色の瞳が見ているのは地図ではなかった。
脳裏に焼きつき、決して消えることのない過去。
「一華が、俺の目の前で」
言葉が僅かに途切れた。
「あの兵士たちに囲まれて。何もできない俺の目の前で、殺された」
王の力によって、身体の自由を完全に奪われていた。
助けを求める妹の声を聞きながら、指一本動かすことができなかった。
「その間、あの王は玉座から笑って見ていた」
零の声は、震えていなかった。
むしろ、不自然なほど平坦だった。
感情を切り離さなければ、口にすることすらできない記憶。
「思い出すだけで全身が沸騰する」
握り締めた拳へ、さらに力が込められる。
「視界が赤くなる。あの王を殺したいという衝動だけでほかの全てが消える」
リリスの深紅の瞳が細められた。
怒りでも、失望でもない。
零が自分自身の弱さを、どこまで理解しているのか。
その覚悟も含めて静かに見定めていた。
「……そこまで分かっていて、自分が本命として王の前へ立つつもり?」
「ああ」
零は顔を上げた。
金色の瞳がリリスを真っ直ぐに見返す。
「冷静でいられる保証はできない。だが、俺以外にあの王を殺せる人間はいない」
永劫支配に対する耐性。
夢幻抱擁との相性。
そして、王がどのように人の心を操り、利用するのかを知っている経験。
「全部、俺にしかない」
「だからって!」
ルシアが堪えきれずに声を上げた。
「冷静さを失うって分かってる状態で、あんたを王の前に立たせるなんて——」
「黙れ、ルシア」
クオンの短い言葉がルシアの声を遮った。
決して大きな声ではなかった。
だが、そこには有無を言わせない重さがあった。
ルシアが不満そうにクオンを睨む。
それでも、今は言葉を呑み込み静かに口を閉ざした。
クオンはルシアから視線を外すと、零へ向き直った。
二人の瞳が正面から交差する。
「……零」
戦士としての、純粋な問いだった。
「お前は、怒りで動く時強くなるのか。それとも、弱くなるのか」
零は、すぐには答えなかった。
自分が怒りに呑まれた時、どのように戦うのか。
これまでの戦いを思い返し、僅かに考える。
そして、正直に答えた。
「……弱くなる」
クオンの瞳が僅かに細められる。
「概念操作は、冷静に思考できなければ精度が落ちる。怒りに呑まれれば、細かい操作ができなくなる」
破壊。
停止。
認識。
複数の概念を同時に操るためには、常に戦況を把握し最適な力を選択し続けなければならない。
「怒りに任せたら、力押ししかできなくなる。あの王を相手に、それは致命的だ」
「なら、答えは出ている」
クオンが静かに席を立った。
その巨大な体躯が、椅子に座った零を見下ろす。
「お前が冷静でいられないのなら私が隣にいる」
迷いのない言葉だった。
「お前が我を忘れたら、私が殴る」
「……殴るのか」
「ああ」
クオンは当然のことのように頷いた。
「正気に戻るまで殴る。それだけだ」
あまりにも単純な答え。
だが、どこまでもクオンらしい答えだった。
零が自分を見失うのなら、言葉で説得する必要などない。
拳を交え、無理やりにでも正気へ引き戻す。
これまで幾度も戦ってきた二人だからこそ、成立する方法だった。
「……私も」
シエラが小さく手を挙げた。
水色の髪が、肩の上で揺れる。
「番が暴走しそうなら止めるのが、番の役目でしょ」
先ほどまでの不安は、青い瞳から消えていた。
代わりに宿っているのは零と共に戦う覚悟。
「上空から、ずっと零を見てる。少しでも危なくなったら、すぐに駆けつける」
王を城外へ誘い出すことができれば、王城上空の飛行無効化結界も届かない。
竜族最速のシエラなら、離れた場所からでも瞬時に零のもとへ駆けつけられる。
「もし結界の範囲内だったとしても関係ない」
シエラの青い瞳が、強い光を宿す。
「飛行無効化がなんだろうと、私は突っ込む。零を一人にはさせない」
「——っ。……私だって」
ルシアが、膝の上で拳を握った。
真紅の瞳に浮かんでいた恐怖は既に消えている。
代わりに宿っているのは、二人と同じ決意だった。
「私の結界で守る」
魔界最強の魔導師として。
そして、零へ魔術を教えた者として。
「零が王と向き合っている間、余計な横槍は全部、私が弾く」
王がどのような兵士を用意していても。
四聖剣の誰かが、王の傍に残っていたとしても。
「零は王だけに集中すればいい」
三人の視線が、零へ集まる。
一人で王と戦わせるつもりなど、最初から誰にもなかった。
「……私は——」
最後に、レイラが静かに口を開いた。
緑色の瞳が零を真っ直ぐに見つめる。
「零の精神を守る」
レイラの声は静かだった。
だが、そこには四座としての確かな意志が宿っている。
「あの王の精神干渉は私の幻術で相殺する」
永劫支配が零の心へ入り込もうとした瞬間、その干渉を見つけ出し幻術によって打ち消す。
王の支配から守るだけではない。
「零が怒りに呑まれそうになったら私が内側から引き戻す」
クオンが拳で身体を止めるのなら。
レイラは、精神の内側から零の意識を呼び戻す。
「どれだけ深いところに落ちても、必ず見つけるから」
緑色の瞳が零だけを見つめていた。
かつてのような、相手を試す色はない。
存在を失いかけた自分を、零が記憶の底から引き戻してくれた。
今度は自分が零を連れ戻す。
その覚悟が、真っ直ぐな眼差しに表れていた。
零はゆっくりと息を吐いた。
胸の奥が、熱い。
自分一人で始めたはずの復讐だった。
誰かに理解してもらおうとは思っていなかった。
王を殺すためなら最後は一人で戦い、一人で死ぬことさえ受け入れていた。
だが、今は違う。
「……お前ら」
それ以上の言葉が出てこなかった。
何を言っても、この感情を正しく表せる気がしない。
クオンは拳で。
シエラは翼で。
ルシアは結界で。
レイラは幻術で。
零が復讐の炎に呑まれないよう、それぞれの方法で支えると告げてくれた。
「——ふぅん」
リリスが僅かに笑った。
深紅の瞳が、四天王を順番に見渡していく。
「随分と頼もしいことを言うようになったじゃない」
ルシアたちの表情が僅かに緩んだ。
だが、リリスはすぐに魔王としての顔へ戻る。
「ただし、勘違いしないこと」
鋭い声が、会議室へ響いた。
「四聖剣を各地へ分散させる以上、あんたたち四人にもそれぞれ別の戦場へ向かってもらう」
四聖剣を王城から引き離すだけでは意味がない。
各地へ派遣された四人を確実に足止めし、可能ならばその場で撃破する必要がある。
「最初から全員で、零の傍にいられるわけじゃない」
ルシアたちも、その事実は理解していた。
「零を支えたいなら、自分の前に現れた四聖剣を倒しなさい」
リリスの深紅の瞳が四座を射抜く。
「生きて勝って、零のもとへ合流する。それがあんたたちの役目よ」
「……承知した」
最初に答えたのは、クオンだった。
シエラとルシアも真剣な表情で頷く。
レイラの指先だけが僅かに震えたが、それでも目を逸らすことはなかった。
リリスは、テーブルに広げられた地図へ向き直る。
「作戦の骨子は決まりね」
指先が地図上にある四つの拠点を順番に示す。
「魔王軍が複数の拠点を同時に攻撃し、四聖剣を王城から分散させる」
続いて、王城から離れた平野へ指を移す。
「零が侵攻の先頭に立ち、自分自身と夢幻抱擁を餌に、王を城外へ引きずり出す」
四座は、各地で四聖剣を迎え撃つ。
零は王と対峙する。
「四天王はそれぞれの相手を撃破した後、零の戦場へ合流。王を討ち、人界攻略を終わらせる」
現時点では、まだ大まかな方針にすぎない。
攻撃する拠点。
投入する兵力。
四座の配置。
侵攻を開始する日時。
決めなければならないことは、まだいくつも残されている。
それでも、復讐へ至る道筋は初めて明確な形を持った。
リリスは椅子から立ち上がる。
白銀の髪が、肩の上で揺れた。
「ただし、最大の不確定要素が残っている」
地図に描かれた王城を、細い指先で叩く。
「第五席」
確認されている四聖剣は、第一席から第四席まで。
だが、王がまだ誰かを隠している可能性は高い。
その正体も。
能力も。
そもそも本当に存在するのかさえ、現時点では分かっていない。
「こいつだけは、あまりにも情報が足りない」
リリスの目元に、再び僅かな疲労が滲む。
それでも、立ち止まるつもりはなかった。
「帰還した二十四組の精査が終わり次第、信頼を確認できた斥候から、追加の偵察隊を編成する」
目的は、第五席に関する情報収集だけに限定する。
王城へ無理に近づかせず、噂や軍の移動記録、四聖剣に関する過去の目撃情報を集める。
「明日までに、少しでも情報を増やすわ」
そして、リリスは零を見た。
「あとは、あんたよ」
「俺?」
「自分で言ったでしょう。王を前にすれば、怒りに呑まれるかもしれないって」
深紅の瞳が、零の金色の瞳を捉える。
「仲間に止めてもらうのは、最後の手段よ。最初から暴走する前提で戦場へ出すつもりはない」
怒りを消す必要はない。
一華を奪われた怒りこそが、零をここまで進ませた原動力なのだから。
だが、その炎に自分自身まで焼かれてしまえば、王には届かない。
「怒りを抑え込むんじゃない」
リリスの唇が、僅かに笑みを描いた。
「支配して、力に変えなさい」
零の金色の瞳が僅かに細められる。
「そのための訓練を、今日から始めるわよ」




