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第八十二環 復讐の朝


——朝。魔王城・零の自室


目を覚ました時、三方向から伝わる体温が、まだ零の身体を包んでいた。


左腕には、レイラ。


黒いネグリジェの肩紐がずれ落ち、白い肩が露わになっている。


零の腕を抱き枕のように抱え込み、安らかな寝息を立てていた。


右腕には、ルシア。


下ろされた黒みがかった赤い髪が、零の肩へ広がっている。


キャミソールの裾が捲れ上がり、露わになった腹部が零の脇腹へ密着していた。


眠っているにもかかわらず、眉間には僅かに皺が寄っている。


それでも、離さないとでもいうように、零の腕を強く掴んでいた。


そして、胸の上にはシエラ。


髪が零の首筋へ絡みつき、下着だけの上半身が胸元へ押しつけられている。


黒い角が零の顎に触れそうなほど近い。


その寝顔は、どこまでも穏やかだった。


番の傍で眠ったことで荒れかけていた竜の本能が、完全に安らいでいる。


零は三人を起こさないまま天井を見つめた。


今日は作戦会議。


人界攻略。


復讐。


そして、あの王を殺す。


金色の瞳が一瞬、暗く沈んだ。


一華の顔が、脳裏を過る。


あの日の悲鳴。


妹を取り囲んでいた兵士たちの笑い声。


そして玉座から全てを見下ろしていた、王の冷たい目。


——待ってろ。


零は静かに身体を起こそうとした。


だが、三方向からの拘束が、それを許さなかった。


「……んー……あと五分……」


寝ぼけたシエラが、零の胸へ顔を埋め直した。


頭が動いたことで、角の先端が零の鎖骨へ当たる。


「……動くな……」


今度は、右側から声が聞こえた。


ルシアが無意識に零の腕を引き寄せ自分の胸元へ抱え込む。


柔らかな感触が——零の腕へ直接伝わった。


「…………」


レイラだけは既に目を覚ましていた。


緑色の瞳が、至近距離から零を見上げている。


「……おはよう、零」


「……おはよう。起きてたのか」


「……少し前から」


レイラは零の腕を抱いたまま小さな声で続けた。


「でも……動きたくなかった」


素直な言葉だった。


いつものレイラなら、何か理由をつけて取り繕っていただろう。


冗談を口にするか、挑発的な笑みで誤魔化していたはずだ。


だが零の前では、もうそれをしなかった。


自分が傍にいたいと思っていることを、隠そうとはしない。


零は小さく息を吐いた。


「……会議がある。起きないと」


「……うん。分かってる」


そう答えながらも、レイラは離れなかった。


零の服を掴む指にも、僅かに力が込められている。


昨日までなら、零も強くは言わなかっただろう。


だが、今日だけは違う。


人界攻略の方針を決める、重要な会議が待っている。


零はもう一度だけ息を吐くと、二人へ呼びかけた。


「ルシア。シエラ。起きろ」


声量は抑えている。


だが、その声には眠気を許さない、明確な意志が込められていた。


「——っ!?」


ルシアが勢いよく跳ね起きる。


「な、何よ! 朝から大声出さないでよ!」


反射的に言い返した直後自分の格好を見下ろした。


捲れ上がったキャミソール。


零へ密着していた身体。


そして——自分の胸元へ抱き込んでいる、零の腕。


それらを順番に確認したルシアの顔が一瞬で真紅に染まった。


「あ、あんたが動くから、変な体勢になったんだからね!」


「俺は動いてない」


「う、うるさい! 細かいことはどうでもいいのよ!」


ルシアは慌てて零の腕を解放すると、捲れ上がっていたキャミソールの裾を引き下ろした。


その隣ではシエラが眠たげに目元を擦っている。


「……えー……もう朝? 嘘でしょ……」


のんびりと身体を起こす。


下着だけの上半身を隠す様子もなく大きな欠伸を漏らした。


零は、ようやく自由になった上半身を起こす。


レイラの指だけはまだ、零の服を掴んでいた。


「——作戦会議だ。準備しろ」


零の声が静かに、だが重く響いた。


その一言で、部屋の空気が変わる。


三人が同時に零の顔を見た。


金色の瞳に浮かんでいるのは、冷たい光。


昨夜、三人の温もりに包まれていた時の穏やかさとは違う。


そこにいるのは全てを奪った人間たちへの復讐を誓った男だった。


ルシアが、真剣な表情で頷く。


「……ええ。分かってるわ」


シエラも眠気の残っていた表情を引き締めた。


「……了解。今日はちゃんとやるから」


シエラの青い瞳は珍しいほど真剣だった。


昨夜、ルシアと交わした言葉が今も胸の奥に残っている。


これ以上、零とクオンに置いていかれないために。


零の番としてその隣に立ち続けるために。


今日の作戦会議が終わったら、自分たちも動き出す。


その決意がシエラの瞳には、はっきりと宿っていた。


「……私も、準備する」


レイラが零の服を掴んでいた指を、そっと離した。


名残惜しそうに零の腕へ視線を落としてから、静かにベッドを降りる。


乱れていたネグリジェの裾を直し扉へ向かう。


だが、数歩進んだところで足を止めた。


レイラは零を振り返る。


「……零。会議室で」


「ああ」


短い返事を聞くとレイラは僅かに微笑んだ。


三人は、それぞれ身支度を整えるため零の部屋を後にする。


シエラが大きな欠伸を噛み殺しながら廊下へ出て、その後をレイラが追った。


最後に残ったルシアは、扉の前で一度だけ振り返る。


「……」


何かを言いかけるように、唇が僅かに開いた。


だが結局、言葉にはしなかった。


真紅の瞳で零を見つめた後、そのまま静かに扉を閉める。


部屋に静寂が戻った。


窓から差し込む魔界の薄い朝日が、室内を淡く照らしている。


先ほどまで三人が眠っていたベッドにはそれぞれの温もりが、まだ残されていた。


零は一人、右手へ視線を落とす。


手首に装着された神装——夢幻抱擁《ウロボロスサーキット》。


腕輪が、朝の光を受けて鈍く輝いていた。


今日、決まる。


人界へ進むための道筋。


自分から全てを奪った者たちへ辿り着くための最初の一歩。


これまで胸の内にしか存在しなかった復讐の輪郭がようやく、現実のものとして形を持つ。


王を殺す。


妹の仇を討つ。


そのために魔王軍と共に、人界へ攻め込む。


零は右手を固く握り締めると、ベッドから立ち上がった。


迷いはない。


いつまでも過去に囚われ、立ち止まっているつもりもない。


復讐を果たすために必要な力は、確かに手に入れてきた。


だが、まだ足りない。


人界の王がどれほどの力を隠しているのか。


四聖剣が、どこで待ち構えているのか。


零は窓の外へ一度だけ目を向けると、作戦会議へ向かうため、静かに身支度を始めた。


 ◆


——朝。魔王城・会議室。


六つの席が全て埋まっていた。


長いテーブルの上座にはリリス。


その左右に四座が座り、末席には零がいる。


まだ朝食も済ませていない、早朝の会議。


窓から差し込む薄い光が室内を照らしているが、漂う空気は重かった。


リリスの白銀の髪が肩へ流れている。


深紅の瞳は、テーブルに広げられた人界の地図を何度も彷徨っていた。


その目元には薄い隈が浮かんでいる。


珍しいことだった。


魔王であるリリスが、他人の前で疲労を見せることなど長年仕えてきた四座ですら、滅多に目にしない。


その僅かな異変に最初に気づいたのは、ルシアだった。


「……魔王様。お顔の色が——」


「大丈夫。少し寝不足なだけよ」


リリスは短い言葉で遮った。


だが、とても大丈夫には見えない。


細い指先が無意識にテーブルを叩いている。


何か思い詰めた時にだけ出る、リリスの癖だった。


昨夜までに処理した、犠牲者。


誰の記憶からも消えてしまった者たちの身元を、自分の記憶だけを頼りに一人ずつ割り出した。


遺族への対応を終え、城内の警備を再編し、ほとんど眠ることなく、この会議の準備を進めていた。


それでも今、リリスの思考を占めているのは、メツの襲撃ではなかった。


人界へ送り込んだ斥候。


レイラが能力と相性を見極め、五十人を二人一組に編成した——全二十五組のツーマンセル。


彼らの任務は、人界の王都へ潜入し、王城の構造と周辺の警備体制を探ることだった。


二十四組、四十八人は既に帰還している。


城壁の高さ。


兵士たちの配置。


王城へ通じる門の数。


衛兵が交代する時間。


それぞれが持ち帰った情報を組み合わせれば、人界へ侵攻するための作戦を立てるには十分な成果といえた。


だが、残る一組、二人だけが戻っていない。


斥候たちには、今回の潜入任務以外の情報を与えていなかった。


人界攻略の全容を知っているのはこの場にいる六人だけ。


仮に斥候が人界側へ捕らえられたとしても、作戦の詳細まで漏れることはない。


だが、問題は、そこではなかった。


人界の王——アルトリウス。


その神装、永劫支配《エターナルレガリア》。


精神を支配し、生物そのものを、別の存在へ作り変える力。


帰還していない二人が、既に殺されているなら脅威が城内へ入り込むことはない。


だが、もし、まだ生きているのなら。


敵の手によって、心も身体も作り変えられていたとしたら。


味方と同じ顔をした敵が何食わぬ顔で、魔王城へ戻ってくる可能性がある。


あるいは。


——既に帰還した二十四組の中に、紛れ込んでいるかもしれない。


リリスの指先が止まった。


その変化に気づき、全員の視線が上座へ集まる。


リリスは地図から顔を上げた。


「……始める前に、一つ共有しておくことがある」


深紅の瞳が一人ずつ、全員の顔を見渡した。


それは、敵を値踏みする魔王の目ではない。


信頼する者たちに危険を告げるための覚悟を込めた眼差しだった。


「人界へ送り込んだ斥候二十五組のうち、一組が、まだ帰還していない」


室内の空気が一瞬で変わった。


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