第八十一環 「焦燥の夜」
「——だから、明日の会議が終わったら……」
ルシアが零の様子を窺いながら囁いた。
シエラもまた、零へ一瞬だけ視線を向ける。
「……うん。私も、同じことを考えてた。このままじゃ」
「——置いていかれる」
「……そうだね」
零とクオン。
この数日で二人の強さは、明らかに次の段階へ踏み込んだ。
零は概念操作の精度を上げ、クオンは起源回帰の深度を増し続けている。
二人だけがほかの者たちを置き去りにするように、先へ進んでいる。
ルシアは、魔界最強の魔導師。
シエラは、竜族最速の戦士。
どちらも、四天王の名に恥じない実力者だ。
だが、このまま零とクオンが成長を続ければ、いずれ、同じ戦場に立つことすら難しくなる。
ましてや、零の隣で戦うことなど、できなくなるかもしれない。
その事実を二人とも理解しているのだろう。
リリスは、食後に運ばれてきたプリンへスプーンを差し込みながら僅かに目を細めた。
焦ってるわね、あの二人。
プリンを口へ運びながら今度は零へ視線を移す。
零は、クオンの言葉に頷きながらレイラが皿へ移した肉を、何も言わずに食べている。
その横顔には一日の疲労が滲んでいたが同時に、今日の訓練で得た確かな手応えも浮かんでいた。
あんたは気づいてる?
あの二人が、焦ってることに。
零が気づいているのかどうか、リリスには分からなかった。
だが、たとえ気づいていたとしても、きっと、今は何も言わないのだろう。
本人たちが自分で答えを見つけるまで、余計な手を差し伸べることなく、ただ待つ。
零は、そういう男だ。
そして、リリスもまた、何も言わなかった。
自分が口を挟む場面ではない。
四天王が何を思い、どのような道を選び、どう成長するのか。
それは、四天王自身が向き合うべき問題だ。
ただ、明日の作戦会議で、二人の焦りが良い方向へ転がることを、魔王として期待していた。
リリスは最後の一口を味わうと、静かにスプーンを置いた。
「ごちそうさま」
椅子から立ち上がる。
零たちへ声をかけることもなくリリスは一人、食堂を後にした。
扉が静かに閉じられる。
揺れる白銀の髪が夜の廊下の向こうへ消えていった。
その背後では、ルシアとシエラが今も何かを囁き合っていた。
明日から始まる、人界攻略。
その戦いを前に、誰もがそれぞれの思いを抱えていた。
◆
——夜。魔王城・零の自室。
戦闘の疲労が骨の髄まで染み込んでいた。
クオンの一撃は、《無窮蛇装》(ウロボロスアペイロン)越しでも重い。
衝撃を受け止め続けた全身の筋肉が今になって、悲鳴を上げている。
零がベッドへ横になった、その直後。
柔らかな重みが、隣へ沈み込んだ。
レイラだった。
身に纏っているのは、黒いレースのネグリジェ。
細い肩紐に、鎖骨から胸元にかけて薄く透ける布地。
くすんだ金色の髪が枕の上へ広がり、緑色の瞳が至近距離から零を見上げている。
「……今日も、隣にいていい?」
問いかけの形こそしているが、レイラは既に、零の隣へ横たわっている。
断られるなどとは、微塵も考えていないらしい。
その一方で、レイラの指は零の腕へ絡みつき、そこに確かに存在していることを確かめるように、僅かに力を込めていた。
「……ああ」
零が答えた、その瞬間。
扉が勢いよく開いた。
ノックはなかった。
「——零! 明日の会議の前に、確認しておきたいことが——」
部屋へ入ってきたのはルシアだった。
黒いキャミソールに、丈の短いショートパンツ。
明らかに就寝前の格好であり会議の確認など、ここへ来るための口実にすぎない。
本人は隠しているつもりなのだろうが、薄く染まった頬が、何よりも雄弁にそれを物語っていた。
そして、ベッドの上にいるレイラを見つける。
「……っ。また先にいるわけ?」
ルシアが小さく舌打ちした。
だが、もう驚いてはいない。
この光景にも、さすがに慣れてきたのだろう。
というより、レイラに負けるつもりがないだけかもしれない。
ルシアは迷うことなく、レイラとは反対側からベッドへ潜り込んだ。
キャミソールの裾を僅かに引き上げ、露わになった白い腹部を零の腕へ押し当てる。
「——私だって、零の隣にいる権利くらいあるんだから」
誰に向けた言葉なのか。
零へなのか、レイラへなのかそれとも、自分自身へ言い聞かせているのか。
それを確かめる間もなく、廊下からもう一人分の足音が近づいてきた。
「お邪魔しまーす」
今度はシエラが姿を現した。
普段は纏めている水色の髪を下ろし、黒いタンクトップにホットパンツという軽装。
引き締まった足が惜しげもなく晒されている。
部屋へ入るなり、シエラはタンクトップの裾を掴みそのまま頭から脱ぎ捨てた。
残ったのは、黒い下着だけだった。
「ん。今日も混んでるね」
シエラは気にした様子もなく、零の足元から滑り込んでくる。
そして、そのまま零の胸へ頭を乗せた。
柔らかな髪が零の首筋へ広がる。
「……角、触って」
先ほどまでの軽い口調とは違う。
零の胸へ顔を伏せたまま、シエラは小さな声で続けた。
「今日、ちょっと疲れてて……制御が危ういから」
冗談めかそうとしているが、嘘ではなかった。
訓練場で抱いた焦り。
零とクオンだけが先へ進んでいくような感覚がシエラの内に眠る竜の本能を刺激している。
番である零の手が角へ触れれば、衝動を鎮めることができる。
シエラ自身もそれを知っていた。
零は、三人に囲まれたまま天井を見上げた。
左腕にはレイラ。
右腕にはルシア。
胸元にはシエラ。
三方向から伝わってくる体温。
触れる柔らかさも、漂う匂いも三人それぞれに違っている。
——複雑だった。
嬉しくないわけではない。
だが、零の脳裏には今日の訓練場で見た、ルシアとシエラの表情が浮かんでいた。
二人の瞳に滲んでいた焦り。
戦いの中で感じていた、零との距離。
そして、夕食の席で顔を寄せ合い二人だけで交わしていた会話。
何か、考えてるな。
零は右手を伸ばしシエラの黒い角へ触れた。
指先で角の根元をゆっくりと撫でる。
その瞬間シエラの身体が、ぴくりと震えた。
張り詰めていた全身から、少しずつ力が抜けていく。
「——ん……っ、……ありがと」
熱を帯びた吐息が零の胸元へ落ちる。
荒れかけていた竜の本能が番の指先によって、静かに鎮まっていった。
その様子を隣から見ていたルシアが不満そうに眉を寄せた。
「——ちょっと。シエラばっかり構ってないで、私の方も見なさいよ」
ルシアは零の頬を両手で挟むと強引に自分の方へ向かせた。
至近距離で見つめる真紅の瞳が、僅かに潤んでいる。
そこに宿っているのは、怒りではない。
寂しさと、甘えに近い色だった。
「……悪い」
零は、シエラの角を撫でていた手を一度離しルシアの髪へ伸ばした。
いつもはツインテールに結ばれている、黒みがかった赤い髪。
今は下ろされた長い髪が零の指の間を、滑らかにすり抜けていく。
ルシアの肩が小さく震えた。
先ほどまでの勢いはどこへ消えたのか。
そのまま零の胸元へ顔を埋め聞こえるかどうかというほどの声で呟く。
「——べ、別に……寂しかったわけじゃないし」
「……ふふ。素直じゃないね」
レイラが零の反対側で、小さく笑った。
ルシアは顔を埋めたまま、声だけで言い返す。
「あんたにだけは! 言われたくないわよ……!」
「——んー……静かにして。今、いいところなの……」
胸元から、眠たげな声が聞こえた。
シエラは再び角の根元へ触れた零の指先に身を委ねながら既に半分、眠りへ落ちかけている。
零は小さく息を吐いた。
左側からは、レイラの体温。
右側からは、ルシアの温もり。
胸元からは、シエラの静かな寝息。
三人に包まれながらも零の思考は、明日へ向かっていた。
人界攻略。
そのための作戦会議。
そしてようやく始まる、復讐。
人界へ渡れば、もう後戻りはできない。
自分から全てを奪った者たちとの戦いがいよいよ始まる。
だが。
今は。
今夜だけは。
傍にある温もりを確かめながら、零は静かに目を閉じた。




