第八十環 「隣に立つために」
——夕方。魔王城・訓練場。
戦闘は終わった。
だが、三人の胸に残ったものは、称賛だけではなかった。
ルシアは、砕けた結界の残骸を片付けながら、唇を噛んでいた。
十二重結界。
魔界最強の魔導師を自負する自分が展開した結界がたった二人の訓練で限界を迎えた。
以前に行われた訓練と比べても、二人の出力は明らかに上がっている。
いつか、私の結界では追いつけなくなる。
ルシアの真紅の瞳が零の背中を見つめた。
あの才能。
魔術を教えれば、一度で仕組みを理解する。二度目には応用し、まるで昔から使えていたかのように自分のものにしてしまう。
今日に至っては、メツの気配消去すらたった一晩で模倣してみせた。
魔術の天才。
いや。もはや、それだけでは説明がつかない。
憧れている。
惹かれている。
その気持ちはもう、自分でも認めている。
だが、それと同時に。
置いていかれる。
そんな恐怖が、胸の奥に小さな棘となって突き刺さっていた。
◆
シエラは、黒い竜翼を背中へ収めながら訓練場の天井を見上げていた。
二人の攻撃によって生じた余波を打ち落とす。
それが、今日の自分に与えられた役割だった。
だが、何発かは間に合わなかった。
零とクオンの戦闘速度が上がりすぎて、竜炎の発射が追いつかない場面があった。
竜族最速の機動力。
それこそがシエラの誇りだった。
でも、あの二人の領域には、もう速さだけじゃ入れない。
零を番として認めた。
生涯で、ただ一人。
一生に一度しか選ぶことのない相手。
だからこそ、隣に立ちたい。
守られるだけではなく、互いに背中を預け合える存在でいたい。
それなのに少しずつ距離が開いていく。
その感覚が、角の奥で熱を帯びる衝動と重なった。
——起源回帰。
あれを使えば、追いつけるかもしれない。
竜族が本来持つ力を完全に解き放てば、今の自分とは比較にならないほどの力を得られる。
だが、理性を失う。
肉体も精神も、完全な竜へと近づいていく。
そうなれば、零を番として認識できなくなる可能性すらある。
それだけは、嫌だ。
シエラの拳が静かに握られた。
◆
レイラは、零の袖を掴んだまま、訓練場を出ていく二人の背中を見つめていた。
幻術師としての目が、先ほどの戦闘を冷静に分析している。
零が見せた、気配の完全な消去。
あれは本来、自分の領域だったはずだ。
幻術。
認識操作。
精神干渉。
それこそが、レイラの戦場だった。
だが零はたった一晩で、その領域へ踏み込んだ。
しかも、メツという敵の技を一度見ただけで。
「……」
嫉妬ではない。
零が強くなることは嬉しい。
自分を守ってくれた恩がある。
何より、零のことが、好きだから。
だが。
今の私は、零に何ができる?
存在が不安定な今、全力の幻術は使えない。
記憶を消された自分を覚えていてくれたのは零とリリスだけ。
ほかの仲間たちにとって、自分は今日初めて出会った他人でしかない。
——私だけ、止まってる。
緑色の瞳が零の横顔を見上げた。
「……零」
「ん?」
「……ううん。なんでもない」
レイラはいつものように笑った。
けれど、その笑みの奥には、隠しきれない焦燥が滲んでいた。
零がそれに気づいていたのかは、分からない。
◆
三人はそれぞれの方法で、胸の内に生まれた焦りを飲み込んだ。
明日は、作戦会議。
いよいよ人界への侵攻が始まる。
このままでは、零の隣に立てない。
その思いだけが、三人の胸の奥で、静かに燃えていた。
◆
——夜。魔王城・浴室前の廊下。
湯気の漂う廊下へ出るとレイラが立っていた。
くすんだ金色の髪が肩へ流れ、緑色の瞳が零を見上げている。
両手には、綺麗に畳まれたタオル。
壁に背を預け、ずっと零が出てくるのを待っていたらしい。
どれほどの時間、そうしていたのだろう。
「……はい」
差し出されたタオルを受け取る。
柔らかな布地には、ほのかな温もりが残っていた。
おそらく、魔術で温めてくれたのだろう。
零は——少しだけ複雑な気持ちになった。
濡れた髪から水滴が落ちる。
湯上がりの肌には、廊下を流れる夜の空気が冷たかった。
タオルを受け取りながらレイラの顔を見る。
そこに、いつもの挑発的な笑みはない。
相手を試すような眼差しもない。
ただ、そこにいる。
零の傍に。
それだけで安心できるとでもいうように。
「……ありがとう」
短く礼を言い、タオルで髪を拭く。
「……別に。暇だっただけ」
嘘だ。
暇だったはずがない。
零が浴室へ入る直前、袖から指を離したレイラの手が微かに震えていたのを、零は見ていた。
離れるのが怖い。
自分の存在が薄れていく、あの感覚が今も心に残っているのだろう。
だが、レイラはそれを口にしない。
弱さを見せることに慣れていない。
昨夜と今朝は、耐えられる限界を超えていただけだ。
本来のレイラは、自分の脆さを、決して他人に悟らせようとはしない。
だから、タオルを持って待つ。
それがレイラなりの、零の傍にいるための口実だった。
零は何も指摘しなかった。
ただ前を向き食堂へ向かって歩き出す。
レイラも、半歩遅れてその後をついてきた。
今日一日、ずっとそうしていたように。
だが、今は袖を掴まなかった。
朝とは違う。
タオルを渡すという口実を果たした以上、それ以上は縋らない。
そこにはレイラなりの、小さな意地があった。
零は何も言わずほんの少しだけ歩幅を狭めた。
レイラが無理なく追いつけるように。
その変化に気づいたレイラの唇が、微かに緩んだ。
「……ねぇ、零」
「ん?」
「……私、明日の会議にはちゃんと出るから」
レイラの声は静かだった。
いつもの余裕はない。
それでも、その声には確かな決意が宿っている。
「ちゃんと役に立てるように……私なりに、考えてるから」
零は振り返らなかった。
ただ歩きながら短く答えた。
「知ってる」
「……っ」
レイラの足が一瞬、止まった。
すぐに小走りで追いつき、今度は半歩後ろではなく零の隣へ並ぶ。
「……ばか」
掠れた声が、零の耳へ届いた。
「そういうところ、ずるいんだよ」
その声には、照れと安堵、そして、消しきれない焦りが入り混じっていた。
零は何も答えなかった。
けれど、歩幅を元に戻すこともしなかった。
二人は、同じ速さで廊下を進んでいく。
食堂から漏れる暖かな灯りが廊下の先に見えていた。
◆
——夜。魔王城・食堂。
リリスが食堂へ入った時一日分の疲労が、まだ肩に重く残っていた。
メツに殺された十一名の身元確認。
犠牲者たちはメツの力によって、誰の記憶からも消え去っていた。
残された者たちにとっては、そこにある遺体が誰なのかすら分からない。
だが、リリスだけは覚えていた。
一人ひとりの名前。
城内での役目。
交わした言葉。
そして、彼らの帰りを待つ家族の顔。
唯一、犠牲者たちの存在を覚えていた自分の記憶と記録を照合し、身元を割り出す。
そのうえで遺族のもとへ訃報を届け、死者を弔うための手配を進めた。
さらに、城内の警備体制の再編。
メツが利用した侵入経路の特定。
その全てをリリスは、たった一人で捌き続けていた。
白銀の髪を揺らしながら、深紅の瞳で食堂を見渡す。
上座へ腰を下ろすと、給仕が即座に料理を運んでくる。
食事の後に出される甘味まで、既にリリスの好みに合わせて用意されていた。
——三者三様、ね。
長いテーブルの向こう側。
零を中心として、四人は、それぞれ異なる距離感で食卓を囲んでいた。
◆
クオンは、零の正面に座っていた。
皿に山のように盛られた肉を頬張りながら言葉少なに、それでも確かに、今日の戦いを振り返っている。
「……お前の気配消去。右側から消える癖がある。次は左から消せ」
「……分かった。クオンは起源回帰の持続力が、後半になるにつれて落ちてた」
「……ああ。まだ制御が甘い。もっと深く潜る」
短い。
だが、濃密な会話だった。
戦士同士の、無駄な言葉を一切必要としない対話。
互いの欠点を指摘し合い、互いが今より強くなることを、当然の前提としている。
クオンの薄橙色の瞳はどこか穏やかだった。
今日の戦いに満足している。
それでも現状に満足するつもりはなく、次はもっと強くなれると、疑いもなく信じていた。
◆
レイラは零の隣に座っていた。
静かに食事をしている。
いつもの挑発的な笑みはない。
零の隣で、同じ食卓を囲み同じ料理を食べている。
ただ、それだけだった。
時折、零が何かを話しかければレイラは小さく頷く。
零の皿から料理がなくなれば、何も言わずに自分の取り皿から肉を移す。
何も言わない。
試すことも、からかうこともしない。
ただそこにいる。
リリスの視線が、レイラの手元へ向けられた。
食器を持つ左手が僅かに震えている。
存在の不安定さが、完全には消えていない証拠だった。
それでも、レイラは食事を続けている。
零の隣で。
今のレイラにとっては、それこそが精いっぱい前へ進もうとする行為なのだろう。
そしてルシアとシエラ。
二人は零から少し離れた席へ並んで座り、顔を寄せ合いながら、何やら小声で話し込んでいた。
いつもなら、ルシアは零の隣の席を奪おうとする。
シエラは零に酒を勧め、明るい声で笑う。
二人がいるだけで、食卓は自然と賑やかになるはずだった。
だが、今夜は違う。
ルシアの真紅の瞳が、時折、零へ向けられる。
しかし、目が合うより先に視線を逸らし、シエラへ何かを囁く。
シエラは小さく頷き、水色の髪を揺らしながら声を潜めて答えた。
二人の声は零の耳には届かない。
だが、リリスにはその一言一言が、はっきりと聞こえていた。




