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第七十九環 「認識なき刃」


——夕方。魔王城・訓練場。


零は双剣を顕現させ、無防備になったクオンの腹部へ斬り込んだ。


だが、クオンは戦斧の柄を滑らせ、二本の刃を同時に受け止める。


甲高い音とともに、双剣の刃が震えた。


「——軽い」


クオンの蹴りが迫る。


零は即座に、自らの「重量」を減少させて後方へ跳んだ。


爪先は届かない。


それでも、蹴りが通過した空間そのものが爆ぜた。


衝撃波が訓練場を駆け抜け、ルシアの結界へ叩きつけられる。


「四重結界、追加ッ! シエラ、右の余波!」


「分かってる——!」


青白い竜炎が、壁へ迫った衝撃を飲み込んだ。


だが、処理が追いつかない。


零は距離を取り、《無窮蛇装》へ魔力を巡らせる。


概念操作。


クオンの「攻撃力」を減少させる。


見えない干渉が、クオンの存在へ触れた。


次の瞬間、弾かれた。


「……何?」


クオンの存在圧が、概念による干渉そのものを拒絶していた。


今までにはなかった現象。


起源回帰の深度が、以前よりも遥かに深い。


零は理解した。


クオンは怒っている。


名前も思い出せない仲間の死に。


守れなかった夜に。


そして、何も知らないまま仲間を忘れてしまった自分自身に。


その怒りが、鬼族の起源をさらに深く呼び覚ましている。


「——概念操作」


クオンが獰猛に笑った。


「効かん」


直後、踏み込む。


空間が、折れた。


零は双剣を手放し、巨大な大剣を顕現させる。


自身の「耐久」を増幅。


両手で大剣を構え、振り下ろされる戦斧を真正面から受け止めた。


衝撃が、訓練場全体を揺らす。


ルシアの結界が六枚同時に砕け、真紅の破片となって宙へ散った。ルシアは即座に新たな魔法陣を展開し、崩壊した防壁を再構築する。


「——っ、冗談じゃないわよ!」


シエラの竜炎が、四方へ飛散した余波を焼き尽くした。


二人の足元にあった石畳は、存在圧の衝突だけで塵へ還っている。空間そのものが二つの力に引き裂かれ、差し込む夕日の光さえ歪んでいた。


大剣と戦斧が激しく軋む。


零の両足が、僅かに後ろへ滑った。


互角。


——否。


クオンが、押している。


概念操作は弾かれる。存在圧によって、干渉そのものを拒絶される。自身の力をいくら増幅しても、深度を増したクオンの起源回帰には追いつかない。


それでも、零は冷静だった。


漆黒の面頬の奥で、金色の瞳が分析を続けている。


力では勝てない。


今は——。


ならば。


零の気配が——消えた。


突然。完全に。


まるで、存在そのものが蒸発したかのように。


押し返すはずだったクオンの戦斧が空を切る。先ほどまで零が確かにいた場所には、何も残っていない。


音もない。気配もない。魔力の残滓すら感じられない。


「——っ!?」


クオンの深紅の瞳が見開かれた。


視界には映っている。


そこに、漆黒の鎧を纏った零が立っている。


それなのに、鬼族の本能が敵として捉えられない。脳が「そこにいる」という事実を認識できない。


幻術。


零が発動したのは、自身の存在感を「零」まで減少させる概念操作と、対象の認識を逸らす幻術の複合だった。


それは、第三席メツの《寂滅》と似ていた。


存在そのものを消すのではない。


そこに存在しているという——認識だけを消す。


クオンの反応が一瞬遅れた。


零の斬撃が、クオンの脇腹を掠める。起源回帰によって硬化した皮膚が薄く裂け、鮮血が宙へ飛んだ。


「——ぐっ!」


クオンが振り返り、戦斧を薙ぐ。


だが——遅い。


気配を掴めない。視覚で追えても、攻撃へ移る瞬間には零の認識が再び抜け落ちる。


クオンは力で勝る。


しかし、認識できない敵を殴ることはできない。


零の二撃目が肩を打つ。


三撃目。身体を沈め、クオンの膝裏へ蹴りを叩き込む。


いずれも致命傷には届かない。それでも、クオンの反応は確実に一瞬ずつ遅れていた。


「……なるほど」


クオンが小さく呟く。


次の瞬間、その深紅の瞳から迷いが消えた。


彼女もまた、適応し始めていた。


鬼族の戦闘勘が、視覚や気配とは異なる情報を拾い上げる。


肌を撫でる空気の流れ。


石畳から伝わる僅かな振動。


呼吸によって生じる大気の揺らぎ。


そして、攻撃の直前に零から漏れる、殺気の残り香。


クオンが、何もないはずの空間へ踏み込んだ。


「——そこか!」


戦斧が零の胸を捉えた。


零は瞬時に「衝撃」を減少させる。


それでも完全には殺し切れない。


鈍い轟音とともに零の身体が吹き飛び、《無窮蛇装》の胸部へ亀裂が走った。


地面へ落ちた零は、石畳を削りながら体勢を立て直す。


既にクオンが追撃へ来ていた。


振り下ろされる戦斧を横へ躱し、零は再び気配を消す。そのままクオンの背後へ回り込み、双剣を交差させて斬りつけた。


クオンが戦斧の柄で受ける。


火花が散る。


零の姿を見失っても、クオンは空気と振動を読んで攻撃を捌く。クオンの一撃が迫れば、零は認識を断ち、紙一重で回避する。


力ではクオンが圧倒する。


零は認識阻害による回避と奇襲を重ね、その差を埋め続ける。


一撃ごとに石畳が砕け、衝撃波が結界を揺らす。


どちらも、決定打を入れられない。


三十分。


四十分。


そして——一時間。


日が沈みかけても、戦いは終わらなかった。


やがて、訓練場の外周から悲鳴にも似た声が上がる。


「——結界、限界よ! これ以上は保たない!」


ルシアの額から、大粒の汗が流れていた。


十二重まで増やした結界の半数が既に砕け、残る六枚にも無数の亀裂が走っている。魔力も底を突きかけていた。


上空のシエラも肩で息をしている。飛散する余波を竜炎で相殺し続け、翼の動きが明らかに鈍っていた。


観客席のレイラが、二人の状態を見比べる。


零もクオンも、まだ倒れてはいない。


だが、このまま続ければ、先に訓練場が崩壊する。


レイラは迷わず白い旗を振り上げた。


「——そこまで!」


二人の動きが止まる。


「勝負、引き分け」


静寂が——落ちた。


クオンの起源回帰が解除される。


深紅の瞳が元の薄橙色へ戻り、伸長していた鬼角が縮んでいく。全身から白い湯気が立ち上り、荒い呼吸だけが訓練場に響いた。


零の《無窮蛇装》も解かれる。


漆黒の装甲が左腕へ収束し、元の腕輪へ戻った。露わになった零の身体には、無数の打撲が刻まれている。


装甲越しでさえ、クオンの一撃は完全には防げなかった。


「……気配を消したな」


息を整えながら、クオンが零を見る。


その瞳に怒りはない。


むしろ、感心に近い光が宿っていた。


「あの鎌の奴と同じだ。存在が消える感覚」


零は額の汗を拭い、頷いた。


「ああ。メツの技を見て応用した。力で勝てないなら、認識を消す」


「……たった一晩で模倣するか」


クオンが僅かに目を細める。


「お前は——本当に、化け物だな」


褒め言葉だった。


クオンの口角が、穏やかに上がっている。


「だが、次はそれにも慣れる。覚悟しろ」


零も、小さく笑った。


「望むところだ」


観客席から降りてきたレイラが、零の傍へ立つ。その指先が、存在を確かめるように零の袖へ触れた。


「……零、強くなってる。怖いくらい」


「私の結界は限界だったんだけど!?」


ルシアの抗議が訓練場に響く。


「次からは、もっと早く終わらせてよね! あんたたちの全力に付き合ってたら、いくつ結界があっても足りないわよ!」


「お疲れー。二人とも、明日の会議までに身体を治しておいてよ?」


地上へ降りたシエラが、疲れたように翼を畳んだ。


訓練場の惨状とは対照的に、窓の外には穏やかな夕暮れが広がっている。


戦いを終えたクオンの顔から、部屋を訪れた時の張り詰めたものは消えていた。


悲しみも、怒りも、なくなったわけではない。


それでも、今は前を向ける。


零は崩れた石畳の向こうに残る、赤い夕日を見つめた。


明日——人界へ向けて、刃を研ぐ日が来る。

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