第七十八環 「原初へ還る鬼」
——午後。魔王城・零の自室。
ぱきり、と乾いた音が響いた。
ルシアの握っていた羽ペンが、真ん中から折れている。
「……っ」
真紅の瞳が、ソファを睨んでいた。
零の右手はシエラの角を撫で、左手はレイラの手へ触れている。その光景を前に、ルシアの頬が目に見えて膨らんでいた。
「……別に。ペンが古かっただけ」
誰も尋ねていないのにそう言い訳し、引き出しから新しい羽ペンを取り出す。
シエラが黒い尾を零の腰へ巻きつけたまま、余裕の笑みを浮かべた。
「ルシアもこっちに来れば? 書類ならソファでもできるでしょ」
「っ——誰が、あんたの隣なんかに……!」
「……ふふ。素直じゃないね、ルシアは」
レイラも頁を捲りながら、小さく笑う。
「うるさい! 二人とも、零から離れなさいよ!」
「嫉妬してないんじゃなかった?」
「これは嫉妬じゃなくて、仕事の邪魔だって言ってるの!」
「零は何もしてないけど?」
「してるでしょ! 両手で!」
思わず零は、自分の両手へ視線を落とした。
右手にはシエラの角。左手にはレイラの手。
反論できなかった。
シエラが吹き出し、レイラも口元を手で隠す。ルシアだけが顔を真っ赤にしながら、新しい羽ペンを紙へ叩きつけるように走らせた。
昨夜の血の匂いが、ほんの少しだけ遠ざかる。
失った命は戻らない。消された記憶も、まだ取り戻せない。
それでも、今ここにいる者は誰も消えていない。
互いの声を聞き、温もりへ触れ、同じ時間を過ごしている。
それを確かめるような——穏やかな午後だった。
◆
やがて、夕日が部屋を橙色に染め始めた頃。
扉が叩かれた。
重く、短く——二回。
ルシアの羽ペンが止まり、シエラが目を開ける。レイラも魔導書から顔を上げた。
零には分かっていた。
この叩き方をする者は、一人しかいない。
「入れ」
扉が開く。
そこに、クオンが立っていた。
アッシュブロンドの髪、薄橙色の瞳が真っ直ぐ零を見据えている。肌に刻まれた赤い紋様。小柄だが鍛え抜かれた体躯。黒い鬼角が、差し込む夕日を受けて影を落とす。
「……零」
短い呼びかけ。
その声には、普段とは異なる何かが滲んでいた。
「休めと言われた。だが——私には合わない。身体が、動きたがっている」
その瞳が、零の目を射抜く。
その奥で燃えている感情を、零は知っていた。
悲しみ。悔しさ。そして、行き場を失った怒り。
クオンは、それらを言葉にする術を持たない。
だから、戦うのだ。
「零。私と戦え」
クオンの唇が、僅かに吊り上がる。
「——全力で」
◆
——夕方。魔王城・訓練場。
高い天窓から夕暮れの光が差し込み、広大な石畳を橙色に染めていた。
その中央で、零とクオンが10メートルの距離を挟み、向かい合っている。
訓練場の外周には、ルシアが幾重もの結界を展開していた。真紅の魔法陣が壁から天井までを覆い、戦闘の余波を内側へ封じ込めている。
「結界、展開完了。——好きなだけやりなさい。壊れないから」
自信に満ちた声。
だが、真紅の瞳は真剣だった。
あの日の模擬戦を覚えている。あの時も、二人の全力は結界の限界へ迫った。
上空では、シエラが黒い翼を広げて旋回していた。
「余波の打ち落としは任せて。でも、前みたいにやられたら、さすがに全部は間に合わないかもよ?」
冗談めかした口調とは裏腹に、青い瞳は訓練場全体を見渡している。いつでも竜炎や風圧で衝撃を相殺できる構えだった。
観客席にはレイラがいる。
手には赤と白、二本の小さな旗。零とは離れているが、この距離ならまだ存在は安定していた。
「審判は私がやるよ。——まあ、この二人に審判が必要かは疑問だけど」
僅かに笑いながらも、その緑色の瞳は鋭い。
中央で、クオンが巨大な戦斧を石畳へ突き立てた。
轟音とともに、足元へ亀裂が走る。
「前と同じだ。全力で来い。——手を抜けば分かる」
零は左腕の腕輪へ触れた。
神装——《夢幻抱擁》。
漆黒の紋様が、呼吸するように脈動する。
「ああ」
短く答えた。
クオンの口角が上がる。
戦いを前にした、純粋な歓喜。鬼族の血が沸騰するような、獰猛な笑みだった。
「——来い」
レイラが、赤い旗を振り下ろした。
「始め」
空気が裂けた。
クオンが踏み込む。
一歩で十メートルを消し、石畳を爆散させながら零の眼前へ迫った。巨大な戦斧が、頭上から振り下ろされる。
零は横へ跳んだ。
直後、戦斧が石畳を粉砕する。巻き起こった衝撃波が零の身体を叩き、《夢幻抱擁》が即座に反応して威力を減衰させた。
それでも、重い。
今までと同じ全力のはずだった。
だが、明らかに違う。
クオンの二撃目。地面へめり込んだ戦斧を強引に引き抜き、その勢いのまま横薙ぎに振るう。
零は双剣を顕現させ、交差させて受け止めた。
金属同士が激突し、耳を劈く音が響く。
「——っ」
零の両腕が痺れ、靴底が石畳を削った。
以前より、明らかに重い。
「——遅い」
三撃目が迫る。
零は受けずに後方へ跳び、間合いを外した。金色の瞳がクオンの全身を捉える。
——存在圧が、上がっている。
クオンの身体から溢れる魔力は、つい最近手合わせした時よりも遥かに濃い。黒い鬼角が赤く脈動し、肌に刻まれた紋様が、生き物のように蠢いていた。
昨夜の襲撃。
仲間の死。
そして、死んだ仲間の名すら思い出せないことへの怒り。
それらすべてが、クオンの中で燃料へ変わっている。
鬼族は感情によって強くなる。
怒りで。悲しみで。
そして——守りたいという意志で。
「……零」
クオンは戦斧を片手で持ち上げ、切っ先を零へ向けた。
「私は、もっと強くなる」
薄橙色の瞳を閉じる。
クオンの口から、古く重い言葉が紡がれた。
「……原初真名、解放——《羅刹》(ラクシャーサ)」
その瞬間、訓練場から音が消えた。
「我が血脈を遡り、闘争の始祖へと還れ」
クオンが目を開く。
「《起源回帰》(オリジネーション)」
爆発的な魔力が——天井まで噴き上がった。
薄橙色の瞳が橙、そして、色は移り変わり、深紅へ染まる。
二本の黒い鬼角が倍以上に伸長し、表面を禍々しい赤黒の光脈が走った。肌を覆う紋様は全身へ広がり、心臓の鼓動に合わせて明滅する。筋肉が膨張し、戦斧を握る手が獣のそれへ近づいていく。
鬼族の始祖へ還る。
破壊と闘争の化身。
クオンが一歩、前へ出た。
それだけで、石畳へ無数の亀裂が走る。
深紅へ変わった瞳が、零を捉えた。
「——来い」
声は低く、地鳴りのように訓練場を震わせた。
零も——応える。
左腕の《夢幻抱擁》が砕けるように変形した。漆黒の装甲が腕から肩へ、胸から脚へと連なり、瞬く間に全身を覆っていく。
第二位階——《無窮蛇装》。
漆黒の装いに包まれた零の全身から、際限なく増幅された存在圧が解き放たれる。暗い面頬の奥で、金色の瞳だけが鋭く輝いた。
クオンと零。
二つの存在圧が正面から激突した。
空間が、歪んだ。
二人の間の大気が陽炎のように揺らぎ、接触すらしていない石畳が次々と砕けていく。重力が狂い、粉砕された石片が宙へ浮かんだ。
「っ——嘘でしょ!? まだ一合も打ち合ってないのに!」
ルシアが展開した結界に亀裂が走る。
即座に真紅の魔法陣を三重に追加し、押し寄せる圧力へ歯を食いしばって耐えた。
「ちょっ——前より酷くなってない!?」
上空のシエラが竜炎を放ち、外周へ広がる余波を焼き消していく。
観客席のレイラは、目を見開いていた。
「……これが、クオンの起源回帰……」
その緑色の瞳に、驚愕と畏怖が宿る。
クオンが。
消えた。
否。
踏み込みが、レイラの知覚を置き去りにしたのだ。
地面が数メートル四方にわたって消し飛び、クオンの巨躯が弾丸のように零へ迫る。
戦斧が横薙ぎに振るわれた。
空気ごと切断する一撃。
零は概念を操作する。
自身の「速度」を増幅。
思考と反応を加速させ、迫る斧の軌道を読み切る。紙一重で身を沈め、刃の下へ潜り込んだ。
戦斧が頭上を通過する。
風圧だけで、《無窮蛇装》の表面が激しく軋んだ。




