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第七十七環 「忘れられた絆、繋ぎ直す手」


——昼過ぎ。魔王城・零の自室。


瞑想を終え、訓練室から自室へ戻った零の隣にはまだレイラがいた。


瞑想している間も、彼女はずっと傍に座っていた。


声を掛けることも、体に触れることもしない。ただ、そこにいる。零の呼吸を聞き、その存在を感じていたかった。


今のレイラにとって、それは何よりも必要なことだった。


自室の扉を開けると、聞き慣れた羽ペンの音が零を迎えた。


ルシアが机に向かっている。


机上には書類の山。ダークレッドのツインテールを揺らしながら、報告書へ次々と署名を書き込んでいた。真紅の瞳を紙面へ落としたまま、入ってきた零を一度だけ横目で見る。


窓際にはシエラがいた。


午後の日差しを透かした空色の髪が、淡く輝いている。腕を組み、城下の景色を眺めていた青い瞳が、零の気配に気づいて振り返った。


「……何で二人とも、俺の部屋にいるんだ」


零が率直に尋ねる。


ルシアは羽ペンを動かしたまま、ふん、と鼻を鳴らした。


「別にいいでしょ。事務作業なんて、どこでやっても同じなんだから。自分の部屋だと集中できないのよ。今日は」


素っ気ない口調。しかし、零から隠すように俯いた耳は僅かに赤い。


「私は——まあ、なんとなく?」


シエラは悪びれもせず笑った。


「自分の部屋、散らかってるし。ここって妙に居心地いいんだよね」


もっともらしい理由ではない。だが、本人はそれで押し通すつもりらしい。


その青い瞳が零の姿を確かめる時間は、普段よりも少しだけ長かった。


零には分かっていた。


昨夜、魔王城へ敵が侵入した。


仲間が殺された。それも、存在ごと記憶から消された。


安全であるはずの城内へ刃が届き、隣にいた者が、気づかないうちに自分の中から消えているかもしれない。


その恐怖は、まだ誰の胸からも消えていない。


ルシアは事務作業を口実に。シエラは散らかった部屋を口実に。


二人とも、ただここにいたかったのだ。


互いの姿が見える場所に。


誰も消えていないと、確かめられる場所に。


零は何も追及せず、部屋の中へ入った。レイラも、そのすぐ後ろに続く。


彼女の姿を見た瞬間、ルシアの羽ペンが止まった。


「……また一緒なの」


その声音にあるのは、単純な苛立ちではなかった。


自分たちが忘れてしまった時間を、零だけが覚えている。レイラが零へ向ける信頼も、二人の間に積み重ねられた何かも、今のルシアには分からない。


記憶のない相手に嫉妬するのは筋違いだと、頭では理解している。


それでも——感情は、理屈どおりには動かなかった。


「……ふふ。嫉妬?」


レイラが僅かに笑う。


いつもの挑発的な笑みだった。だが、緑色の目はまだ赤く、泣き腫らした跡が残っている。


「っ——嫉妬なんかしてないし!」


ルシアの顔が一気に赤くなる。羽ペンを握る手にも、目に見えて力が入った。


「まあまあ。二人とも、朝から元気だね」


シエラが窓際を離れ、レイラの前まで歩いてくる。


「レイラ、だっけ」


その名前を、確かめるように口にした。


レイラの表情から、一瞬だけ笑みが消えた。


昨日まで、何度も呼ばれていたはずの自分の名前。それを、長く共に過ごした仲間から初対面のように呼ばれる。


胸を抉られないはずがなかった。


それでもシエラは目を逸らさず、右手を差し出した。


「私たち、今は何も覚えてない。でも、リリス様が仲間だと言った。零も、あんな顔であんたを守ろうとした。だったら——私にとっても、あんたは仲間なんだと思う」


飾らない言葉だった。


「だから、よろしく。改めて」


レイラは差し出された手を見つめた。


零の袖を掴んでいた指に、一瞬だけ力が入る。


離せば、また自分が消えてしまうのではないか。


そんな恐怖を振り払うように息を吸い、レイラは自分から指を離した。


「……よろしく。シエラ」


細い手が、シエラの手を握り返す。


その瞬間、レイラの存在が僅かに揺れた。


輪郭が霞み、緑色の瞳が不安に揺れる。


だが、消えない。


すぐ傍に零がいる。差し出した手を、シエラが確かに握っている。


二つの繋がりが、レイラをこの世界へ留めていた。


「……今度、私たちのことを教えて」


シエラが言った。


「私が忘れた、あんたとのこと。全部は無理でも、一つずつ聞かせてよ」


レイラは目を見開き、それから小さく頷いた。


「うん。……話すよ。何度でも」


ルシアが、二人から顔を背ける。


「私も……必要な報告なら聞くわ」


「素直じゃないね、ルシアは」


「うるさい!」


鋭い声が返る。


だが、その声から先ほどまでの硬さは消えていた。


 ◆


暫くして。


零はソファへ深く腰掛け、侍女たちが出入りする様子をぼんやりと眺めていた。


会議室から書類の束を抱えた侍女が訪れ、ルシアから署名済みの書類を受け取る。代わりに新たな報告書を机へ置き、一礼して去っていく。


少し経つと、また別の侍女が来る。


休息を命じられてなお仕事を続けるルシアに、零は一度だけ声を掛けた。


「休まなくていいのか」


「これを片づけない方が落ち着かないのよ」


即答だった。


「それに、明日の会議までに被害状況を整理しておかないと。人界へ攻め込むとしても、城の守りを空にはできないでしょ」


理に適っている。だが、仕事へ没頭することで昨夜の恐怖から目を逸らしているのだろう。


零はそれ以上、何も言わなかった。


その右手はシエラの角に触れていた。


シエラは零の隣に座り、頭を少し傾けて黒い竜角を差し出している。髪が零の肩へ掛かり、青い瞳が心地よさそうに細められていた。


「んー……やっぱり、これがないと駄目。数日触ってもらえなかっただけで、結構きつかったんだよね」


不満を滲ませながらも、その声は満たされている。


零の指が竜角の根元を撫でるたび、シエラの肩から力が抜けていく。


角の表面は滑らかで、根元へ近づくほど温かい。竜族の生命力が脈打つように、微かな魔力の鼓動が指先へ伝わってきた。


「……昨夜、少し危なかったんだよね」


シエラが声を潜める。


「角が熱くなって、起源回帰の兆候が出かけてた。零が戻ってくるまで、抑えられるか分からなかった」


「……悪かった」


零は短く返し、角の付け根を丁寧に撫でる。


「零が謝ることじゃないって。分かってるけど——んっ……そこ、いい……」


シエラの吐息が漏れた。


黒い竜尾が無意識に顕れ、零の腰へ巻きつく。戦闘時にしか見せないはずの尾が、こういう時にだけ現れる。番の傍にいる安心感で、身体の制御が緩むのだ。


ルシアが、ちらりとソファを見た。


羽ペンが止まる。


真紅の瞳が、零の手と、腰へ巻きついた尾と、蕩けたシエラの表情を順に捉える。


そして、何も言わず書類へ視線を戻した。


唇が、きゅっと結ばれている。


ペンが紙面を走る音だけが、先ほどより明らかに荒くなった。


零の左側では、レイラが古い魔導書を読んでいた。


どこから持ってきたのか、擦り切れた革表紙の分厚い本。くすんだ金髪を頬へ垂らし、緑色の瞳で静かに文字を追っている。


ただし、その身体は零へ密着していた。


肩と腕を触れ合わせ、ページを捲るたび、僅かに零へ体重を預ける。


自然な距離。だが、昨日までとは意味が違う。


今のレイラは、零から遠く離れると存在が不安定になる。彼との物理的な接触は、《寂滅》に抗って自分を保つための錨になっていた。


だから触れている。だから離れない。


それだけではないことを、零は知っていた。


だが、今は何も言わない。


「……零」


頁から目を上げないまま、レイラが呟いた。


「ん?」


「……ありがとう。今日、ずっと一緒にいてくれて」


声は小さかった。いつもの余裕に満ちた口調ではない。


飾ることをやめた、素のレイラの声だった。


零は言葉で答えず、左手を少しだけ動かした。指先を、レイラの手の甲へ重ねる。


レイラの唇が、僅かに綻んだ。


 

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