第七十六環 「忘れられた七人」
——早朝。魔王城・会議室。
レイラが泣いていた。
声を殺し、唇を噛み締めて。それでも涙は止まらない。テーブルの下で零の手を握ったまま、細い肩を震わせている。
零は何も言わず、空いた手でレイラの頭に触れた。くすんだ金髪を、ゆっくりと撫でる。
「……っ、ばか……。皆の前で、こんな……」
掠れた声が、途中で途切れた。
「いいから」
短い言葉。だが、その声は柔らかかった。
レイラの肩から、少しずつ力が抜けていく。零の手の温もりが、消えかけた彼女の存在をこの世界へ繋ぎ止めるように。
向かいに座るルシアは、居心地悪そうに目を逸らした。
その真紅の瞳に宿っていたのは、苛立ちではない。
罪悪感だった。
自分たちの仲間だったはずのレイラを覚えていない。その事実が、悔しくて仕方がない。そんな顔だった。
◆
十分後。
レイラが落ち着いたのを確認すると、リリスは侍女に食事を運ばせた。
普段なら食堂で摂るはずの朝食が、会議室の長机に並べられていく。湯気の立つスープ、黒パン、干し肉、色鮮やかな果物。
だが、料理へ手を伸ばす者はいなかった。
沈黙の中、ルシアが手元の書類を開く。
「……昨夜の被害を報告するわ」
声は硬い。紙面を追う真紅の瞳にも、普段の強気な光はなかった。
「名簿上で確認できた死者は十二名。負傷者は二十三名。うち三名は重傷で、まだ意識が戻っていない。東側の結界塔は半壊。結界班と哨戒班は、当面まともに機能しない」
魔王城が受けた被害として、決して小さな数字ではない。
それでも、ルシアの報告は終わらなかった。
書類を握る指に、力が籠もる。
「でも——おかしいの」
顔を上げたルシアの声が、僅かに震えた。
「確認された死者は十二名。なのに、医務室へ運ばれた遺体は十九体あった」
室内の空気が凍りついた。
「差し引き七体。名簿と照合しても該当者がいない。誰に聞いても、名前も所属も分からない。城の中に残された魔力と照合した結果、全員がこの城で生活していた魔族だということだけは分かった。でも——それ以上は何も」
零の背筋を、冷たいものが這った。
メツの《寂滅》。その刃に斬られた者は、命だけではなく、他者の記憶からも消される。
存在した痕跡のすべてが失われるわけではない。遺体も、使っていた武器も、身につけていた衣服も残る。
だからこそ——残酷だった。
持ち主の分からない剣。誰のものか分からない制服。主を失ったまま、綺麗に整えられた寝台。人数より一つ多い食器。誰に宛てたものか分からない、書きかけの手紙。
そこに誰かがいた証拠だけが残され、その者を知る記憶だけが奪われている。
「つまり、この七人は……名前も顔も、誰の記憶にも残っていない。死んだことは分かる。でも、誰が死んだのか分からない」
ルシアの手が震えていた。報告書を握る指先が白くなっている。
「仲間が死んでるのに、悲しむことすらできない。名前も知らない死体を前にして……私たちは、何を弔えばいいのよ」
答える者はいなかった。
クオンは黙ってスープへ手を伸ばしかけ、その手を止めた。無表情のままだが、いつもなら誰より早く食事を始める彼女が、一口も口にしていない。
シエラも黒パンを千切るだけで、口には運ばなかった。青い瞳が、テーブルの木目を見つめている。
リリスだけが、真っ直ぐ前を見ていた。
「……食べなさい。全員」
静かな声だった。命令ではない。それでも、誰にも拒めない重さがあった。
「死んだ者たちの分まで、生きている私たちが食べるの。それが今、私たちにできる弔いよ」
沈黙のあと、一人、また一人と料理へ手を伸ばした。
クオンが干し肉を噛み千切る。味など感じていないような顔で、それでも確かに飲み込んだ。
シエラがスープを一口啜る。感想はない。ただ、義務を果たすように喉へ流し込む。
ルシアは黒パンを小さく千切り、咀嚼しながら書類へ目を落とした。今にも泣きそうな顔を隠すように。
零もスープへ手を伸ばした。温かい。だが、味はひどく遠かった。
隣では、レイラが零の腕に寄り添っている。自分の分のパンを少しずつ口へ運びながら、彼の体温を確かめるように肩を触れ合わせていた。
誰も、何も言わなかった。
ルシアも、シエラも、クオンも、レイラが零に寄り添い続けることを咎めなかった。
記憶は戻っていない。それでも、彼女の涙を見た。リリスから、レイラが自分たちの仲間だったと聞いた。
今は、それで十分だった。
静かな朝食が続く。
ただ一人、リリスは食事に手をつけていなかった。
深紅の瞳が、長机の端に置かれた報告書を見つめている。身元不明と記された七体。その顔を記録した資料。
他の誰も、その顔に名前を結びつけられない。
だが、リリスは覚えていた。
魔王としての圧倒的な存在強度が、《寂滅》による記憶への侵食を辛うじて退けていた。零も《夢幻抱擁》に守られてレイラを覚えていたが、昨夜、七人と直接顔を合わせてはいない。
今、この死者たちの名を呼べるのは、リリスだけだった。
一人目。結界班のリュカ。入城して三年。真面目で不器用な男だった。
二人目。哨戒班のナーシャ。まだ若く、ルシアの部下として炎魔法を学んでいた。
三人目。侍女のエルマ。リリスの衣装を仕立てる腕は、城で一番だった。
四人目。厨房班のオルト。クオンの好物と食べる量を覚えていた、数少ない料理人だった。
五人目。結界班の老魔術師、ガレス。口うるさい男だったが、若い兵を誰より気に掛けていた。
六人目。哨戒班のミナ。シエラの飛行訓練を眺めるのが好きで、いつか自分も空を飛びたいと笑っていた。
七人目。侍女見習いのニア。失敗ばかりだった。それでも毎朝、誰より早く起きて廊下を磨いていた。
全員に名前がある。顔がある。生きた日々があった。
笑ったことも、怒ったことも、誰かと言葉を交わした夜もあった。
それを消された。
存在を。記憶を。仲間から悼まれる権利すら。
リリスの指が、テーブルの下で音もなく握り締められた。
——空間が軋んだ。
ミシ、と見えない圧力が会議室を包み込む。器の中のスープが波紋を立て、壁の燭台が微かに揺れた。空気そのものが重くなり、呼吸すら拒むように肺を締めつける。
ルシアの肩が跳ねる。シエラの手が止まり、クオンが本能的に身構えた。
魔王の怒り。
それだけで、空間が悲鳴を上げていた。
リリスの深紅の瞳が、一瞬、暗く沈む。底の見えない深淵にも似た、純粋な殺意。
——人界の王。
お前は、私の城の者を存在ごと消した。
名前を。記憶を。仲間に悼まれる権利すら。
リリスの唇が、僅かに動いた。声にはならない。
それでも、零には分かった。
同じ怒りを抱き、同じ男に大切なものを奪われた者として。
——殺す。
唇の動きだけで、その一言を読み取った。
やがてリリスは目を閉じ、深く一度だけ息を吸った。
空間の軋みが止まる。圧力が消え、スープの波紋も、燭台の揺れも収まっていく。
再び目を開けた時、その瞳はいつもの冷静な深紅へ戻っていた。
「……ごめん。少し、感情的になったわ」
誰も責めなかった。
零は黙ってリリスを見つめる。金色と深紅の瞳が交わった。
同じ怒りを知っている。同じ男に、大切なものを奪われた者同士。
言葉はない。だが、それだけで通じていた。
明日の作戦会議で決める。
人界の王を、どう殺すか。
リリスはようやくスープへ手を伸ばし、一口だけ啜った。
「……明日、作戦会議を開く。全員出席。今日は休みなさい。身体を休めることも、戦いの準備よ」
静かな命令。その声には、決して揺らがない決意が滲んでいた。




