第七十五環 「もう一度、仲間として」
——早朝。魔王城・会議室。
いつもなら、この時間にはルシアとの訓練が始まっている。
だが、今朝は中庭の使用が禁じられていた。
昨夜の戦闘で庭園は大きく損壊し、破壊された結界の再構築も完了していない。
零は、会議室へ続く廊下を歩いていた。
その隣にはレイラがいる。
レイラは、零の袖を指先だけで掴んでいた。
控えめに。
それでも、決して離さない。
昨夜から、ずっとそうだった。
レイラの肉体は、すでに回復している。
肌には血色が戻り、金色の髪にも艶がある。魔力の循環も正常だった。
それでも零から離れると、自らの存在が再び希薄になるような感覚が残っているのかもしれない。
あるいはただ、怖いのだろう。
零は何も言わず、袖を掴まれたまま歩き続けた。
◆
会議室の扉を開く。
中央には、長い楕円形のテーブル。
室内にはすでに全員が揃っていた。
上座に座るのは、リリス。
白銀の長髪が椅子の背へ流れ、深紅の瞳が室内を静かに見渡している。
魔王としての装束は完璧に整えられていた。
昨夜から一睡もしていないはずだが、その表情に疲労の色は微塵もない。
右側には、ルシア。
赤みを帯びた深紅のツインテールが揺れ、真紅の瞳が零の隣にいるレイラへ向けられた。
その視線は冷たい。
警戒。
記憶にない存在へ向ける、本能的な拒絶。
左側には、シエラ。
空色の髪を肩へ流し、同じようにレイラを観察している。
いつもの余裕ある笑みはない。
その青い瞳に浮かぶのは正体を見極めようとする、真剣な光。
さらに奥には、クオン。
金色の瞳でレイラを一瞥し、すぐに零へ視線を移した。
敵か、味方か。
ただそれだけを、零の反応から判断しようとしている。
零が席へ着くと、レイラもその隣へ腰を下ろした。
袖から手が離れた瞬間レイラの指が、テーブルの下で零の手を探る。
零は応えるように、その指を握った。
レイラの指が零の指へ絡む。
その動きを、ルシアは見逃さなかった。
「……ちょっと」
真紅の瞳が、二人の繋がれた手へ向けられる。
「何なの、その女。朝から零にベタベタして」
声には、明らかな苛立ちが混じっていた。
レイラの記憶を失ったルシアにとっては、知らない女が零へ纏わりついているようにしか見えない。
「まあまあ。リリス様から説明があるんでしょ」
シエラが宥めるように言う。
だが、その青い瞳にもレイラへの警戒が残っている。
「……早く始めろ」
クオンだけが、短く促した。
リリスが静かに立ち上がる。
「全員いるわね」
深紅の瞳が、テーブルを囲む者たちを見渡した。
「聞きなさい。一度しか言わないわ」
ルシアたちの表情が引き締まる。
「昨夜、魔王城へ人界の刺客が侵入した」
リリスの声が、静まり返った会議室へ響く。
「四聖剣第三席——《滅諦剣》メツ・ニローダ」
ルシアの目が鋭くなる。
シエラの表情から僅かに残っていた軽さが消え、クオンの拳がテーブルの下で握られた。
「メツの神装は、《静寂鎌ニルヴァーナ》」
リリスの視線がレイラへ向けられる。
「その能力、《寂滅》は、斬った対象を構成する概念を消す」
感情。
記憶。
生命。
そして、存在そのもの。
「昨夜、その《寂滅》を受けたのが——」
リリスの深紅の瞳が、レイラへ向けられた。
「この子——レイラよ」
会議室にいる全員へ、その存在を刻み込むようにはっきりと名を告げる。
「魔王直属四座の一人。あんたたちと同じ、私の大切な部下であり、仲間よ」
重い沈黙が落ちた。
ルシアが、理解できないというように眉を寄せる。
「……は? 四座?」
真紅の瞳が、レイラの顔を見つめる。
どれだけ記憶を探っても、思い当たるものは何一つない。
「何を言って——」
「黙って聞きなさい」
リリスの一言で、ルシアの口が閉じた。
声を荒らげたわけではない。
それでも魔王の言葉には、反論を許さない圧が込められていた。
「メツの《寂滅》は、対象の存在を構成する概念を消す」
リリスは言葉を区切りながら、三人へ事実を突きつけていく。
「昨夜、レイラはその大鎌に斬られた。肉体と存在に刻まれた傷は、零が食い止めたわ」
ルシアたちの視線が零へ集まる。
「でも、あんたたちの記憶から消されたレイラは、まだ戻っていない」
シエラの青い瞳が、大きく見開かれた。
「……それって、つまり——」
声から、普段の軽さが消えている。
「私たちは、この人と一緒に過ごした記憶を……全部、消されてるってこと?」
「そうよ」
リリスは迷うことなく答えた。
「何年分もの記憶をね」
クオンの金色の瞳が、改めてレイラへ向けられる。
「……私は、こいつと共に戦っていたのか?」
「ええ。何度も」
「背中を預けたことも?」
「数え切れないほどに」
クオンは黙り込んだ。
記憶はない。
目の前にいる女へ、懐かしさも信頼も感じられない。
それでも、リリスがそう告げ、零がその手を握っている。
ならば、それは紛れもない事実なのだろう。
テーブルの下でレイラの指が震えていた。
零の手を握る力が、さらに強くなる。
皆の顔を見ることができない。
俯いたまま、堪えるように唇を噛んでいる。
そのとき、椅子が床を擦る音が響いた。
ルシアが、勢いよく立ち上がっていた。
「……っ、ふざけないでよ!」
怒りを滲ませた声。
だが、その怒りは、レイラへ向けられたものではない。
「私たちから、仲間の記憶を消した?」
握り締められた拳が、テーブルへ叩きつけられる。
「そんなこと——許せるわけないじゃない!」
真紅の瞳が、燃えるような怒りを宿していた。
覚えていない。
それでも、自分たちから大切な何かを奪われたことは理解できる。
そして、目の前で俯くレイラが、その事実に傷ついていることも。
ルシアは暫く唇を噛んだあと、レイラへ真っ直ぐ向き直った。
「……謝るのも、変かもしれないけど」
レイラを見つめる瞳に、もう警戒はなかった。
「ごめん。あんたのこと——覚えてなくて」
裏表のない、ルシアらしい言葉。
シエラも、レイラへ柔らかな視線を向ける。
「……私も、ごめんね」
いつもの快活な笑みではない。
申し訳なさと、どう接すればよいのか分からない戸惑いを滲ませた笑み。
「昨夜、あんなに警戒しちゃって」
最後にクオンが立ち上がった。
記憶のない相手へ、それでも深く頭を下げる。
「……すまなかった」
短い言葉。
だが、そこにはクオンなりの誠意が込められていた。
レイラの緑色の瞳が潤んだ。
「……っ——」
何かを返そうとしても、言葉が出てこない。
テーブルの下で、零の手を今度は両手で握り締めた。
「……馬鹿」
ようやく絞り出した声は、酷く掠れていた。
「覚えてないのに——謝らないでよ……」
笑おうとして、失敗した。
それでも頬を伝った涙は、昨夜零の部屋で流したものとは違う。
失われた関係が戻ったわけではない。
共に過ごした記憶も、まだ消えたまま。
それでも三人はもう一度、レイラを仲間として受け入れようとしていた。




