第七十四環 「確かに、ここにいる」
そのとき、寝台が、僅かに沈んだ。
「——ッ」
零が振り返るより先に、背後から細い腕が伸びてくる。
その腕が、零の胸元へ回された。
柔らかな体が背中へ密着する。
薄い布越しに伝わる温かな体温。
鼻先を擽る、くすんだ金色の髪の甘い香り。
気配に気づかなかった。
思考へ沈みすぎていたのか。
それとも、幻術師である彼女が無意識に存在感を隠していたのか。
零の体が反射的に強張る。
振り返ろうとした瞬間、耳元で、小さな声がした。
「……動かないで」
囁くような声。
いつものように相手を試す、余裕に満ちた声ではない。
何の仮面も被っていない素のレイラの声だった。
零は、動きを止める。
レイラの腕が、零の胸元でぎゅっと握り締められた。
「……レイラ。体は——」
「治った。全部」
背中に額を押し当てたまま、レイラが答える。
「零のおかげで」
「なら、どうして医務室から——」
問いかけた声が、途中で止まる。
レイラの腕が僅かに震えていた。
「……眠れなかった」
沈黙。
レイラは、さらに強く額を押しつける。
「……一人でいたら、また消えそうな気がして」
声が、ほんの僅かに震えていた。
いつもの余裕も。
相手をからかうような笑みも。
今のレイラには何一つ残っていない。
「……消えない」
零は、胸元へ回されたレイラの手に自らの手を重ねた。
「俺が覚えてる」
「……うん。分かってる」
レイラは小さく頷く。
「分かってるけど——」
零を抱き締める腕へ、さらに力が込められた。
レイラの声が、微かに掠れる。
「ルシアの、あの顔が、忘れられない」
零は何も言えなかった。
その痛みは想像することしかできない。
何年も共に過ごした仲間に、存在ごと忘れられる。
共に笑い、戦い、支え合ってきた時間が、自分の中にしか残されていない。
それがどれほどの孤独なのか。
「……クオンが、私の名前を——」
レイラの声が、そこで一度詰まった。
「私の名前を聞いて——『知らない』って」
脳裏に、あのときのクオンの顔が浮かんでいるのだろう。
「あの真っ直ぐな目で……何の迷いもなく」
クオンは嘘をつかない。
だからこそ、その言葉が余計に深く突き刺さった。
「シエラも、私の顔を見て——『見たことない』って」
零の背中へ、レイラの額が強く押しつけられる。
薄いネグリジェ越しに、彼女の心臓の鼓動が伝わってきた。
速い。
温もりを取り戻したはずの体が、不安に震えている。
「ルシアなんて、私の隣を素通りしたの」
声が、次第に小さくなっていく。
「目も合わせないで。そこに知らない誰かがいるみたいに……」
それは当然の反応だった。
今のルシアには、レイラと過ごした記憶がない。
頭ではレイラにも分かっている。
それでも、心が受け入れられるかは別の話だった。
長い沈黙が落ちる。
零は、胸元へ回されたレイラの腕にゆっくりと自らの手を重ねた。
「……俺がいる」
「……うん」
「リリスも覚えてる」
「……うん」
「必ず——取り戻す」
「…………うん」
レイラの返事は、今にも消えてしまいそうなほど小さかった。
それでも先ほどより、僅かに呼吸が落ち着いている。
零を抱き締めていた腕の力が少しだけ緩んだ。
だが、離れようとはしなかった。
暫くして、レイラが躊躇いがちに口を開く。
「……今日だけ」
胸元へ回した指が、零の衣服をそっと掴んだ。
「今日だけ、このまま、いさせて」
零は言葉を返さなかった。
代わりに、重ねていたレイラの手を優しく握る。
それで十分だった。
レイラは安堵したように目を閉じ、零の背中へ身を寄せた。
窓の外では赤黒い二つの月が、寄り添う二人を静かに照らしていた。
それでも、レイラの震えは完全には止まらなかった。
零の腕に触れている。
背中から体温も伝わってくる。
自分の手が、確かに零の手へ包まれている。
それなのに、胸の奥に残された恐怖だけが消えない。
目を閉じた瞬間、再び世界から零れ落ちてしまいそうだった。
「……零」
「どうした?」
レイラは答えなかった。
胸元へ回していた腕を解き、ゆっくりと体を起こす。
零も寝返りを打ち、二人は寝台の上で向かい合った。
赤黒い月明かりが、レイラの顔を淡く照らしている。
潤んだ緑色の瞳が、真っ直ぐに零を見つめていた。
「……もっと、確かめたい」
「何を?」
「私が——ここにいること」
レイラは零の手を取り、自らの頬へ触れさせた。
掌に伝わる、柔らかな感触。
確かな温もり。
「零に触れられて、名前を呼ばれて……私が、ちゃんと私でいられるって感じたい」
その言葉が意味するものを理解し、零は息を呑んだ。
「レイラ。それは——」
「分かってる」
レイラは逃げなかった。
頬へ触れる零の手に、自らの手を重ねる。
「怖いから、何も考えずに言ってるんじゃない」
僅かに頬を染めながらも、その瞳には確かな意思が宿っていた。
「零だから——お願いしてるの」
沈黙。
零は、レイラの目を見つめ続けた。
迷いも、後悔もないことを確かめるように。
やがて頬へ触れていた手を滑らせ、レイラの体を静かに抱き寄せた。
「……レイラ」
零が、その名を呼ぶ。
世界へ繋ぎ留めるように。
彼女が確かにここにいると、何度でも証明するように。
「もう一度、呼んで」
「レイラ」
「……もう一度」
「レイラ」
呼ばれるたびに、レイラの瞳から不安が消えていく。
代わりに溢れた涙を、零の指先が優しく拭った。
二人の距離がゆっくりと失われていく。
やがて重なった唇を、レイラは拒まなかった。
零の背中へ腕を回し、二度と離れないように強く抱き締める。
その夜。
零は何度も、レイラの名を呼んだ。
彼女がここにいることを。
温もりも。
鼓動も。
零を求める心も。
そのすべてが確かに存在していることを、二人で確かめるように。
赤黒い二つの月だけが、静かに夜の続きを見守っていた。
◆
——夜明け前。
零が目を覚ますと、胸元に温かな重みがあった。
レイラが零の胸へ頬を寄せ、静かな寝息を立てている。
金髪が白いシーツへ広がり、その表情からは昨夜までの怯えが消えていた。
零の胸元へ置かれた手が、確かめるように衣服を掴んでいる。
やがて緑色の瞳が、ゆっくりと開いた。
「……おはよう、零」
「おはよう」
レイラは暫く零の顔を見つめ、小さく笑った。
「私、ちゃんといるね」
「ああ」
「零にも——見えてる?」
「見えてる」
「……そっか」
レイラは安堵したように目を細め、再び零の胸へ顔を埋めた。
「じゃあ、もう少しだけ、このままでいさせて」
零は答える代わりに、レイラの金色の髪をそっと撫でた。
胸元へ伝わる鼓動は昨夜よりもずっと穏やかだった。




