第七十四環 「世界で二人だけの記憶」
——深夜。魔王城・医務室。
レイラの体に温もりが戻り始めていた。
零が包み込む手の中で、冷え切っていた指先へ少しずつ熱が宿っていく。
死人のように灰色だった肌に血色が差し、くすんでいた金色の髪も、本来の艶を取り戻しつつあった。
さらに、包帯の下で変化が起きている。
塞がることのなかった傷口が、ゆっくりと閉じ始めていた。
治癒魔術の力ではない。
零が行った、存在の再定義。
《寂滅》によって消されかけたレイラを、零の中に保存されていた記憶から再構築した。
その記憶に刻まれていたのは傷を負う前のレイラだ。
零によって「レイラはここにいる」と証明された瞬間、《寂滅》の侵食は止まった。
そして失われた存在を補うように、肉体もまた、零が覚えている本来の状態へ戻ろうとしている。
一を無限へ。
零の中に残された、たった一つの記録。
それを起点に増幅されたレイラという存在が、再び世界へ根を下ろしていく。
「……あったかい」
レイラが目を閉じたまま、ぽつりと呟いた。
零の手を握る指にも、少しずつ力が戻っている。
「……傷は、痛むか?」
「……ううん。もう、痛くない」
レイラは、自らの体に起きている変化を確かめるように息を吐いた。
「消えていく。傷が……」
左腕の裂傷が閉じる。
右肩の傷も、脇腹も、太腿も。
白銀の大鎌によって刻まれた存在の傷が零の記憶を設計図にして、少しずつ修復されていく。
「……不思議。治癒魔術では、何も起きなかったのに」
緑色の瞳が薄く開く。
零を見上げるその目にはもう、先ほどまでの虚ろさはなかった。
「零が私を覚えてるから——私は消えない。そういうこと?」
「……たぶん」
零にも、この現象のすべてを理解できているわけではない。
ただ、夢幻抱擁を通じて伝わってくる。
今、レイラをこの世界へ繋ぎ留めているものの一つが——自分の中に残された彼女の記憶なのだと。
「……ふふ。何それ」
レイラが微かに笑った。
いつもの挑発的な笑みではない。
照れを隠そうとして、隠しきれなかったような不器用な笑み。
「……重いな、それ」
レイラは握られた手へ視線を落とす。
「私の存在が、零に依存してるみたいじゃない」
「嫌か?」
「……嫌じゃない」
即答だった。
自分でも驚いたのか、レイラは一瞬だけ目を見開き、気まずそうに顔を逸らした。
「……嫌じゃない、けど」
僅かに頬を染め、小さな声で続ける。
「……ずるい」
◆
それから暫くしてレイラの傷はすべて塞がった。
これは通常の治癒ではない。
《寂滅》によって欠損した存在を、零が保持していた記憶から一度だけ復元した結果。
同じ方法で、誰の傷でも治せるわけではない。
レイラの記憶が幻術の逆流によって零の中へ保存されていたからこそ成立した、再現性のない奇跡だった。
レイラは体を起こし、寝台の背へ身を預けて座った。
それでも、零は手を離さなかった。
レイラもまた、離そうとはしない。
「……ねえ、零」
「ん?」
「ルシアたちは——まだ、私のことが分からない?」
零は、一瞬だけ答えに詰まった。
だが誤魔化すことはできず静かに頷く。
少し前、警備へ向かうルシアが医務室の前を通った。
開いた扉の隙間から寝台のレイラを見て、不思議そうに首を傾げそのまま通り過ぎた。
彼女にとっては、「知らない魔族が治療を受けている」程度の認識でしかなかった。
四座として何年も共に過ごした記憶は戻っていない。
「……そう」
レイラの緑色の瞳が伏せられる。
短い声に隠しきれない痛みが滲んでいた。
「……分かってた。私の存在が戻っても——あの鎌に消された記憶は、別のものだもんね」
《寂滅》は、二つの傷を刻んでいた。
一つは、レイラ自身の存在に対する侵食。
これは零が食い止め、失われた部分も再構築した。
だが、もう一つ。
他者の記憶から「レイラ」という存在を消し去る傷。
こちらは、レイラの肉体が回復しても、元には戻らない。
「リリス様と——零だけ」
今、この世界でレイラをレイラとして覚えているのは、二人だけだった。
レイラは握られた手を見つめたまま、静かに唇を開いた。
「……ねえ、零」
その声はほんの僅かに震えていた。
「ルシアが、私を見ても何も感じないの」
レイラは零から視線を外し、薄暗い天井を見上げる。
「クオンも。シエラも……」
自分へ言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を続けた。
「……分かってる。泣くようなことじゃない」
私は消えていない。
こうして生きている。
零とリリスは自分を覚えてくれている。
「私は、ここにいる。零が——覚えていてくれるから」
笑おうとしたのだろう。
だが、レイラの唇に浮かんだ笑みは、今にも崩れてしまいそうなほど弱々しかった。
共に戦った日々が消えた。
食卓を囲み、笑い合った時間が消えた。
自分にとっては確かに存在する大切な思い出が、ルシアたちの中から、一方的に失われてしまった。
レイラの緑色の瞳に、薄い涙が滲む。
それでも零の前で泣くまいとするように、何度も瞬きを繰り返していた。
零は何も言わなかった。
ただ、握っていたレイラの手へ強く力を込める。
「……零」
名を呼ばれ、零は真っ直ぐにレイラを見つめた。
「取り戻す」
短い言葉。
だが、その声に迷いはなかった。
「……え?」
「皆の記憶を、必ず取り戻す」
零は、レイラの手を握ったまま告げる。
「レイラが四座の一人だってことも。皆の大切な仲間だってことも」
ルシアと衝突しながら、互いを認めてきた日々。
シエラの酒癖を笑い、何度も一緒に騒いだ夜。
言葉の少ないクオンの本心を察し、そっと支えてきた時間。
「消されたものを——全部、取り戻す」
静寂。
レイラの瞳が、大きく揺れた。
零の言葉が嘘でも、気休めでもないことは分かっている。
この男は一度決めたことを、決して曲げない。
やがてレイラは、握られていた零の手を自らの両手で包み込んだ。
先ほどまで冷え切っていた指先には、確かな温もりが戻っている。
「……本当、ずるい」
緑色の瞳から、堪えていた涙が一筋だけ零れ落ちた。
それでもレイラは穏やかに笑っていた。
その夜、レイラは眠りに落ちるまで、零の手を離さなかった。
◆
——深夜。魔王城・零の自室。
眠れない。
零は寝台に横たわり、暗い天井を見つめていた。
医務室から戻って、すでに一時間近くが経っている。
体は鉛のように重い。
概念へ干渉した反動もあり、目を閉じればすぐにでも眠りへ落ちるはずだった。
それなのに頭だけが冴え渡っている。
リリスの言葉が蘇る。
『休みなさい』
有無を言わせない声だった。
城内の混乱を収めるのを手伝うと申し出たが、深紅の瞳に見据えられ、それ以上、何も言えなくなった。
『あんたは今夜、十分やったでしょ』
厳しい口調とは裏腹に、その目には零を案じる色が浮かんでいた。
『レイラを救ったのはあんたよ。だから今は休みなさい』
命令ではなく気遣いだった。
それが分かるからこそ、従うしかなかった。
だが、眠れない。
瞼を閉じれば、色を失っていくレイラの肌が浮かぶ。
腕の中で冷たくなっていった体。
握った手から、少しずつ存在の感触が失われていく恐怖。
そして、ルシアが口にした言葉。
『……誰よ、そいつ』
その一言が、今も耳の奥にこびりついていた。
零は寝返りを打ち、窓の外へ目を向ける。
魔界の夜空には、赤黒い二つの月が浮かんでいる。
星は人界よりも少ないが、その一つ一つは大きく、禍々しいほど鮮明に輝いていた。
城内も、今は静まり返っている。
先ほどまで続いていた兵士たちの足音や怒号は、もう聞こえない。
リリスが混乱を収めたのだろう。
窓硝子に、自分の顔が映っている。
黒い髪。
金色の瞳。
十八歳の、まだ少年の面影を残す顔。
「…………」
メツ・ニローダ。
四聖剣第三席。
あの虚ろな瞳。
静寂を絶対のものとして語る、抑揚のない声。
そして存在そのものを消し去る白銀の大鎌。
あいつは、なぜレイラを狙った。
魔王城の偵察か。
戦力を測るための威力偵察か。
それとも、四座を一人ずつ、世界から消していくつもりなのか。
そもそも、なぜ魔王城の中庭まで侵入しておきながら、あれほど容易に退いた。
零の顔を見た瞬間に見せた、あの僅かな反応も気にかかる。
『……お前は——』
メツは、何を言おうとしたのか。
考えても、答えは出ない。
思考が纏まらなかった。
体が求める休息と、頭が求める答えがまるで噛み合っていない。
零は深く息を吐き、再び天井へ顔を向けた。




