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第七十三環 「君の名を、もう一度」


暗闇。


レイラの精神世界には何もなかった。


あの日に見た、あの薄暗い森はない。


彼女を嘲笑っていた無数の影も。


焼き払われた故郷も。


人間に捕らえられていた牢獄も。


何一つ残されていない。


上下も。


遠近も。


音も。


光も。


《寂滅》が、レイラを形作るすべてを消し尽くそうとしていた。


零は果ての見えない暗闇を歩き始めた。


「レイラ」


呼びかける。


だが、声は反響しない。


発した音さえ、闇に呑み込まれて消えていく。


それでも零は、足を止めなかった。


「——レイラ!」


何度でも名前を呼ぶ。


名前とは存在を定義するもの。


誰かがその名を呼び続ける限り、レイラはまだ完全には消えていない。


「お前は、ここにいる!」


零は暗闇へ向かって手を伸ばした。


そして自らの中に残された記憶を解放する。


月光が降り注ぐ中庭。


触れ合った二人の小指。


悪戯っぽく、それでいてどこか寂しそうなレイラの笑顔。


『——約束。私と君の、秘密』


その記憶が光へ変わった。


何も存在しなかった暗闇に、一筋の光が灯る。


細く、頼りない光。


それでも確かに闇を切り裂き、遠くまで伸びていく。


その光の先に小さな人影が見えた。


レイラがいた。


暗闇の中で膝を抱え、一人で蹲っている。


くすんだ金髪が顔を覆い、緑色の瞳は虚ろ。


自分が誰なのか。


なぜここにいるのか。


それさえもう分からなくなりかけていた。


零はレイラの前まで歩み寄ると、静かに膝をついた。


「レイラ。俺だ」


虚ろな瞳が僅かに動く。


だが、零の姿を見ても反応はない。


彼が誰なのかを思い出すための記憶さえ、失われようとしている。


「お前の名前は、レイラ」


零は、はっきりと告げた。


「ダークエルフで、魔王直属四座の一人。幻術の天才で——人をからかったり、試したりするのが好きで」


零の手が、レイラの頬へ触れる。


「誰よりも他人の心を見抜くくせに、自分の本心だけは絶対に見せようとしない」


暗闇の中へ、光景が浮かび上がっていく。


リリスに救われた日。


ルシアたちと出会った日。


四座として過ごした時間。


そして、零と交わした約束。


「でも本当は、寂しがり屋で——誰よりも仲間思いだ」


レイラの瞳が、僅かに揺れる。


「お前は——俺の大切な仲間だ」


零の中に保存されていた記憶が、光の奔流となってレイラへ流れ込む。


あの夜に交わした言葉。


触れ合った小指の温もり。


誰にも明かさないと誓った、二人だけの秘密。


失われていた色がレイラの精神世界へ戻っていく。


空だった暗闇に、大地が生まれる。


夜空が広がる。


月明かりが差し込み、黒い薔薇の咲く中庭が形作られていく。


レイラの緑色の瞳にも、少しずつ光が戻り始めた。


「……零……?」


掠れた声。


それでも確かに、零の名を呼んだ。


「……私は……レイラ……?」


零は強く頷いた。


「そうだ」


レイラの頬に触れたまま、真っ直ぐにその瞳を見つめる。


「お前は、レイラだ」


 ◆


零の意識が現実へ引き戻された。


薄暗い医務室。


重ねていた手に、微かな感触が伝わる。


レイラの指が零の手を握り返していた。


「……レイラ?」


閉ざされていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。


虚ろだった緑色の瞳に、失われていた色が戻り始めていた。


「……零」


弱々しく、それでも確かな声。


そこにはもう、相手を試すような色も、感情を隠すための仮面もなかった。


ただ、純粋な安堵と、零への信頼だけが滲んでいる。


「……また、助けられちゃった」


レイラの唇に微かな笑みが浮かぶ。


零は、張り詰めていた息をゆっくりと吐き出した。


全身から力が抜けていく。


ウロボロスとの同調を切った反動で、視界が一瞬だけ揺らいだ。


概念そのものへ干渉し、消えかけていた一人の存在を再構築した。


これまでとは比較にならないほど、精神を消耗している。


それでも、レイラの手には、失われていた温もりが微かに戻り始めていた。


それだけで、十分だった。


「……ずるいな、零は」


レイラが掠れた声で呟く。


緑色の瞳が僅かに潤んでいた。


いつものような、相手をからかう挑発的な笑みではない。


本心を隠すために被り続けてきた仮面を、すべて剥がされた素の表情。


「……私の記憶、全部見たでしょ」


零は答えない。


レイラの存在を繋ぎ直すため、零は自らの中に保存されていた彼女の記憶を解放した。


その過程であの日の夜には触れられなかった、さらに深い感情まで流れ込んできた。


誰にも明かさなかった恐怖。


救われたあとも消えることのなかった孤独。


仲間を信じたいと願いながら、裏切られることを恐れ続けていた心。


そのすべてを、零は知った。


「……あの夜より、もっと深いところまで」


零は否定しなかった。


「ああ」


短く答える。


誤魔化すことも。


見ていないと嘘をつくこともできた。


だが、それはレイラが零へ預けた心を裏切ることになる。


「……そう」


レイラは静かに目を閉じた。


零に握られた手へ、残された力を振り絞るように、僅かに力を込める。


もう、隠すものは何もない。


最も知られたくなかった過去も。


心の奥底に押し込めていた弱さも。


そして、彼への想いも。


零にはすべて知られてしまった。


それでも、恐怖はなかった。


羞恥も。


拒絶されるかもしれないという不安も。


今、胸の中にあるのはただ一つ。


「……ありがとう」


その声は小さく、今にも消えてしまいそうだった。


それでも、確かな想いが込められていた。


零は何も言わず、レイラの手を握り続けた。


指先から冷たさが引いていく。


透けかけていた輪郭にも、少しずつ色が戻り始めていた。


レイラという存在がこの世界へ繋ぎ留められつつある。


だが、《寂滅》によって刻まれた傷が消えたわけではない。


包帯の下では、今も侵食が僅かに残っている。


治癒魔術が効くようになったのかも、まだ分からない。


そして、失われたものもある。


零は、眠りに落ちていくレイラの顔を見つめた。


彼女を覚えているのは今、この世界で零とリリスだけ。


ルシアも。


シエラも。


クオンも。


共に過ごした日々を、まだ取り戻してはいない。


レイラの存在を救うことはできた。


だが、彼女が皆と築いてきた繋がりまでは、戻っていない。


零は眠るレイラの手を、もう一度強く握った。


「必ず、全部取り戻す」


その言葉に応えるように、夢幻抱擁が微かに脈動した。


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