第七十二環 「消えゆく名前を呼んで」
——深夜。魔王城・医務室。
静寂。
医務室の灯りは、最低限まで落とされていた。
白い寝台の上にレイラが横たわっている。
くすんだ金色の髪が、枕の上へ力なく広がっていた。
左腕。
右肩。
脇腹。
太腿。
傷を負った箇所には、幾重にも包帯が巻かれている。
出血だけは、どうにか止めることができた。
だが、傷そのものは塞がっていない。
三人の治癒魔術師が交代しながら、あらゆる術式を試した。
しかし、どれも結果は同じだった。
治癒の魔力が傷口へ触れた瞬間、光が消える。
吸収されるのでも、弾かれるのでもない。
魔力そのものが、世界から消滅してしまう。
まるでレイラの体から、「治癒される」という可能性さえ削り取られているかのように。
《寂滅》の侵食。
零は寝台の傍らに座り、レイラの右手を両手で包み込むように握っていた。
冷たい。
中庭で抱き留めたときよりさらに冷たくなっている。
呼吸は浅く、間隔も不安定だった。
それでも零は手を離さない。
自分が触れていなければ、今にもレイラが消えてしまうような気がした。
◆
一時間前。
医務室には、リリスと三人の四天王が集まっていた。
レイラを覚えていたのは、零とリリスだけだった。
リリスという存在はあまりにも強大で、その根は世界の深部にまで達している。
だからこそ、《寂滅》による記憶への侵食を受けても、レイラとの繋がりを保つことができたのかもしれない。
だが、ルシアたちは違った。
「だから、誰なのよ」
ルシアが困惑した表情で、寝台の上のレイラを見つめる。
「説明してくれないと、分かんないんだけど」
声に苛立ちはない。
あるのは純粋な戸惑いだけ。
ルシアの中から、レイラと過ごした記憶は完全に消えていた。
四座として肩を並べ、戦場を駆けた日々。
食卓を囲み、笑い合った時間。
意見が衝突し、言い争ったことさえ、何一つ残っていない。
クオンも、寝台の上のレイラをじっと見つめていた。
「……知らない奴だ」
暫しの沈黙の後、淡々と告げる。
それでも、零へ視線を移し、言葉を続けた。
「だが、お前が心配しているなら——敵ではないのだろう」
記憶はなくとも、クオンは零の態度を信じた。
シエラも、零とレイラを交互に見つめる。
「……零がそこまで必死になるってことは、大事な人なんでしょ」
青色の瞳には、普段の軽さがない。
レイラのことは覚えていない。
それでも零の表情を見て、それ以上、何者なのかを問い詰めることはしなかった。
リリスだけが、静かに寝台へ歩み寄る。
深紅の瞳を細め、変わり果てた彼女を見下ろした。
「……レイラ」
その名を、決して手放さないように噛み締める。
「私の四座に、何をしたの……」
押し殺された声に凍てつくような怒気が滲んでいた。
◆
そして現在。
医務室に残っているのは、零とレイラだけ。
リリスは、魔王城の防衛態勢を再構築するために動いている。
ルシア、シエラ、クオンも、それぞれの部隊を率いて城内の捜索と警備に当たっていた。
零はレイラの手を握り続ける。
指先から伝わる感覚が、少しずつ薄れている。
体温だけではない。
そこに存在しているという感触そのものが、希薄になりつつあった。
このまま何もしなければレイラは消える。
それは、単なる肉体の死ではない。
誰の記憶からも失われる。
世界から存在した痕跡を消される。
そして最後には初めからいなかったことになる。
治癒魔術は効かない。
通常の方法では救えない。
——ならば。
零の脳裏に、一つの記憶が蘇った。
あの日の夜。
レイラとの幻術訓練。
零の精神耐性があまりにも強かったことで、仕掛けられた幻術が逆流した。
術者であるレイラの記憶が零の中へ流れ込んできた。
焼き払われた故郷。
奪われた家族。
人間に捕らえられ、尊厳を踏みにじられた日々。
そして、リリスに救われた瞬間。
あのとき零は、レイラの過去を見た。
ただ映像として眺めたのではない。
彼女が感じた痛みも。
恐怖も。
絶望も。
すべてを自分自身の経験のように受け取った。
レイラの記憶は、今も零の中に残っている。
《寂滅》は、レイラという存在を構成する概念を消し続けている。
記憶も。
感情も。
生命も。
世界との繋がりも。
その侵食は、肉体だけに留まらない。
彼女と過ごした者たちの記憶にまで及び、その繋がりを一つずつ断ち切っていく。
だが、零の中には残っている。
幻術の逆流によって流れ込んできた記憶。
レイラの過去。
レイラの痛み。
レイラの恐怖。
誰にも理解されなかった孤独。
それらは単なる情報ではなく、零自身の魂へ深く刻み込まれていた。
さらに、零の左腕には夢幻抱擁がある。
概念へ干渉し、消滅へ抗うウロボロスの力。
その力に守られたことで、零の中へ独立して保存されたレイラの記憶だけは《寂滅》の侵食を免れていた。
失われていないものが、ここにある。
ならば——
零は、レイラの冷たい手を両手で包み込んだ。
「……レイラ」
返事はない。
指先は冷たく、すでに握り返す力すら残されていなかった。
それでも零は手を離さない。
静かに目を閉じ、意識を左腕の夢幻抱擁へ集中させる。
夢幻抱擁が脈動した。
ブレスレットから淡い光が溢れ、重ねられた二人の手を包み込んでいく。
零の意識が深く沈んだ。
あの夜と同じ、精神の接続。
だが、今度は逆。
あのときは、レイラの中から零へ記憶が流れ込んできた。
今度は、零の中に残されたレイラの記憶を、彼女自身へ返す。
——一を無限へ。
零の中に残る、たった一つの記録。
それを起点に増幅し、失われたレイラの存在を再定義する。
《寂滅》によって消された概念を、零が保持する記憶から再構築する。
これまで零が行ってきた、力の増幅や減衰とは次元が違う。
干渉する対象は一人の存在そのもの。
昼間の瞑想で僅かに捉えた、新たな力の輪郭。
概念の書き換え。
零はその力へ、初めて手を伸ばした。
左腕の夢幻抱擁が、かつてないほど強く脈動する。
零の指も、それに伴い無意識に動き出す。
その瞬間二人の意識が繋がった。




