第七十一環 「忘れられた四座」
レイラは横へ跳んだ。
大鎌の刃が右肩を掠め、鮮血が宙を舞う。
同時に傷口から色が失われ、レイラの右腕から急速に力が抜けた。
それでも、レイラは倒れない。
左手の指先から細い魔力の糸を伸ばす。
糸は闇に紛れながら中庭を這い、城内の警報術式へ向かっていた。
勝つ必要はない。
この男を倒せなくてもいい。
侵入者の存在を、仲間へ伝える。
そのための時間さえ稼げればいい。
「無駄だ」
メツが大鎌を振るう。
中庭を這っていた魔力の糸が、途中から消滅した。
だが、それも幻。
本物の糸は、黒い薔薇の影を縫うように別の方向から伸びている。
レイラは口元へ、僅かな笑みを浮かべた。
「幻術師の仕掛けを、一つ見破ったくらいで——油断した?」
無数の黒い羽根が、メツの視界を覆う。
羽根の一枚一枚が魔力の刃へ変わり、全方向から襲いかかった。
メツが大鎌を一閃する。
黒い羽根が消える。
しかし、その死角からレイラが飛び出した。
闇を纏わせた短剣を、メツの首筋へ振るう。
刃が届く寸前。
メツの姿が、視界から消失した。
「——後ろだ」
声と同時に、レイラの脇腹を大鎌の柄が打ち抜いた。
「がっ……!」
レイラの体が吹き飛び、石畳を何度も転がる。
起き上がろうとした太腿を、白銀の刃が掠めた。
脚の感覚が消える。
次いで脇腹の傷から、生命力が抜け落ちていく。
レイラは血を吐きながら、それでも左手を握り締めた。
薔薇の影を進んでいた魔力の糸が、警報術式へ到達する。
術式が赤く輝いた。
直後。
魔王城全体へ、激しい警報音が鳴り響く。
レイラは石畳へ膝をつきながら、血に濡れた唇を吊り上げた。
「……これで、あんたの負け」
メツは初めて、警報術式へ視線を向けた。
「音を——増やしたか」
虚ろな瞳が、再びレイラを捉える。
「ならば、お前から消そう」
白銀の大鎌が持ち上がった。
◆
零は二階の回廊から、中庭へ飛び出した。
手摺を飛び越え、そのまま地上へ跳躍する。
着地の衝撃で足元の石畳が砕けた。
左腕の夢幻抱擁が激しく脈動し、視界が瞬時に中庭の状況を捉える。
そして——凍りついた。
レイラが倒れかけていた。
衣装は至るところが切り裂かれ、左腕、右肩、脇腹、太腿から血が流れている。
だが、出血量だけでは今の衰弱を説明できない。
顔色は死人のような灰色に染まり、緑色の瞳から光が失われようとしていた。
傷口を中心に、皮膚から色と輪郭が抜け落ちている。
感情が。
記憶が。
生命力が。
レイラという存在を形作るすべてが、世界から削り取られていた。
——《寂滅》の侵食。
「黙して消えろ。それが——最も偉大なる安らぎだ」
白銀の大鎌を振り上げながら、メツが告げる。
「言葉も、記憶も、命も——寂滅には不要だ」
レイラの膝から力が抜ける。
「……ぁ……」
辛うじて漏れた声さえ、掠れて消えた。
大鎌が振り下ろされる。
「——ッ!!」
零が駆けた。
《無窮蛇装》を展開する暇すらない。
生身のまま地面を蹴り、レイラとメツの間へ飛び込む。
同時に腕を伸ばし、倒れかけたレイラの体を抱き留めた。
白銀の刃が零の首筋へ触れる寸前で止まる。
メツの虚ろな瞳が、零の顔へ向けられた。
二人の視線が交差する。
その瞬間。
メツの無機質な目の奥で、何かが揺れた。
驚愕か。
困惑か。
あるいは、別の何か。
「……お前は——」
メツが何かを言いかけた、そのとき。
圧倒的な存在感が、背後から押し寄せた。
「——ねえ」
白銀の長髪が、夜風を受けて舞い上がる。
深紅の瞳が、凄まじい殺意を纏いメツを射抜いた。
魔王リリス。
その存在圧だけで中庭全体が軋み、石畳へ無数の亀裂が走っていく。
「誰に手を出してるの?」
声は静かだった。
しかし、その奥には、底知れない怒気が渦巻いている。
直後。
ルシアが杖を構え、周囲へ幾つもの火球を展開した。
上空からはシエラが黒い翼を広げて降り立つ。
反対側では、巨大な戦斧を握ったクオンがメツを睨みつけていた。
「……お前。殺す」
リリス。
ルシア。
シエラ。
クオン。
そして、レイラを抱き留める零。
五人の殺気が、一斉にメツへ向けられた。
メツは全員を見渡し、冷静に戦力差を測る。
「……騒音が、増えた」
白銀の大鎌を構え直す。
「五月蝿いな。だが、今はまだ——その時ではない」
刃が空間を切り裂いた瞬間、メツの輪郭が急速に薄れ始めた。
音が消える。
匂いが消える。
魔力反応が消える。
周囲から認識される存在情報そのものが、限りなく零へ近づいていく。
「逃がすと思ってるの!?」
ルシアが火球を一斉に放つ。
無数の炎が着弾し、爆炎が中庭を覆い尽くした。
しかし、その中心にメツの姿はない。
音も、匂いも、気配さえ残さず、白銀の死神は消失していた。
◆
「レイラ——!」
零はその場に膝をつき、レイラの体を抱き起こした。
軽い。
あまりにも軽すぎる。
触れた体は冷たく、呼吸も弱い。
「レイラ! 聞こえるか!」
焦点の定まらない緑色の瞳が彷徨いやがて、零の顔で止まる。
「……れ、い……」
声には、確かな安堵が滲んでいた。
「大丈夫だ。もう喋るな」
零はレイラの傷を確認し、背後へ振り返った。
「治癒を——早く!」
だが、声が途中で止まる。
リリスたちは、零の腕の中にいるレイラを見ていた。
しかし、ルシア、シエラ、クオンの瞳に、仲間を心配する色がない。
代わりに浮かんでいるのは、得体の知れない者へ向ける警戒。
「……誰よ、そいつ」
ルシアの言葉を聞いた瞬間、零の思考が停止した。
「……何を言ってる?」
「零の知り合い? どうして魔王城の中庭にいるの?」
シエラも警戒するようにその瞳を細める。
「零。その人——私も見たことない」
クオンも戦斧を握ったまま、首を傾げた。
「……知らない」
「何を……言ってるんだよ!!」
零の声が震える。
「レイラだろ。四座のレイラだ。ずっと一緒にいただろ!」
「四座?」
ルシアが不審そうに眉を寄せた。
「魔王直属四座は私と、シエラと、クオン。それから——」
言葉が止まる。
三人しかいない。
それなのに、ルシアはその事実に今初めて気づいたかのように目を見開いた。
リリスだけは、レイラを見つめていた。
深紅の瞳には、明確な怒りと焦りが宿っている。
「……レイラ」
その名を呼び、リリスが唇を噛む。
「私の四座に——何をしたの」
零は理解した。
《寂滅》。
レイラの肉体だけではない。
他者の記憶に刻まれた「レイラ」という存在まで、世界から消え始めている。
そして、その侵食へ抵抗できたのは圧倒的な存在強度を持つリリスと、夢幻抱擁を宿す零だけ。
零の腕の中で、レイラの輪郭が僅かに透ける。
「大丈夫だ」
零はレイラを強く抱き締めた。
「俺は忘れない」
夢幻抱擁が激しく脈動する。
「お前を——絶対に消させない」




