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第七十環 「沈黙に抗う幻」


——夜。魔王城。


零は自室の寝台に横たわっていた。


食堂で過ごした温かな時間の余韻がまだ体の奥に残っている。


目を閉じれば、楽しそうに笑う皆の顔が浮かんだ。


——守りたい。


胸に芽生えたばかりの感情を噛み締めながら、零の意識が微睡みへ沈みかけた、そのとき。


ドンッ、ドンッ、ドンッ!!


静寂を引き裂く、激しい音。


零は反射的に寝台から跳ね起きた。


扉へ駆け寄り、勢いよく開く。


そこには魔族の侍女が立っていた。


顔は蒼白に染まり、肩を激しく上下させている。


「天津零様——敵襲です!」


侍女が途切れそうになる息を整え、必死に声を絞り出す。


「人間の戦士が城内に侵入しました!」


零の金色の瞳が鋭く細められた。


「場所は?」


「な、中庭です!」


中庭。


魔王城の中心部。


零の思考が、一瞬で加速する。


魔王城の外壁には、幾重もの防御結界が張り巡らされている。


正門を抜けた先にも複数の検問と哨戒部隊が置かれ、城の中心へ近づくほど警備は厳重になる。


それらすべてを突破し気づかれることなく中庭へ侵入したというのか。


「なぜ、そこまで侵入を許した?」


「分かりません……。哨戒班も、結界も、何一つ反応しなかったと……」


侍女は震える声で続ける。


「突然、城内の警報術式が作動して……気づいたときには、すでに中庭に……」


結界が破壊されたわけではない。


哨戒を力ずくで突破した痕跡もない。


まるで、何も存在しないかのように、魔王城の防御を素通りした。


否。


結界が反応しなかったのではない。


侵入者の存在を認識することができなかったのだ。


その瞬間。


左腕の夢幻抱擁が、警告するように強く脈動した。


「——ッ!」


零は部屋を飛び出した。


長い廊下を全速力で駆け抜ける。


幹部区画から中庭へ。


最短経路を選びながら、ウロボロスとの同調率を急速に高めていく。


 ◆


時間は少し遡る——魔王城・中庭。

 

月光が降り注ぐ中庭。


黒い薔薇が咲き乱れる庭園の中央では、巨大な噴水が絶え間なく水を噴き上げていた。


その傍らにレイラが立っている。


片手には、斥候隊から魔術通信で届いた報告書。


夜風に当たりながら、集められた情報を頭の中で整理していた。


零から転写された人界の記憶と、斥候たちから先行して届いた報告を一つずつ照合していく。


地形。


兵力。


城下の警備体制。


四聖剣が目撃された場所。


明後日に迫った作戦会議へ向けてたった一人、黙々と分析を続けていた。


そのとき。


レイラの長い耳が僅かに動いた。


音がない。


正確には、音が消えている。


噴水の水音が。


黒い薔薇を揺らしていた風の音が。


庭園の片隅から聞こえていた虫の声が。


世界を構成する音だけが——一つずつ剥がれ落ちていく。


やがて中庭は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。


レイラの緑色の瞳が鋭く細められる。


「……何?」


手にしていた報告書を放り捨て、勢いよく振り返る。


——いた。


中庭へ続く回廊の入口。


そこに、白銀の影が立っていた。


腰まで届く白い長髪。


生気の感じられない、無機質な瞳。


感情の色を持たない顔。


そして、その手に握られた白銀の大鎌。


四聖剣第三席。


《滅諦剣》メツ・ニローダ。


その周囲で、咲き誇っていた黒い薔薇が次々と色を失っていた。


黒から灰へ。


灰から白へ。


最後には輪郭さえ薄れ音もなく消滅していく。


《寂滅》。


メツから漏れ出した力の余波だけで、周囲の存在が少しずつ世界から削り取られている。


その光景を目にした瞬間、レイラは理解した。


なぜ、魔王城の防御結界が反応しなかったのか。


目の前にいる男は存在そのものを消す者。


周囲だけではない。


自らの気配や存在感すら希薄にすることで、結界に自身を認識させず、ここまで侵入したのだ。


「……人間が、魔王城に?」


声は冷静だった。


だが、その緑色の瞳の奥には隠しきれない緊張が走っている。


四座として幾多の戦場を経験してきたレイラでさえ——この相手から感じる異質さは、これまでの敵とは明らかに違っていた。


「……存在を消す類いの能力。厄介ね」


レイラは呟くと同時に、幻術を展開した。


空気が揺らぎレイラを中心に五つの分身が出現する。


すべてが本物と寸分違わない姿を持ち、魔力の気配まで完全に再現していた。


次の瞬間、本体のレイラが夜霧へ溶けるように姿を消す。


幻術師として培ってきた本能が、激しく警鐘を鳴らしていた。


この男と、正面からぶつかってはならない。


五人のレイラが、それぞれ異なる方向へ散開した。


メツは動かない。


生気のない瞳だけが、周囲を駆ける五つの幻影を見渡す。


本体を探そうとする様子はない。


やがて白銀の大鎌を片手で持ち上げ、横薙ぎに一振り。


音はなかった。


斬撃も見えない。


それでも鎌が描いた軌跡を中心に、空間が僅かに歪んだ。


直後。


五つの幻影が同時に消えた。


斬り裂かれたのではない。


幻術を構成していた魔力そのものが、《寂滅》によって消し去られたのだ。


「——ッ!」


木陰へ身を隠していたレイラの背中を、冷たい汗が伝う。


幻術が、通じない。


本物と偽物を見分けられたのではない。


メツは区別する必要すらなくそこに存在するものを、すべて消した。


虚ろな瞳が、ゆっくりとレイラの潜む木陰へ向けられる。


「……騒がしい」


低く、抑揚のない声。


「虚像も、言葉も——等しく不要だ」


白銀の大鎌を携え、メツが一歩を踏み出した。


「静寂だけが、すべてを平等にする」


メツの姿が消える。


「——っ!」


レイラは反射的に木陰から飛び出した。


次の瞬間、先ほどまで身を隠していた木が音もなく消滅する。


レイラの背後へ、白銀の影が現れた。


大鎌が振るわれる。


足元から黒い霧を噴き出し、レイラは後方へ跳躍した。


だが、僅かに遅い。


白銀の刃が、左の袖口を掠める。


触れた箇所から色と輪郭が抜け落ち、消滅が左腕へ向かって広がり始めた。


「くっ……!」


レイラは即座に袖を引き裂いた。


投げ捨てられた布は、地面へ落ちるより先に完全に消える。


あと僅かでも反応が遅れていれば左腕そのものを失っていた。


それでも、レイラの瞳から戦意は消えていない。


「目に映るものだけが——幻だと思った?」


レイラの声がメツの意識の内側から響いた。


中庭の景色が反転する。


月が砕け、地面と空が入れ替わり、無数の黒い手がメツの足元から伸びた。


五感を欺く幻ではない。


相手の精神へ直接侵入し、認識そのものを書き換える深層幻術。


メツの体へ、無数の黒い手が絡みつく。


「そのまま、自分が誰だったかも忘れなさい」


レイラが指を鳴らす。


黒い手が一斉にメツの精神へ食い込んだ。


しかし——。


「……思考もまた、騒音だ」


メツが静かに目を閉じる。


その一言とともに、精神へ侵入した黒い手が動きを止めた。


一本ずつ、音もなく。


《寂滅》に触れた箇所から、幻術そのものが消えていく。


砕けた月が消える。


反転した空が消える。


最後には、幻術を仕掛けられたという事実さえ、メツの精神から失われた。


虚ろな瞳が、再び開く。


「静寂を、侵すな」


白銀の大鎌が振り下ろされた。


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