第六十九環 「寂滅、魔界に降る」
同刻——人界・城下町。路地裏。
月明かりすら届かない路地の奥。
二つの影が冷たい石畳へ這いつくばっていた。
魔王軍斥候隊の一組。
レイラが選び抜いた精鋭であり、決して力の劣る者たちではない。
気配の遮断。
幻術による偽装。
発見された際の逃走経路。
考え得る限り、すべての備えを整えていた。
潜入は完璧だったはずだ。
だが、見つかった。
否。
——最初から、泳がされていた。
「——魔族か」
感情の見えない、低い声。
路地を満たす暗闇の中に一人の男が立っていた。
黒い大剣を肩に担ぎ、石畳へ伏した二人を無感情な瞳で見下ろしている。
四聖剣第一席。
《苦諦剣》ダッカ。
ただそこに立っているだけで、その存在から放たれる圧力が二人の体を地面へ縫い付けていた。
否、これは、単なる威圧ではない。
恐怖ですらなかった。
苦痛。
ダッカの周囲に存在するだけで、全身の古傷が疼き始める。
かつて剣に裂かれた肉が。
炎に焼かれた皮膚が。
砕かれた骨が。
すでに癒えたはずの、過去のあらゆる痛みが——鮮明に蘇っていく。
「……魔王の斥候か。最近、鼠が増えたな」
肩に担がれていた黒い大剣——《終焉剣》が、ゆっくりと持ち上がる。
斥候の一人が石畳を掻きながら、震える声を絞り出した。
「……撤退、しなければ……」
「逃がすと思うか」
ダッカが一歩、踏み出した。
それだけだった。
次の瞬間、二人の全身を想像を絶する激痛が貫いた。
——万苦転写。
生まれてから現在に至るまで、その身に刻まれたすべての痛み。
斬られた痛み。
焼かれた痛み。
骨を砕かれた痛み。
失った者を前に、何もできなかった心の痛み。
肉体と魂に刻み込まれたあらゆる苦痛が、何倍にも増幅され一斉に蘇る。
二人の口が大きく開く。
だが、悲鳴すら出なかった。
声を発する余裕さえ、すべて苦痛に奪われていた。
やがて一人が意識を失い、石畳へ崩れ落ちる。
もう一人も辛うじて息をしているだけで、指一本動かすことができない。
それでも二人は生きていた。
ダッカは、殺さなかった。
意図的に。
二人を無感情な瞳で見下ろしたのち、暗闇へ向かって低い声を放つ。
「第五席」
呼びかけに応じるように路地裏の影が揺らいだ。
暗闇の中から、小さな人影が姿を現す。
その頭上では、純白の光輪が淡い輝きを放っていた。
闇に沈んだ路地裏でその姿だけが、異質なほど白く浮かび上がっている。
「城下に侵入者だ。魔族の斥候が、少なくとも二名」
ダッカが倒れた二人へ一瞥を落とす。
「おそらく——ほかにもいる。王へ取り次げ」
第五席は何も答えない。
ただ静かに佇み、ダッカの言葉を聞いていた。
黒い大剣を担ぎ直し、ダッカは路地の出口へ歩き出す。
「俺は巡回を続ける」
足を止めることなく、冷たい声で続けた。
「——ほかの鼠も、まだ潜んでいるだろうからな」
第五席の頭上で純白の光輪が微かに揺れた。
◆
——夜。人界・王城・謁見室。
深夜。
城下町の多くが眠りに落ちている時刻にもかかわらず薄暗い謁見室には、五つの影が集められていた。
四聖剣全席。
第一席——ダッカ。
黒い大剣を背負い、謁見室の壁へ寄りかかっている。
第二席——シュウ・ザムダ。
赤黒い槍を手遊びのように回しながら、退屈そうに欠伸を漏らしていた。
第三席——メツ・ニローダ。
白銀の大鎌を携え、表情一つ変えることなく佇んでいる。
第四席——ドゥ・マーガ。
黄金と蒼、二色の輝きを宿す杖を胸元に抱き、静かに目を閉じていた。
そして第五席。
純白の光輪を頭上に浮かべた小さな影は、俯いたまま微動だにしない。
五人の正面。
謁見室の最奥に設けられた黄金の玉座には人界の王、アルトリウスが腰掛けていた。
室内を照らす僅かな灯火では、その顔を見ることはできない。
王の表情は深い影の中に沈んでいる。
ただ、その手に握られた黄金の王笏だけが、不気味な蒼白い光を放っていた。
神装——《永劫支配》。
精神への干渉と、生物の肉体さえ自在に作り替える力を持つ神装。
玉座の傍らに控える兵が、震える声で報告する。
「陛下。城下町にて、魔族の斥候二名を捕縛。ダッカ殿が行動不能にいたしました。しかし——ほかにも複数の組が潜入している可能性がございます」
王は無表情だった。
冷たい瞳には、焦りも驚きも浮かんでいない。
「——魔族の斥候だね」
まるで明日の天候について尋ねるかのような、感情の欠落した声音。
声色は歳を重ねているが、口調はまるで少年のよう。
そのアンバランスさに、兵はたじろぐ。
「つまりは——魔王が動いたかな」
王は小さく呟いた。
だが、その声に焦りはない。
むしろ、退屈を紛らわせる玩具を見つけた子供のような、微かな愉悦が滲んでいた。
やがて王は、玉座の上でゆっくりと足を組み替えた。
「メツ」
名を呼ばれ、白銀の影が一歩前へ出る。
腰まで届く白い長髪。
無機質な瞳。
感情の色を持たない顔。
その手には、白銀の大鎌《静寂鎌》。
四聖剣第三席。
《滅諦剣》メツ・ニローダ。
「…………」
メツは何も言わない。
ただ虚ろな瞳で、玉座の王を見つめている。
「部下を数名連れ、魔界へ行け」
王の口から下されたのは、あまりにも淡白な命令だった。
「——報復だ」
その言葉に、室内の空気が僅かに揺れる。
それでもメツの表情は変わらない。
王の手の中で、《永劫支配》が蒼白い光を放った。
「斥候を送り込んできたということは——魔王が人界を見ている」
王の目が、僅かに細められる。
「ならば見せてやろう。我々が——何をできるか」
「……煩わしい騒音を消せば良いのか」
「そうだよ。一つ残らず、ね」
「承知した」
メツが僅かに頷いた。
白銀の大鎌が音もなく消え、メツの姿もまた謁見室の闇へ溶けていく。
王は玉座の肘掛けに頬杖をついた。
「……あの失敗作の勇者も、まだ生きているのかな」
誰に言うでもなく——呟く。
その声を聞いた第五席の指先が、ほんの僅かに動いた。
しかし王は気づかない。
否。
気づいていながら——何も言わなかった。
「まあ、いいや」
黄金の王笏を弄びながら、王は薄く笑った。
「どちらにせよ——すべて、余の手の中だ」
《永劫支配》が心臓の鼓動のように脈動した。
◆
——魔界・国境付近。
静まり返った魔界の空へ白い亀裂が走った。
次元の狭間を切り裂くように光が広がり、暗い空に巨大な穴が穿たれる。
裂け目の向こうから白銀の影が降り立った。
四聖剣第三席。
メツ・ニローダ。
その背後には、黒装束に身を包んだ兵が五名。
全員が王直属の暗殺部隊に所属する精鋭だった。
次元の裂け目が閉じる。
再び暗闇に包まれた大地の上で、メツの白い長髪だけが不気味に揺れていた。
虚ろな瞳が遠く離れた魔王城の方角へ向けられる。
「…………」
白銀の光が、闇の中に迸った。
メツの手に《静寂鎌》が顕現する。
存在そのものを消し去る、寂滅の刃。
メツは何も告げることなく歩き始めた。
背後の暗殺者たちも、無言でそれに続く。
その動きに迷いはない。
感情もない。
命令を遂行するためだけに進む一つの機械のようだった。
メツが通り過ぎた場所で、魔界の植物が次々と色を失っていく。
鎌の刃には触れていない。
魔力を放った様子すらない。
それでも茎は萎れ、花弁は灰へ変わり、最後にはその存在の痕跡さえ薄れていった。
——《寂滅》。
メツの周囲に存在するだけで、あらゆるものが少しずつ「消えて」いく。
音が消える。
色が消える。
命が消える。
そして最後には存在したという事実さえ、世界から失われる。
白銀の死神は、魔王城へ向かって歩み続ける。
その後ろには色も音も残されていなかった。
人界からの報復は——すでに始まっていた。




