第六十八環 「復讐の先に芽生えたもの」
——朝。
零は——久しぶりに深く眠った。
悪夢を見ることも、途中で目を覚ますこともなく。
六つの枕が並ぶ広大な寝台の中央で、朝の光が差し込むまで——静かな眠りに身を委ねていた。
目を覚ますと、体が軽かった。
頭も澄み渡っている。
昨日に行ったクオンとの全力戦。その疲労さえ、一晩ですっかり抜けていた。
ウロボロスとの同調率が上昇したことで、零自身の回復力も底上げされているのだろう。
朝食を済ませた零は、再び訓練場へと向かった。
◆
——午前。魔王城・訓練場。
昨日と同じ四人の魔導士が訓練場の四方に立ち、防御結界を展開していた。
その中央にはすでにクオンが立っている。
昨日の敗北を引きずっている様子は、微塵もなかった。
それどころか燃えている。
薄橙色の瞳に宿る闘志は、昨日よりもなお強い。
「今日は——もっと長く保つ」
直後、クオンが起源回帰を発動した。
肌を赤黒い紋様が駆け抜け、額から伸びる二本の黒い鬼角が、さらに鋭く伸長する。
だが、昨日とは違う。
変化したのは、力の纏い方。
一晩で調整してきたのだろう。体内を巡る魔力の流れは昨日よりも洗練され、無駄な放出が明らかに減っていた。
零もまた、左腕の夢幻抱擁を起動する。
「——第二位階、発動」
漆黒の鎧が展開され、零の全身を覆っていく。
金色の瞳が、バイザーの奥で鈍く輝いた。
次の瞬間——二人の姿が消えた。
激突。
昨日以上の衝撃が、訓練場全体を揺るがした。
空気が弾け、大地に亀裂が走る。防御結界が激しく軋み、それを維持する四人の魔導士が揃って歯を食いしばった。
それでも——結果は変わらなかった。
クオンは昨日よりも粘った。
起源回帰の持続時間を延ばし、攻撃の組み立てを変え、零の概念操作に食らいつこうとする。
拳を減衰させられれば蹴りへ繋ぎ、蹴りを封じられれば角を振るう。
一つの攻撃に固執せず、あらゆる手段で零へ迫った。
だが、零もまた、昨日より先へ進んでいた。
概念操作の精度が、さらに上がっている。
減衰と増幅。
相反する二つの操作を切り替える速度は、もはや呼吸と変わらない。
クオンの拳が届く寸前、その威力を限りなく零へ近づける。
同時に自らの一撃を増幅し、空いた懐へ正確に打ち込む。
攻防の切り替えに淀みがない。
やがて起源回帰の限界を迎え、クオンが片膝をついた。
「……くっ……!」
荒い呼吸を繰り返しながらも、その顔には笑みが浮かんでいた。
悔しさを滲ませながら、それ以上に戦いを楽しんでいる。
「明日も——やるぞ」
クオンは自らの足で立ち上がると、零へ拳を突き出した。
その表情に、敗北の陰りはない。
昨日よりも強くなれた。
そして明日は、今日よりも強くなれる。
そう確信している者の、清々しい笑顔だった。
零も小さく笑い、差し出された拳へ自らの拳を重ねた。
◆
——午後。零の自室。
訓練を終え、昼食を済ませた零は自室へ戻った。
午後の予定はない。
斥候隊は、レイラが立案した潜入計画に従って人界で行動している。
ルシアは魔法部隊の最終調整。
シエラは上空からの偵察。
そしてリリスは、執務室で出征前の仕事に追われていた。
広大な部屋を静寂が満たしている。
零は寝台の上で胡坐をかくと、ゆっくり目を閉じた。
瞑想。
左腕のブレスレットが、鼓動に呼応するように微かに脈動する。
ウロボロスとの対話。
零は自らの意識を、果ての見えない概念の海へと沈めていった。
——一を無限へ。
——無限を零へ。
その本質をさらに深く理解するために。
増幅と減衰は、表層に現れた力にすぎない。
ウロボロスが司る真の力は概念そのものへの干渉。
存在の定義さえ、塗り替える力。
零の意識が——深く、さらに深く沈んでいく。
光の届かない暗闇。
その奥に巨大な蛇が見えた。
自らの尾を咥え、永遠に巡り続ける無限の蛇。
ウロボロスの原型。
始まりと終わり。
創造と破壊。
生と死。
相反するはずのすべてを内包し、一つの円環として繋ぐ存在。
やがて巨大な蛇が零へ顔を向けた。
金色の瞳と金色の瞳が交差する。
言葉はない。
それでも零には、ウロボロスが何を伝えようとしているのか僅かに分かった気がした。
左腕のブレスレットが、ひときわ強く脈動する。
同調率がまた一段、上がった。
零は静かに息を吐いた。
瞑想の深度が、昨日までとは明らかに違う。
巨大な蛇の残像が意識の奥底で蜷局を巻き、零の魔力回路そのものへ溶け込んでいくような感覚。
その中で零は概念操作が持つ、新たな可能性に触れようとしていた。
増幅と減衰。
それだけではない。
概念そのものの書き換え。
存在を形作る定義へ干渉し、別のものへと塗り替える領域。
今の零では、まだ届かない。
手を伸ばしても、指先が僅かに触れるだけ。
それでも確かに見えた。
これまで深い霧に閉ざされていた力の輪郭が、今は朧げながら浮かび上がっている。
あと少し。
何か一つ、きっかけさえあれば——
零はゆっくりと目を開いた。
窓の外には、すでに夕暮れが広がっていた。
沈みかけた太陽から伸びる橙色の光が部屋へ差し込み、広大な寝台と、そこに並ぶ六つの枕を淡く染めている。
数時間もの時がほんの一瞬のように過ぎていた。
明日は人界へ潜入している斥候隊が、魔王城へ帰還する予定の日。
そして、その翌日には集められた情報をもとに作戦会議が開かれる。
いよいよすべてが動き始める。
零は左手を持ち上げ、静かに拳を握った。
その決意に応えるように、夢幻抱擁が温かな脈動を返した。
◆
——夜。魔王城・食堂。
その夜は珍しく全員が揃っていた。
長テーブルの上座にはリリス。
その隣にルシアが座り、向かい側にはシエラ、レイラ、クオン。そして零。
テーブルの上には、普段にも増して豪勢な料理が並べられていた。
香ばしく焼き上げられた肉が山のように積まれ、色とりどりの甘味が所狭しと並ぶ。
そしてシエラの前にはすでに空になった酒瓶が三本。
「いやー、久しぶりじゃない? こうして全員揃うの」
空色の髪を揺らしながら、シエラが上機嫌に杯を傾ける。
頬はすでに僅かに赤い。
「飲みすぎなければ、もっと頻繁に揃えるのよ。いつも翌朝起きられないじゃない」
「えー、それとこれとは別でしょ」
「何が別なのよ」
二人の言い合いを気にすることなく、クオンは黙々と肉を頬張っていた。
「肉、美味い」
だが時折、隣に座る零へ、ちらちらと視線を送っている。
やがて肉を飲み込むと、クオンは零へ顔を向けた。
「零。明日もやるぞ」
「クオン。食事中くらい、訓練の話はやめなよ」
レイラが紅茶を口に運びながら、穏やかに窘める。
その緑色の瞳が一瞬だけ零へ向けられた。
視線だけの、短い会話。
二人だけが知る秘密を共有する者同士の無言の確認。
——斥候隊は順調よ。
その瞳は、そう告げているように見えた。
「……ねえ」
白銀の髪を指先で弄びながら、リリスが口を開いた。
深紅の瞳が長テーブルを囲む全員を見渡す。
「こうして全員で食卓を囲めるのも、作戦前は今夜が最後かもしれないわね」
軽い口調。
だが、その言葉が落ちた瞬間、賑やかだった食堂の空気が止まった。
「明日、斥候隊が帰還する。明後日は、集めた情報をもとに作戦会議を開く」
深紅の瞳が零を捉える。
「その後は——本番よ」
暫しの沈黙。
やがてリリスは、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「だから今夜は好きなだけ食べて、好きなだけ飲みなさい」
僅かに間を置き、告げる。
「魔王命令よ」
「おっ、魔王様公認! それなら遠慮なく——」
真っ先に反応したシエラが、四本目の酒瓶へ手を伸ばす。
その手を、ルシアがすかさず掴んだ。
「だからって飲みすぎないでよ! あんた、明日も任務があるでしょ!」
「大丈夫、大丈夫。私、酔ってても強いから」
「何が大丈夫よ! この前、酔っ払って訓練場の壁を壊したのは誰!?」
「あはは。あれは面白かったよね」
レイラが楽しそうに笑う。
「翌朝になったら、『え、私なんかした?』って、本気で首を傾げてたし」
「……え? そんなことあった?」
シエラの表情から笑みが消える。
「……あった。私が直した」
肉を食べる手を止めることなく、クオンが淡々と告げる。
「……マジ? ごめん……」
先ほどまでの勢いはどこへ消えたのか。
シエラが酒瓶からそっと手を離し、気まずそうに縮こまる。
その姿を見て食堂に笑い声が響いた。
平和な夜。
温かな料理と、仲間たちの笑い声。
これから戦争へ向かうことなど、忘れてしまいそうなほど穏やかな時間。
だが、零は感じていた。
この温もりの裏側に、消すことのできない影が潜んでいることを。
明後日には作戦会議が始まり、その先には人界との戦いが待っている。
この食卓を囲む誰かが、傷つくかもしれない。
あるいは二度と帰ってこられないかもしれない。
零の手が止まった。
静かに視線を巡らせる。
酒を飲みながら笑うシエラ。
そんな彼女を叱りつけるルシアと、二人のやり取りを楽しそうに眺めるレイラ。
黙々と肉を食べ続けるクオン。
そして、穏やかな表情で全員を見守る、リリスの横顔。
この光景を守りたい。
その感情が胸の奥へ落ちた瞬間、零は気づいた。
自分が少しずつ変わり始めていることに。
初めは、復讐だけだった。
妹を奪った人界の王を殺す。
そのためなら、自分がどうなろうと構わない。
そう思っていたはずなのに——
復讐だけで満たされていた心に、いつの間にか別の何かが根を張り始めていた。
失いたくない。
この場所も。
この時間も。
ここにいる——誰も。




