第六十七環 「死ぬな、それが命令」
——夕方。魔王城・訓練場。
クオンは退かなかった。
戦斧を引き戻し、その勢いのまま身体を回転させる。
巨大な刃が横薙ぎに迫る。
零は身を沈めて回避した。
だが、クオンの攻撃は終わらない。
戦斧を振り抜いた体勢から踏み込み、零の顔面へ膝を突き上げる。
零は咄嗟に腕を交差させた。
膝蹴りが《無窮蛇装》へ激突する。
漆黒の鱗を通してなお、骨まで響くような衝撃が零を襲った。身体が僅かに浮き、そのまま後方へ押し戻される。
クオンが追う。
振り下ろし。
横薙ぎ。
石突きによる突き。
さらに戦斧を支点とした回し蹴り。
起源回帰によって強化された身体から、途切れることなく攻撃が繰り出される。
その一撃一撃が、まともに受ければ《無窮蛇装》すら砕きかねない。
クオンの膂力は、今なお零を上回っている。
零が概念操作を一瞬でも遅らせれば、その時点で勝負は決まる。
それでも零は、迫り来る連撃を捌き続けた。
一撃目の威力を《減衰》させる。
二撃目は、刃の側面へ触れて軌道を逸らす。
三撃目を受け流し、直後に空いたクオンの脇腹へ拳を打ち込む。
《増幅》を纏った拳が、クオンの身体を捉えた。
「ぐっ——!」
クオンの身体がくの字に折れる。
しかし、止まらない。
痛みを無視して上体を起こし、至近距離から戦斧を振り上げた。
鬼族の頑強な肉体。
それ以上に——いかなる相手にも屈することを拒む、戦士としての意地。
零はクオンの連撃を防ぎながら、その動きを観察していた。
攻撃の間隔。
呼吸のリズム。
筋肉が収縮する順番。
戦斧を振り始める直前に生まれる、重心の僅かな偏り。
《夢幻抱擁》とのつながりが深まったことで、零の知覚も以前より鋭敏になっている。
完全に未来が見えるわけではない。
だが、身体に現れる予備動作から、次の攻撃を予測することはできる。
四度目の攻防。
クオンが踏み込む。
五度目。
両手で握られた戦斧が、渾身の力で横薙ぎに振るわれた。
零は回避しなかった。
迫る戦斧の側面へ、開いた手を添える。
「《減衰》」
刃に蓄積されていた運動エネルギーが、急激に失われた。
訓練場を両断するはずだった一撃が、まるで水中へ沈んだかのように勢いをなくす。
予想外の抵抗に、クオンの体勢が崩れた。
零はその隙を逃さない。
懐へ踏み込み、クオンの胸当てへ拳を突きつける。
「《増幅》」
衝撃が爆発した。
クオンの身体が吹き飛ぶ。
四重結界の壁へ激突し、青白い光が激しく明滅した。
衝撃を受けた四人の魔導士が、一斉に呻く。
光の壁に亀裂が走った。
それでも四人は杖を握り締め、残る全魔力を注ぎ込む。結界は崩壊寸前で辛うじて持ち堪えた。
砂塵が晴れていく。
クオンは結界の壁を背にして片膝をついていた。
伸びていた鬼角が元の大きさへ戻り、肌を覆っていた赤黒い紋様も薄れていく。
起源回帰を維持する力が残っていない。
荒い呼吸を繰り返しながら、クオンは顔を上げた。
その口元には——笑みが浮かんでいた。
「……強い」
悔しさはある。
それでも、自分を打ち破った零の成長を喜ぶ気持ちの方が勝っていた。
「二日前より、遥かに強くなっている」
クオンは傍らに落ちた戦斧を支えにして、ゆっくりと立ち上がった。
膝は僅かに震えている。
無理に歩こうとはせず、その場から零を見つめた。
「お前は……どこまで強くなる?」
橙色の瞳には、戦士としての敬意が宿っていた。
同時に、それだけでは説明できない熱も浮かんでいる。
強者を求める鬼族の本能。
戦士として隣に立ちたいという願い。
そして零を、好敵手ではなく一人の男として意識し始めた感情。
「……やはり、お前は私の——」
クオンは言葉を止めた。
僅かに目を伏せ、首を横へ振る。
今はまだ、その感情へ名前を与える時ではない。
クオンは戦斧から片手を離し、零へ拳を差し出した。
「私の負けだ。……完敗」
零も拳を差し出す。
二人の拳が、訓練場の中央で静かに触れ合った。
清々しい笑みを浮かべるクオンの姿を、四人の魔導士は呆然と見つめていた。
魔王直属四座の一人が、起源回帰まで発動して敗れた。
しかも相手は、魔界へ来てまだそこそこの人間。
零が魔王の卵として認められたという噂。
その意味を、四人は今——自らの目で理解していた。
◆
——夜。魔王城・零の自室。
湯気の立ち込める浴室で、零は広い浴槽に肩まで浸かっていた。
幹部区画へ移されたことで、浴室も以前とは比較にならないほど広くなっている。
白い大理石で造られた浴槽。
湯は魔力によって一定の温度に保たれ、戦闘で傷ついた身体をゆっくりと温めていた。
零は湯の中から右手を出し、何度か開閉する。
確かな手応えが残っている。
以前のクオンとの訓練では、二重概念操作を使ってようやく互角に渡り合った。
今日は、同じ能力をより正確に、より深く作用させることができた。
だからこそ、起源回帰したクオンの動きを崩し、勝利できた。
純粋な身体能力でクオンを超えたわけではない。
概念操作が一瞬でも遅れていれば、倒れていたのは零の方だった。
それでも、神装との同調が日に日に深まっていることは間違いない。
発動速度。
精度。
干渉できる深さ。
その全てが、昨日までとは明らかに違う。
零は左腕の《夢幻抱擁》へ目を向けた。
腕輪が心臓の鼓動に合わせ、微かな脈動を返している。
作戦会議まで、あと三日。
その間に、どこまで強くなれるのか。
零は静かに目を閉じた。
湯の温もりが、酷使した筋肉をほぐしていく。
身体には疲労が残っていた。
四重概念操作の反動も、完全には消えていない。
焦りに任せて無茶をすれば、肝心の人界攻略を前に動けなくなる。
休むことも、今の自分に必要な準備だ。
そう理解していても——立ち止まっている時間が惜しかった。
◆
同刻——魔王城・大広間。
松明の炎が揺れる広間に、五十人の魔族が整列していた。
全員が黒装束に身を包み、深く被ったフードで顔を隠している。
気配の遮断。
幻術への適性。
敵地での状況判断。
二百名を超える候補の中から、レイラが選び抜いた斥候たちだった。
その五十人の前に、リリスが立っている。
松明の光を受け、白銀の髪が揺れていた。
深紅の瞳が、居並ぶ斥候たちを見渡す。
言葉を発する前から、大広間の空気は張り詰めていた。
「顔を上げなさい」
静かな声。
それでも、その場にいる全員が逆らうことのできない重さを持っていた。
五十人の斥候が一斉にフードを外し、顔を上げる。
「あんたたちに命じるのは、人界の情報収集よ」
リリスの深紅の瞳が、鋭く細められた。
「王城の現在の警備配置。四聖剣の所在と動向。王の行動。そして、人界軍の戦力」
零の記憶によって、王城の基本構造は把握できた。
しかし、それは一年前までの情報だ。
現在の警備がどう変化しているのか。
四聖剣がどこに配置され、どの程度の兵力を動かせるのか。
作戦会議には、最新の情報が必要だった。
「二人一組で行動しなさい。全部で二十五組。潜入する区画と担当は、レイラから伝える」
リリスが一歩前へ出る。
それだけで存在感が膨れ上がり、五十人の斥候が揃って息を呑んだ。
「単独行動は許可しない。どちらかが負傷した場合、もう一人が連れ帰るためよ」
深紅の瞳が、一人ひとりの顔を確認していく。
「敵に発見されたら即座に撤退。戦闘は禁止。あんたたちの仕事は情報を持ち帰ること」
そこで声の調子が、僅かに低くなった。
「敵兵を倒して、死んで英雄になることじゃない」
静まり返った大広間に、リリスの声が響く。
「……私の部下を、無駄死にさせるつもりはないの」
魔王としての冷厳さの奥に、確かな意志があった。
兵士を消耗品として扱うのではない。
生きて帰るところまで含めて、彼らへ与えられた任務なのだ。
「もう一度言うわ」
リリスの深紅の瞳が鋭く光る。
「死ぬな。情報を持って帰れ。——それが命令よ」
五十人の斥候が、一斉に膝をついた。
「「「——御意!」」」
揃った声が、大広間を震わせる。
リリスは背後に控えていたレイラへ視線を向けた。
「レイラ。組み合わせと潜入先の割り振りは任せる。零から得た情報を活かしなさい」
「了解。最適な組み合わせにするよ」
レイラの緑色の瞳には、昼間の柔らかさがない。
今ここにいるのは、魔王軍の頂点、魔王直属四座。
幻術と智謀を司る、斥候部隊の指揮官だった。
「期限は明後日の夜。全組、それまでに帰還させなさい」
リリスが白銀の髪を翻し、斥候たちへ背を向ける。
「作戦会議に、必ず間に合わせるわよ」
足音を響かせ、リリスは大広間を後にした。
やがて扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
残されたレイラは、五十人の斥候を見渡した。
「さて。魔王様から聞いた通りよ。これから組み合わせと潜入先を割り振る」
穏やかな口調だった。
しかし、緑色の瞳は冷たく研ぎ澄まされている。
「任務中に見聞きしたものは、帰還後に私が幻術で直接確認する。本人が重要ではないと思った情報でも、作戦を左右する可能性があるから」
レイラの口元に、妖艶な笑みが浮かんだ。
「だから、どれほど些細なことでも記憶しておいて。王城の壁にできた傷一つ、兵士の欠伸一つだって、見逃さないでね」
五十人の斥候たちの表情が引き締まる。
「そして、魔王様から命じられたことを忘れないで」
レイラの笑みが消えた。
「必ず、生きて帰ってきなさい」
斥候たちは再び一斉に頭を下げた。
◆
——零の自室・浴室。
零は湯の中で、静かに拳を握った。
作戦会議。
人界への反攻。
妹を奪った王との戦い。
その時までに、自分にできることを全てやる。
湯気の向こうに、失った妹の顔が浮かんだ。
笑っていた頃の顔。
助けを求めていた、最後の顔。
零の金色の瞳が、静かな決意を帯びる。
——待っていろ。
必ず、俺が終わらせる。




