第六十四環 「六人用のベッド」
——夜。魔王城・廊下。
湯浴みを終えた零は、一人で魔王城の廊下を歩いていた。
四重概念操作の反動によって、全身が鉛のように重い。
湯の温もりで多少は疲労が和らいだものの、身体の芯にはまだ鈍い痺れが残っていた。
濡れた髪を布で拭いながら、これまで使っていた自室へ戻ろうとした時だった。
「あ、あの……!」
背後から、震えた声が聞こえた。
零が振り返る。
そこには、小柄な魔族の女性が立っていた。
短い黒髪の間から、小さな角が覗いている。身に纏っているのは、魔王城で働く侍女の装束だ。
その頬は、なぜか真っ赤に染まっていた。
「天津零様……ですよね。お部屋の件で、ご案内に参りました」
声が上擦っている。
零と目が合うたびに慌てて逸らし、それでも気になるのか、すぐにまた金色の瞳を見つめてくる。
「こ、こちらです。ついてきてください」
侍女は早口で告げると、零へ背を向けて歩き始めた。
しかし、その足取りはどこか覚束ない。
何度も後ろを振り返り、零がついてきていることを確かめる。その度に、頬の赤みが増していた。
「あの、今日の……闘技場でのこと、聞きました。魔王様と戦われたって」
リリスとの腕試しには、ルシアの障壁とレイラの認識阻害が施されていた。
そのため、戦いを直接目撃した者は限られている。
しかし、リリスが零の実力を直々に確かめ、四日後の作戦会議への出席を許可したという結果だけは、既に城内へ広まっているらしい。
「すごいです。その……」
侍女が足を止めた。
意を決したように振り返り、零の顔を見上げる。
潤んだ瞳に浮かんでいるのは、恐怖ではない。
力ある者へ向けられる、純粋な憧憬だった。
「……かっこいいです」
絞り出すように告げる。
直後、自分が何を言ったのか気づいたらしい。侍女は慌てて前を向いた。
「す、すみません! ご案内の途中なのに……! こちらです!」
早足になった侍女の背中を追いながら、零は周囲の変化に気づいた。
今まで歩いていた一般区画とは違う。
壁や柱に施された装飾は一層精緻になり、通路の幅も広くなっている。等間隔に並ぶ魔力灯も、柔らかく上質な光を放っていた。
ここは魔王城の幹部区画だ。
それも、城の中枢に近い最上級の一画。
「本日付で、零様のお部屋が変更になりました。魔王様からの、直接のご指示です」
侍女が一つの扉の前で立ち止まる。
「四座の皆様のお部屋も、すぐ近くにございます。そして——」
侍女が廊下の奥を示した。
そこには、他の部屋とは明らかに異なる巨大な扉がある。
黒と深紅を基調とした装飾。
中央に刻まれているのは、魔王の紋章。
「魔王様のお部屋にも、近くなっております」
零の部屋を移した理由が、単なる待遇改善ではないことは明らかだった。
魔王直属四座と同じ区画。
そして、魔王の私室にも近い場所。
それは零が、魔王軍の中枢に立つ者として認められたことを意味している。
侍女が扉を開けた。
「どうぞ。こちらが、本日から零様にお使いいただくお部屋です」
零の前に広がったのは、以前の部屋とは比較にならない空間だった。
広さは少なくとも三倍近い。
扉の先には大きな居間があり、中央には数人が同時に座れるソファが置かれている。壁際には暖炉があり、その奥には書斎と訓練用の小部屋まで備えられていた。
専用の浴室もある。
先ほど共同の浴場で湯浴みを済ませてきたばかりの零は、その設備を見て僅かに肩を落とした。
「もっと早く教えてほしかった……」
しかし、その程度の驚きは、寝室の扉を開けた瞬間に吹き飛んだ。
零は入り口で足を止めた。
寝室の中央に置かれていたのは、天蓋付きの巨大なベッドだった。
深紅と黒の薄布が天蓋から垂れ下がり、絹のシーツが窓から差し込む月光を反射している。
どう見ても、一人で使う大きさではない。
六人が横になっても、余裕がありそうなほど広い。
そして、ベッドの上には——枕が六つ並べられていた。
今朝、リリスが口にした言葉が脳裏に蘇る。
『六人用くらい? まあ——必要でしょ』
あれは冗談ではなかったらしい。
零は巨大なベッドと六つの枕を前に、しばらく言葉を失っていた。
「以上が、新しいお部屋のご案内となります」
一通りの説明を終えた侍女が、零の背後で深く頭を下げる。
しかし、そのまま立ち去ろうとはしなかった。
小さな角が微かに震え、黒髪の下に覗く耳が赤くなっている。両手はスカートの上で強く握り締められていた。
「何かお困りのことがございましたら、お気軽にお申し付けください」
声が再び上擦る。侍女は零を見上げ、すぐに目を逸らした。
「その……お部屋のこと以外でも」
「部屋のこと、以外……?」
零が聞き返す。
侍女の肩が跳ねた。
何度か口を開きかけ、言葉を呑み込む。
それでも最後には意を決し、潤んだ瞳で零を見つめた。
「……夜の方でも」
消え入りそうな声だった。
頬の赤みが、首筋にまで広がっている。
それでも、言葉を撤回しようとはしなかった。
「私でよろしければ……いつでもお呼びください。すぐに参りますので」
魔族は、力ある者に惹かれる。
それは単なる恋愛感情だけではない。
憧憬であり、尊敬であり、時には忠誠にも近い本能だ。
魔王と直接戦い、その力を認められた人間。
闘技場で零が放った存在圧の噂は、既に城中へ広まり始めている。
侍女にとって、その零へ自らを捧げることは、決して恥ではない。
むしろ、誇りにさえなり得ることだった。
しかし、零は静かに首を横へ振った。
「ごめん。さすがに、それは……」
穏やかに。
それでも、誤解を残さないよう明確に断る。
侍女の瞳が揺れた。
期待と落胆が混ざり合い、唇が僅かに震える。
それでも、傷ついたような表情は浮かべなかった。
むしろ、零が力や立場を利用しようとしなかったことに安堵したのか、再び頬を赤くした。
「……そう、ですよね。すみません。突然、こんなことを……」
侍女が深々と頭を下げる。
そして部屋を出る直前、もう一度だけ零を振り返った。
「でも、お気持ちが変わりましたら、いつでも。私はこの区画の担当ですので」
恥ずかしそうに微笑み、扉へ向かう。
その背中が廊下へ消えようとした時だった。
「あら」
空色の長い髪が、廊下の薄闇に揺れた。
シエラが壁に肩を預け、腕を組んで立っている。
青い瞳は、零の部屋から出てきた侍女を真っ直ぐに捉えていた。
口元には薄い笑みが浮かんでいる。
しかし——目は笑っていない。
侍女の身体が、びくりと強張った。
四座の一人。
竜族であるシエラから放たれる、存在圧とはまた違う圧を前に、小柄な身体が目に見えて縮こまる。
「し、失礼いたします!」
侍女は慌てて一礼すると、逃げるように廊下を駆けていった。
シエラの視線が、その背中を追い続ける。
番に近づこうとした女を警戒する、竜の本能。
侍女の足音が完全に聞こえなくなってから、シエラはようやく零へ視線を戻した。
「……夜の方でも、だって」
声は穏やかだった。
しかし、その奥には隠しきれない嫉妬が滲んでいる。
シエラは壁から背を離すと、零の部屋へ足を踏み入れた。
背後で扉が静かに閉まる。
「断ってくれたみたいだけど」
一歩。
また一歩。
髪を揺らしながら、零との距離を詰めていく。
青い瞳は、零を捉えて離さない。
「——当然よね?」
囁くような声だった。
それでも、有無を言わせない響きがある。
竜族が選ぶ番は、生涯にただ一人。
他の女が番へ近づこうとするのを、シエラの本能が許すはずもなかった。
シエラの手が、零の胸元を掴む。
湯上がりの薄い衣を指先で掴み、そのまま自分の方へ引き寄せた。
「今からは——番の時間」
至近距離から零を見上げる。
青い瞳の奥で、瞳孔が僅かに縦へ裂けた。
人の姿をしていても、シエラは竜だ。
その瞳には、番を求める竜族の本能がありありと浮かんでいる。
シエラは零の背後へ視線を向ける。
そこにあるのは、黒と深紅に彩られた巨大なベッド。
そして、並べられた六つの枕。
「あのベッド、広くていいじゃん」
シエラの唇が、誘うような弧を描く。
「——試してみない?」
「た、試すって……」
「大丈夫、無理はさせないから......たぶん?」
◆
——朝。魔王城・新しい自室。
朝の光が、天蓋から垂れ下がる薄布を透かしていた。
零が目を覚ました時、隣にシエラの姿はなかった。
早朝の飛行は、竜族である彼女の日課だ。
既に起き出し、魔界の空を飛んでいるのだろう。
枕には空色の髪が一本だけ残り、シーツには二人分の温もりが微かに残っている。
零が身支度を整えていると、部屋の扉が勢いよく開いた。
「入るわよ」
ノックと同時だった。
こちらの返事を待つ気は、最初からないらしい。
部屋へ入ってきたのはルシアだった。
ダークレッドのツインテールを揺らしながら、真紅の瞳で新しい部屋を見渡す。
「……へえ。随分と広くなったじゃない」
まず居間。
次にソファと暖炉。
壁際の書棚まで、一つずつ確認するように視線を動かしていく。
「ソファも上等ね。この暖炉は魔力式か。書斎もあるし……まあ、魔王様直々の指示なら当然ね」
独り言のように呟きながら、部屋の奥へ進む。
浴室を覗き、訓練用の小部屋を確認する。
そして——寝室の扉を開けた。
ルシアの足が止まった。
目の前にあるのは、六人用の巨大な天蓋付きベッド。
深紅と黒の絹のシーツ。
整然と並べられていたはずの、六つの枕。
そのうち二つには、明らかに使用された跡が残っている。
一本の青い鮮やかな髪の毛、そして、僅かに乱れたシーツからは、竜族特有の魔力も漂っていた。
ルシアは無言でベッドを見つめた。
一秒。
二秒。
三秒。
ダークレッドのツインテールが、ぴくりと跳ねる。
「……六人用のベッドに、枕が六つ」
感情を押し殺した、平坦な声。
「それで、初日から二つ使用済み」
ルシアは腕を組み直した。
指先が二の腕へ食い込んでいる。
「……呆れた」
ゆっくりと振り返る。
真紅の瞳が、零を鋭く射抜いた。
表面に浮かんでいるのは呆れ。
しかし、その奥では別の感情が燻っている。
「あんた、昨日の今日でもうこれ? 魔王様に認められた日の夜に?」
「えーっと……」
ルシアが一歩、零へ近づく。
「……シエラでしょ」
乱れたベッドへ目を向け、僅かに眉を寄せた。
「竜族の魔力が、これだけ残ってれば分かるわよ」
ルシアはすぐに顔を逸らした。
「別にいいけど」
言葉とは裏腹に、唇は不満そうに尖っている。
「あんたの私生活なんて、私には関係ないし」
零は黙ってルシアを見る。
その視線に気づいたルシアの頬が、見る間に赤くなった。
「な、何よ」
「いや。ずいぶん気にしてるなと思って」
「気にしてないわよ!」
反射的に言い返した声が、広い寝室へ響いた。
ルシアは我に返り、誤魔化すように黒い魔女帽子の位置を直す。
「私は、あんたの指導役として生活態度を確認してるだけ。昨日みたいな無茶をした直後に、朝まで休めなかったせいで倒れられたら迷惑なのよ」
「ちゃんと休んだ」
「そういう問題じゃない!」
再び声を上げてから、ルシアは零の身体を確かめるように見つめた。
四重概念操作の反動。
昨日と比べるとだいぶマシだが、今朝の零の顔に、疲労が残っていることも見抜いている。
ルシアは何か言おうとして、結局言葉を呑み込んだ。
「……もういい」
拗ねたように呟き、寝室を出ていく。
しかし、そのまま部屋から立ち去ろうとはしなかった。
居間を抜け、扉の前で零を待っている。
「朝食」
ぶっきらぼうな声だった。
「行くの? 行かないの?」
「……行く」
零が答えると、ルシアは僅かに表情を緩めた。
だが、それを悟られる前に顔を背ける。
「だったら、早くしなさいよ」
ルシアは零を置いていかない程度の速さで、廊下を歩き始めた。
その少し前を揺れるツインテールを見ながら、零も食堂へ向かう。
新しい部屋で迎えた最初の朝。
六人用のベッドを巡る騒動は——どうやら、これで終わりではなさそうだった。




