↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/117

第六十四環 「六人用のベッド」


——夜。魔王城・廊下。


湯浴みを終えた零は、一人で魔王城の廊下を歩いていた。


四重概念操作の反動によって、全身が鉛のように重い。


湯の温もりで多少は疲労が和らいだものの、身体の芯にはまだ鈍い痺れが残っていた。


濡れた髪を布で拭いながら、これまで使っていた自室へ戻ろうとした時だった。


「あ、あの……!」


背後から、震えた声が聞こえた。


零が振り返る。


そこには、小柄な魔族の女性が立っていた。


短い黒髪の間から、小さな角が覗いている。身に纏っているのは、魔王城で働く侍女の装束だ。


その頬は、なぜか真っ赤に染まっていた。


「天津零様……ですよね。お部屋の件で、ご案内に参りました」


声が上擦っている。


零と目が合うたびに慌てて逸らし、それでも気になるのか、すぐにまた金色の瞳を見つめてくる。


「こ、こちらです。ついてきてください」


侍女は早口で告げると、零へ背を向けて歩き始めた。


しかし、その足取りはどこか覚束ない。


何度も後ろを振り返り、零がついてきていることを確かめる。その度に、頬の赤みが増していた。


「あの、今日の……闘技場でのこと、聞きました。魔王様と戦われたって」


リリスとの腕試しには、ルシアの障壁とレイラの認識阻害が施されていた。


そのため、戦いを直接目撃した者は限られている。


しかし、リリスが零の実力を直々に確かめ、四日後の作戦会議への出席を許可したという結果だけは、既に城内へ広まっているらしい。


「すごいです。その……」


侍女が足を止めた。


意を決したように振り返り、零の顔を見上げる。


潤んだ瞳に浮かんでいるのは、恐怖ではない。


力ある者へ向けられる、純粋な憧憬だった。


「……かっこいいです」


絞り出すように告げる。


直後、自分が何を言ったのか気づいたらしい。侍女は慌てて前を向いた。


「す、すみません! ご案内の途中なのに……! こちらです!」


早足になった侍女の背中を追いながら、零は周囲の変化に気づいた。


今まで歩いていた一般区画とは違う。


壁や柱に施された装飾は一層精緻になり、通路の幅も広くなっている。等間隔に並ぶ魔力灯も、柔らかく上質な光を放っていた。


ここは魔王城の幹部区画だ。


それも、城の中枢に近い最上級の一画。


「本日付で、零様のお部屋が変更になりました。魔王様からの、直接のご指示です」


侍女が一つの扉の前で立ち止まる。


「四座の皆様のお部屋も、すぐ近くにございます。そして——」


侍女が廊下の奥を示した。


そこには、他の部屋とは明らかに異なる巨大な扉がある。


黒と深紅を基調とした装飾。


中央に刻まれているのは、魔王の紋章。


「魔王様のお部屋にも、近くなっております」


零の部屋を移した理由が、単なる待遇改善ではないことは明らかだった。


魔王直属四座と同じ区画。


そして、魔王の私室にも近い場所。


それは零が、魔王軍の中枢に立つ者として認められたことを意味している。


侍女が扉を開けた。


「どうぞ。こちらが、本日から零様にお使いいただくお部屋です」


零の前に広がったのは、以前の部屋とは比較にならない空間だった。


広さは少なくとも三倍近い。


扉の先には大きな居間があり、中央には数人が同時に座れるソファが置かれている。壁際には暖炉があり、その奥には書斎と訓練用の小部屋まで備えられていた。


専用の浴室もある。


先ほど共同の浴場で湯浴みを済ませてきたばかりの零は、その設備を見て僅かに肩を落とした。


「もっと早く教えてほしかった……」


しかし、その程度の驚きは、寝室の扉を開けた瞬間に吹き飛んだ。


零は入り口で足を止めた。


寝室の中央に置かれていたのは、天蓋付きの巨大なベッドだった。


深紅と黒の薄布が天蓋から垂れ下がり、絹のシーツが窓から差し込む月光を反射している。


どう見ても、一人で使う大きさではない。


六人が横になっても、余裕がありそうなほど広い。


そして、ベッドの上には——枕が六つ並べられていた。


今朝、リリスが口にした言葉が脳裏に蘇る。


『六人用くらい? まあ——必要でしょ』


あれは冗談ではなかったらしい。


零は巨大なベッドと六つの枕を前に、しばらく言葉を失っていた。


「以上が、新しいお部屋のご案内となります」


一通りの説明を終えた侍女が、零の背後で深く頭を下げる。


しかし、そのまま立ち去ろうとはしなかった。


小さな角が微かに震え、黒髪の下に覗く耳が赤くなっている。両手はスカートの上で強く握り締められていた。


「何かお困りのことがございましたら、お気軽にお申し付けください」


声が再び上擦る。侍女は零を見上げ、すぐに目を逸らした。


「その……お部屋のこと以外でも」


「部屋のこと、以外……?」


零が聞き返す。


侍女の肩が跳ねた。


何度か口を開きかけ、言葉を呑み込む。


それでも最後には意を決し、潤んだ瞳で零を見つめた。


「……夜の方でも」


消え入りそうな声だった。


頬の赤みが、首筋にまで広がっている。


それでも、言葉を撤回しようとはしなかった。


「私でよろしければ……いつでもお呼びください。すぐに参りますので」


魔族は、力ある者に惹かれる。


それは単なる恋愛感情だけではない。


憧憬であり、尊敬であり、時には忠誠にも近い本能だ。


魔王と直接戦い、その力を認められた人間。


闘技場で零が放った存在圧の噂は、既に城中へ広まり始めている。


侍女にとって、その零へ自らを捧げることは、決して恥ではない。


むしろ、誇りにさえなり得ることだった。


しかし、零は静かに首を横へ振った。


「ごめん。さすがに、それは……」


穏やかに。


それでも、誤解を残さないよう明確に断る。


侍女の瞳が揺れた。


期待と落胆が混ざり合い、唇が僅かに震える。


それでも、傷ついたような表情は浮かべなかった。


むしろ、零が力や立場を利用しようとしなかったことに安堵したのか、再び頬を赤くした。


「……そう、ですよね。すみません。突然、こんなことを……」


侍女が深々と頭を下げる。


そして部屋を出る直前、もう一度だけ零を振り返った。


「でも、お気持ちが変わりましたら、いつでも。私はこの区画の担当ですので」


恥ずかしそうに微笑み、扉へ向かう。


その背中が廊下へ消えようとした時だった。


「あら」


空色の長い髪が、廊下の薄闇に揺れた。


シエラが壁に肩を預け、腕を組んで立っている。


青い瞳は、零の部屋から出てきた侍女を真っ直ぐに捉えていた。


口元には薄い笑みが浮かんでいる。


しかし——目は笑っていない。


侍女の身体が、びくりと強張った。


四座の一人。


竜族であるシエラから放たれる、存在圧とはまた違う圧を前に、小柄な身体が目に見えて縮こまる。


「し、失礼いたします!」


侍女は慌てて一礼すると、逃げるように廊下を駆けていった。


シエラの視線が、その背中を追い続ける。


番に近づこうとした女を警戒する、竜の本能。


侍女の足音が完全に聞こえなくなってから、シエラはようやく零へ視線を戻した。


「……夜の方でも、だって」


声は穏やかだった。


しかし、その奥には隠しきれない嫉妬が滲んでいる。


シエラは壁から背を離すと、零の部屋へ足を踏み入れた。


背後で扉が静かに閉まる。


「断ってくれたみたいだけど」


一歩。


また一歩。


髪を揺らしながら、零との距離を詰めていく。


青い瞳は、零を捉えて離さない。


「——当然よね?」


囁くような声だった。


それでも、有無を言わせない響きがある。


竜族が選ぶ番は、生涯にただ一人。


他の女が番へ近づこうとするのを、シエラの本能が許すはずもなかった。


シエラの手が、零の胸元を掴む。


湯上がりの薄い衣を指先で掴み、そのまま自分の方へ引き寄せた。


「今からは——番の時間」


至近距離から零を見上げる。


青い瞳の奥で、瞳孔が僅かに縦へ裂けた。


人の姿をしていても、シエラは竜だ。


その瞳には、番を求める竜族の本能がありありと浮かんでいる。


シエラは零の背後へ視線を向ける。


そこにあるのは、黒と深紅に彩られた巨大なベッド。


そして、並べられた六つの枕。


「あのベッド、広くていいじゃん」


シエラの唇が、誘うような弧を描く。


「——試してみない?」


「た、試すって……」


「大丈夫、無理はさせないから......たぶん?」


 ◆


——朝。魔王城・新しい自室。


朝の光が、天蓋から垂れ下がる薄布を透かしていた。


零が目を覚ました時、隣にシエラの姿はなかった。


早朝の飛行は、竜族である彼女の日課だ。


既に起き出し、魔界の空を飛んでいるのだろう。


枕には空色の髪が一本だけ残り、シーツには二人分の温もりが微かに残っている。


零が身支度を整えていると、部屋の扉が勢いよく開いた。


「入るわよ」


ノックと同時だった。


こちらの返事を待つ気は、最初からないらしい。


部屋へ入ってきたのはルシアだった。


ダークレッドのツインテールを揺らしながら、真紅の瞳で新しい部屋を見渡す。


「……へえ。随分と広くなったじゃない」


まず居間。


次にソファと暖炉。


壁際の書棚まで、一つずつ確認するように視線を動かしていく。


「ソファも上等ね。この暖炉は魔力式か。書斎もあるし……まあ、魔王様直々の指示なら当然ね」


独り言のように呟きながら、部屋の奥へ進む。


浴室を覗き、訓練用の小部屋を確認する。


そして——寝室の扉を開けた。


ルシアの足が止まった。


目の前にあるのは、六人用の巨大な天蓋付きベッド。


深紅と黒の絹のシーツ。


整然と並べられていたはずの、六つの枕。


そのうち二つには、明らかに使用された跡が残っている。


一本の青い鮮やかな髪の毛、そして、僅かに乱れたシーツからは、竜族特有の魔力も漂っていた。


ルシアは無言でベッドを見つめた。


一秒。


二秒。


三秒。


ダークレッドのツインテールが、ぴくりと跳ねる。


「……六人用のベッドに、枕が六つ」


感情を押し殺した、平坦な声。


「それで、初日から二つ使用済み」


ルシアは腕を組み直した。


指先が二の腕へ食い込んでいる。


「……呆れた」


ゆっくりと振り返る。


真紅の瞳が、零を鋭く射抜いた。


表面に浮かんでいるのは呆れ。


しかし、その奥では別の感情が燻っている。


「あんた、昨日の今日でもうこれ? 魔王様に認められた日の夜に?」


「えーっと……」


ルシアが一歩、零へ近づく。


「……シエラでしょ」


乱れたベッドへ目を向け、僅かに眉を寄せた。


「竜族の魔力が、これだけ残ってれば分かるわよ」


ルシアはすぐに顔を逸らした。


「別にいいけど」


言葉とは裏腹に、唇は不満そうに尖っている。


「あんたの私生活なんて、私には関係ないし」


零は黙ってルシアを見る。


その視線に気づいたルシアの頬が、見る間に赤くなった。


「な、何よ」


「いや。ずいぶん気にしてるなと思って」


「気にしてないわよ!」


反射的に言い返した声が、広い寝室へ響いた。


ルシアは我に返り、誤魔化すように黒い魔女帽子の位置を直す。


「私は、あんたの指導役として生活態度を確認してるだけ。昨日みたいな無茶をした直後に、朝まで休めなかったせいで倒れられたら迷惑なのよ」


「ちゃんと休んだ」


「そういう問題じゃない!」


再び声を上げてから、ルシアは零の身体を確かめるように見つめた。


四重概念操作の反動。


昨日と比べるとだいぶマシだが、今朝の零の顔に、疲労が残っていることも見抜いている。


ルシアは何か言おうとして、結局言葉を呑み込んだ。


「……もういい」


拗ねたように呟き、寝室を出ていく。


しかし、そのまま部屋から立ち去ろうとはしなかった。


居間を抜け、扉の前で零を待っている。


「朝食」


ぶっきらぼうな声だった。


「行くの? 行かないの?」


「……行く」


零が答えると、ルシアは僅かに表情を緩めた。


だが、それを悟られる前に顔を背ける。


「だったら、早くしなさいよ」


ルシアは零を置いていかない程度の速さで、廊下を歩き始めた。


その少し前を揺れるツインテールを見ながら、零も食堂へ向かう。


新しい部屋で迎えた最初の朝。


六人用のベッドを巡る騒動は——どうやら、これで終わりではなさそうだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。