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第六十五環 「王へ至る円環」


——朝。魔王城・食堂。


朝食の席は、いつもより静かだった。


長い食卓には焼きたてのパンや肉料理、温かなスープが並んでいる。


しかし、席に着いているのは零とルシア、そしてクオンだけだった。


シエラは早朝の飛行訓練。


レイラは人界へ送り込む斥候の選出を進めるため、既に執務室へ籠もっているらしい。


リリスの姿もない。


四日後に迫った作戦会議へ向け、魔王として準備を始めているのだろう。


ルシアは、先ほどから黙々とパンを千切っていた。


真紅の瞳が時折、零へ向けられる。


だが、目が合いそうになると、すぐに顔を逸らした。


零の新しい寝室に残されていた、シエラの魔力。


二つ並んだ枕の使用された跡。


それを見つけた時の不機嫌さが、いまだ尾を引いているらしい。


「今日は、訓練が減るそうだ」


沈黙を破ったのはクオンだった。


大皿から取った肉を口へ運びながら、金色の瞳を零へ向ける。


「ルシアは事務作業。レイラは斥候隊の選出。私は人界攻略へ連れていく精鋭部隊を選ぶ」


肉を飲み込み、次の一切れへ手を伸ばす。


「シエラも飛行部隊の編成を始めると言っていた。作戦会議まで、全員忙しくなる」


四座による零の修行は、昨日で一つの区切りを迎えた。


ここからは、人界攻略に向けた魔王軍全体の準備が始まる。


四座も、それぞれが率いる部隊へ戻らなければならない。


しかし、クオンは僅かに口元を緩めた。


「だが、夕方は空けてある」


その瞳に、期待の光が宿る。


普段ほとんど表情を変えないクオンにしては、珍しいほど明確な笑みだった。


「昨日、魔王様との戦いを見た。お前の概念操作も、あの存在の圧力も興味深い」


クオンの指が、無意識に拳を形作る。


「今のお前と、正面から戦ってみたい」


飾り気のない言葉だった。


そこに込められているのは、戦士としての純粋な欲求。


強くなった零と戦いたい。


その拳を受け、自分の力をぶつけたい。


クオンにとっては、それだけで夕方の予定を空ける十分な理由になる。


「……クオン」


ルシアが低い声で名前を呼んだ。


千切りかけたパンを皿へ戻し、クオンを睨む。


「あんまり壊さないでよ。そいつ、昨日の反動がまだ残ってるんだから」


「分かっている。加減はする」


「あんたの加減ほど信用できないものもないわよ」


「……そうか?」


本気で分かっていないらしく、クオンが首を傾げる。


ルシアは額へ手を当て、深い溜息を吐いた。


「そうよ。自覚しなさい」


零は二人のやり取りを聞きながら、自分の手を開閉した。


身体の芯には、いまだ鈍い痺れが残っている。


四重概念操作の反動が、一晩眠った程度で完全に消えるはずもない。


それでも、昨日よりは身体が動く。


夕方まで休息を取れば回復するだろう。


ルシアも、零の様子を横目で確かめていた。


「まあ、いいわ。私も今日は事務作業で手が離せないし」


最後のパンを口へ入れ、紅茶で流し込む。


「作戦会議までに、用意しなきゃいけない書類が山ほどあるのよ。魔導部隊の編成案も作り直さなきゃいけないし」


ルシアは席を立つと、零へ向き直った。


「あんたは日中、自由時間になるはずよ。身体を休めるなり、無理しない範囲で自主訓練するなり、好きにしなさい」


それだけ告げ、食堂の出口へ向かう。


しかし、数歩進んだところで足を止めた。


何かを言おうとして、迷うように唇を開く。


「……それと」


ルシアは振り返らなかった。


「夕方の訓練、無茶しないでよ」


消え入りそうな声で付け加える。


「昨日みたいに倒れたら、今度こそ承知しないから」


言い終えるなり、早足で食堂を出ていった。


ダークレッドのツインテールが、扉の向こうへ消える。


クオンは、その背中を見送りながら肉を咀嚼していた。


「……ルシアは素直ではないな」


零も否定はしなかった。


しばらくして、クオンが食事を終えて立ち上がる。


「私は精鋭を選びに行く」


訓練場へ向かう前に部隊の選抜を終わらせるつもりらしい。


「夕方。訓練場で待っている」


薄橙色の瞳が、真っ直ぐに零を捉える。


「楽しみにしている」


クオンは僅かに笑い、食堂を後にした。


 ◆


——午前。魔王城・新しい自室。


静寂に包まれた訓練室の中央で、零は座禅を組んでいた。


目を閉じ、呼吸を整える。


意識を外界から切り離し、自らの内側へ沈めていく。


左腕に装着された神装——《夢幻抱擁(ウロボロスサーキット)》が、微かな脈動を繰り返していた。


零の心臓と、全く同じリズムで。


脳裏に浮かぶのは、昨日のリリスとの戦い。


技術だけが足りなかったのではない。


純粋な力も、魔力量も、戦闘経験も、今の零では遠く及ばない。


それ以上に決定的だったのは——存在の重さだ。


リリスは、そこに立っているだけで空間を支配する。


視線を向けるだけで、相手の本能へ敗北を理解させる。


あれは、単に膨大な魔力を放出しているのではない。


魔王として背負ってきたもの。


覚悟。


孤独。


責任。


そして、誰にも明かすことなく抱えてきた喪失。


その全てがリリスという存在の中で凝縮され、絶対的な圧となって現れている。


零には、まだ足りない。


妹を奪われた痛みがある。


人界の王へ復讐するという、決して揺るがない意志もある。


だが、それらを自らの存在そのものへ昇華できてはいない。


零の意識が、さらに深く沈んでいく。


やがて、光の届かない暗闇の中に——巨大な蛇が現れた。


自らの尾を咥え、永遠に巡り続ける蛇。


ウロボロス。


始まりと終わり。


無限と零。


一を無限へ。


無限を零へ。


零は、目の前を巡る蛇へ意識を伸ばした。


『——また来たか』


声が聞こえたわけではない。


蛇の意思が、言葉という形を取って零の意識へ直接流れ込んでくる。


底の見えない瞳が、零を捉えていた。


零は答えない。


ただ蛇と向き合い、その円環へ自らの呼吸を重ねる。


吸う。


吐く。


巡る。


自らの鼓動を、神装の脈動へ近づける。


体内を流れる魔力の循環を、蛇が描く永遠の円環へ重ね合わせる。


少しずつ、零と神装の境界が薄れていった。


どこまでが零自身の魔力で、どこからが《夢幻抱擁》の力なのか。


明確に分かれていた二つの存在が、互いへ溶け込むように混ざり始める。


『お前の存在は、まだ軽い』


蛇が告げる。


『あの魔王が背負うものには及ばない』


否定することはできない。


それは昨日の戦いで、零自身が痛いほど理解したことだった。


『だが——重くなりつつある』


暗闇の中を、巨大な蛇が巡る。


『魔王と対峙し、その圧を受け、それでも拳を届かせた』


『あの瞬間、お前の器は僅かに広がった』


蛇の身体が、零の意識へ溶け込んでいく。


左腕の《夢幻抱擁》が、これまで以上に強く脈動した。


心臓と神装の鼓動が重なる。


魔力の循環から、僅かな滞りが消えていく。


腕輪の表面へ、漆黒の鱗を思わせる紋様が浮かんだ。


それは一瞬だけ光を放ち、再び内部へ沈んでいった。


『——次は、もう少し深く潜れ』


蛇は巡り続ける。


始まりも、終わりもなく。


永遠に。


◆



零が目を開いた時、窓から差し込む光の角度は大きく変わっていた。


瞑想を始めてから、数時間が経過している。


零は左腕を持ち上げ、《夢幻抱擁》へ目を向けた。


神装から返ってくる脈動は、昨日よりも僅かに力強い。


劇的な変化ではない。


それでも、確かに一歩前へ進んだ。


リリスとの距離は、いまだ遥かに遠い。


一度の瞑想で埋められるほど、魔王の領域は浅くない。


それでも——縮まり始めている。


零はゆっくりと立ち上がった。


夕方のクオンとの訓練まで、まだ時間がある。


 ◆


——昼。魔王城・食堂。


昼の食堂は閑散としていた。


長い食卓には昼食が用意されていたが、席に着いているのはレイラだけだった。


紅茶のカップを前に置き、緑色の瞳でぼんやりと水面を見つめている。


いつもの余裕に満ちた笑みはない。


長い耳も、僅かに力なく垂れていた。


零が食堂へ足を踏み入れる。


その足音を捉えた瞬間、レイラの耳が僅かに動いた。


顔を上げ、零を見る。


焦点の合っていなかった緑色の瞳に、微かな光が戻った。


「……零」


試すような響きも、からかうような甘さもない。


ただ名前を呼んだだけ。


それでも、その声には隠しきれない安堵が滲んでいた。


「隣、座れば?」


レイラが、自分の隣にある椅子を引く。


零が席に着くと、再び紅茶へ視線を落とした。


しかし、先ほどまでの強張った表情は、僅かに柔らかくなっていた。


「斥候隊の選出……思ったより面倒」


溜息を吐き、細い指でこめかみを押さえる。


「人界へ潜入できる能力を持つ者。幻術への適性が高く、気配を消せて、敵地でも自分で判断できる者」


食卓の上には、候補者の情報が記された書類が積み重なっていた。


「百人以上の記録を、今朝からずっと確認してる。能力だけじゃなくて、性格や過去の任務まで調べないといけないから」


レイラが疲れた顔で零を見る。


普段なら決して他人に見せない、仮面の下の表情だった。


「人界の王城を知っている零がいれば、少しは楽になるんだけど」


その言葉に、零は積み重なった書類へ目を向けた。


「でも夕方は、クオンとの訓練でしょ?」


「まだ時間はある」


零がそう答えると、レイラの長い耳が僅かに持ち上がった。


「……そう」


嬉しそうに聞こえないよう抑えた声。


それでも、口元には微かな笑みが浮かんでいる。


レイラは頬杖をつき、零へ身体を向けた。


「ねえ、零」


緑色の瞳が、真剣な光を帯びる。


「王城で、実際に通った場所を教えて。正門から内殿までの道や、兵士の詰め所、使用人が使う通路……覚えている範囲でいい」


警備配置は、零が脱走してから変更されている可能性が高い。


それでも、城の基本構造や兵士たちの習慣が分かれば、斥候の潜入経路を決める材料になる。


レイラの指が、テーブルの上へ置かれた。


零の手のすぐ近く。


触れてはいない。


だが、あと僅かに動かせば届く距離だった。


「……食事をしながらでいいよ」


レイラが、仮面ではない柔らかな笑みを浮かべる。


「時間はあるから、ゆっくり聞かせて」

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