第六十三環 「白銀の魔王が忘れたもの」
——夕方。魔王城・闘技場。
リリスの腕が、零を支えていた。
崩れ落ちかけた零の身体を、白銀の魔王が抱き留めている。
四重概念操作の反動によって全身が軋み、意識すら朦朧としている。それでもなお、零の身体から放たれる存在圧は消えていなかった。
リリスは腕の中の零を見下ろした。
その深紅の瞳が、微かな感嘆に染まっている。
「……魔王の卵、ね」
零の存在圧は、いまだリリスには遠く及ばない。
だが、その質も、密度も、向かう先も。間違いなく魔王と同種のものだった。
他者を力で押さえつける、支配の圧ではない。
己がここに存在するという、絶対的な意志。
折れない。砕けない。何度地に伏しても立ち上がる。
それはまさしく——王たる者の器だった。
「初めて謁見の間で見た時は……面白い人間だと思っただけだった」
リリスの指先が、零の頬に触れる。
汗と疲労に塗れた顔。それでも、薄く開かれた金色の瞳は、まだ光を失っていなかった。
「でも今は分かる。こいつは——王たり得る」
やがて、四座が闘技場の中央へ集まってきた。
ルシアが障壁を解除し、レイラが認識阻害を解く。シエラが上空から舞い降り、クオンも闘技場の外縁から歩み寄ってきた。
リリスは四人を順に見渡した。
「あんたたちが、こいつに入れ込む理由……少し分かったわ」
深紅の瞳が、愉悦を帯びて細められる。
「この存在圧。力こそが全ての魔界で、こんなものを放たれたら——どうなるか、分かるでしょ」
ルシアが息を呑んだ。
「……まさか、魔王様。それは——」
「別に、私が言うまでもないわ。あんたたちはもう分かってるでしょ」
リリスは零の身体を支えながら腰を落とし、ゆっくりと地面へ横たえた。
その際、流れ落ちた白銀の髪が零の頬を掠める。
「この圧に当てられただけで、忠誠を誓う者が現れる。中には、恋慕を抱く者だっているでしょうね」
レイラが静かに目を伏せた。
図星だった。
今日、自分の心が零に対してどのような反応を示したのか、誰よりも、彼女自身が理解している。
シエラの竜角も、微かに熱を帯びていた。
己の本能が零を番と認めたこと。その選択が間違いではなかったのだと、改めて突きつけられている。
クオンの薄橙色の瞳は、真っ直ぐに零へ向けられていた。
言葉はない。
ただ、その拳が僅かに震えている。
戦士としての昂揚。
そして零を、ただの好敵手ではなく、一人の男として意識し始めた証だった。
リリスが立ち上がる。
白銀の髪が夕風に靡き、深紅の瞳が闘技場を見渡した。
「四日後の作戦会議。こいつも出席させなさい」
それだけ告げると、リリスは振り返ることなく歩き始めた。
「人界攻略——面白くなりそうじゃない」
魔王の背中が、闘技場の出口へと遠ざかっていく。
だが、外へ踏み出す直前。
リリスは肩越しに振り返り、倒れた零を深紅の瞳で射抜いた。
「——ベッド、ちゃんと届いてるといいわね」
意味深な言葉だけを残し、魔王は去っていった。
再び静寂に包まれた闘技場で、四人は一斉に零のもとへ駆け寄った。
ルシアが傍らに膝をつき、すぐさま回復魔法を展開する。
シエラは零の頭をそっと持ち上げ、自らの膝の上へ乗せた。クオンは持っていた水筒をルシアへ手渡し、レイラは零の手を握ったまま離そうとしない。
「……バカ。無茶しすぎなのよ」
ルシアの声は震えていた。
それでも、零を見つめる真紅の瞳には、隠しきれない誇らしさが宿っている。
「私の番は——やっぱり最高」
シエラが愛おしげに零の髪を撫でる。
クオンも小さく頷いた。
「……強かった」
「……ね。言ったでしょ」
レイラが零の手を握ったまま、微かに微笑む。
「魔王様にだって、届き得る力だって」
零を取り囲む四人の視線。
そこに宿る感情は、もはや単なる仲間意識ではなかった。
彼の力に惹かれたのか。
彼の生き方に惹かれたのか。
あるいは——その両方か。
答えを口にする者は、まだ誰もいない。
ただ、四人の心が確かに零へ向かい始めていることだけは、もはや疑いようがなかった。
◆
——夜。魔王城・食堂。
その日の食堂には、普段とは僅かに異なる空気が流れていた。
リリスは上座に座っている。
朝のように零の隣ではない。魔王としての定位置だ。
燭台の炎を受けて白銀の髪が揺れ、深紅の瞳が食卓を見渡している。それ自体は、いつもと変わらない光景だった。
だが——
リリスの視線が零に留まる時間が、以前よりも長くなっていた。
これまでのリリスが零へ向けていたのは、珍しい人間を観察する目だった。
興味はある。
しかし、それはあくまで強者が弱者へ向ける興味。自分の予想を超える行動を取る、面白い人間に対するものだった。
今は違う。
対等とまでは言わない。
現在の零とリリスの間には、いまだ隔絶した力の差が存在している。
それでもリリスは、零を自分と同じ場所へ立ち得る者として認識し始めていた。
零が食卓に着く。
その姿を、深紅の瞳が追った。
僅かな時間だったが、ルシアたちはその変化を見逃さなかった。
「——今日の戦い、悪くなかったわよ」
不意に、上座から声が飛んだ。
何気ない一言のように聞こえる。
だが、リリスが自ら誰かを褒めることなど滅多にない。四座でさえ、直接称賛の言葉をかけられる機会は数えるほどしかなかった。
ルシアの手が止まった。
「……魔王様が、自分から……」
小さく呟きながら、零とリリスを交互に見る。
零が認められたことは嬉しい。
自分が鍛えた弟子の成長を、魔王が認めてくれたのだから。
それでも、胸の奥に生まれた僅かな焦燥が何なのか、ルシア自身にも分からなかった。
零の隣では、シエラが肉を切り分けながら青い瞳を細めていた。
「……魔王様、今日ずっと零のこと見てない?」
零にだけ届くような声で囁く。
その反対側では、クオンが黙々と食事を続けていた。
一見すると普段と変わらない。
しかし、薄橙色の瞳は時折、リリスと零の間を行き来している。戦士としての勘が、二人の関係に起きた変化を察知していた。
レイラも紅茶のカップを口元へ運びながら、緑色の瞳を伏せる。
「……魔王様の目が変わったね」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
リリスは、何事もなかったかのように食事を続けている。
その目に恋情はない。
あるのは、自らと同じ王の器を持つ者への期待。
零がどこまで成長するのか。
本当に魔王の領域まで辿り着くのか。
それを見定めようとする、純粋な興味だった。
「四日後の作戦会議、準備しておきなさい」
リリスが零へ告げる。
声は軽い。
だが、その眼差しには魔王としての確かな意志が宿っていた。
「あんたの復讐——ちゃんと叶えてあげるから」
零の金色の瞳と、リリスの深紅の瞳が交わる。
数秒。
それは、食事の席には不釣り合いなほど張り詰めた時間だった。
リリスが先に視線を外す。
何事もなかったかのようにグラスを持ち上げ、赤いワインを口に運んだ。
やがて、食堂に穏やかな喧騒が戻ってくる。
それでも四座は、全員が気づいていた。
魔王が零を見る目は、確かに変わった。
あの時、謁見の間へ引きずり出された一人の人間。
その少年を、リリスは今——自らと同じ王になり得る者として認め始めていた。
◆
——夜。魔王城・リリスの私室。
白銀の髪が、ベッドの上に広がっていた。
リリスは天蓋付きの大きなベッドに仰向けになり、薄暗い天井を見つめている。
魔王として纏っていた装束は既に脱ぎ、身につけているのは薄い黒のナイトガウンだけだった。
しかし、その深紅の瞳に映っているのは天井ではない。
脳裏に浮かんでいたのは、零の背中だった。
四重概念操作を発動した瞬間に放たれた、あの存在圧。
何度叩き伏せられても立ち上がった、折れない意志。
最後まで光を失わなかった、金色の瞳。
「……似てるのよ」
誰もいない部屋で、リリスは小さく呟いた。
忘れたはずの記憶が蘇る。
まだ自分が幼く、魔王の座に就く未来など想像もしていなかった頃の記憶。
◆
『リリス。お前は——強くなるぞ』
大きな手が、幼いリリスの頭を撫でた。
温かく、硬く、触れられているだけで安心できる手。
先代魔王であり、父でもあった男の手だ。
『お前の中には、王の器がある』
自分と同じ深紅の瞳が、幼いリリスを見下ろしていた。
厳しく、それでいて優しい眼差し。
父がそこにいるだけで空気が変わった。
誰もが自然と口を閉ざし、彼の言葉に耳を傾ける。
力で押さえつけているわけではない。
ただそこに立つだけで、全ての者に王だと理解させる存在感があった。
『いつか、お前が魔界を背負う日が来る』
大きな手が、もう一度リリスの頭を撫でる。
『その時まで——強くあれ』
◆
リリスの手が、自分の頭に触れた。
無意識のうちに、父がしてくれたように白銀の髪を撫でる。
だが、自分の手では違う。
あの大きさも、硬さも、温もりもない。
「……バカみたい」
零の存在に、父の姿を重ねるなど。
父が死んでから、既に長い年月が流れている。
魔王の座を継ぎ、魔界を統べ、誰よりも強くなった。
父から受け継いだものを守るため、弱音を吐かず、誰にも頼らず、誰にも甘えなかった。
魔王として、完璧であり続けた。
そのはずだった。
今日、闘技場で零の存在圧を浴びた瞬間、胸の奥で何かが震えた。
あの圧。
あの意志の強さ。
決して折れない魂。
それは、かつて父が纏っていたものと同じ質を持っていた。
もちろん、今の零は父には遠く及ばない。
未熟で、脆く、魔王の力にも届いていない。
それでも、確かに同じ方向へ進もうとしている。
「……あいつ」
リリスの脳裏に、零の顔が浮かぶ。
黒髪と金色の瞳を持つ、十八歳の人間。
異世界から召喚され、妹を奪われ、復讐のために魔王軍へ加わった青年。
そして今、自らが「魔王の卵」と認めた存在。
リリスは小さく息を吐き、腕で目元を覆った。
零を見ていると、長く忘れていたものを思い出す。
父の背中。
大きな手。
守られていた頃の安心感。
そして——魔王ではなかった頃の自分。
「……何を考えてるの、私は」
零は父ではない。
容姿も、声も、振る舞いも違う。
父より若く、父より脆く、何より、自分と近い場所にいる。
同じ食卓で食事をし、同じ城で眠り、四座たちとくだらないことで笑い合っている。
父のように完成された王ではない。
何度も失敗し、傷つき、無茶をしては周囲を心配させる。
それでも立ち上がる。
だからこそ、目を離せない。
零が父に似ているからではない。
自分以外にも、王の器を持つ者が現れたからだ。
いつか自分と同じ高みまで登ってくるかもしれない存在を、初めて目の前にしたからだ。
そう分かっているはずなのに——
リリスは寝返りを打ち、枕へ顔を埋めた。
あの大きな手。
温かく、硬く、安心できた父の手。
もう二度と触れられないもの。
零の手は違う。
父よりも細く、剣を握ってきた時間も短い。
だが、闘技場で自分の掌に収まった拳には——父と同じ、燃えるような熱が宿っていた。
「……似てるくせに」
リリスは枕から僅かに顔を上げた。
深紅の瞳が、微かに潤んでいる。
「全然——別物じゃない」
父は完成された魔王だった。
対して、零はいまだ魔王の卵に過ぎない。
人間であり、未熟で、簡単に傷つく。
それなのに、零の存在圧を受けた瞬間、胸の奥に閉じ込めていた何かが解けた。
魔王として生きるため、長い年月をかけて凍らせてきたもの。
誰かに守られていた頃の記憶。
誰かの前でなら、強くなくてもよかった頃の自分。
リリスは、もう一度自分の頭を撫でた。
「……今さら、思い出させるんじゃないわよ」
誰もいない部屋だからこそ漏れた、魔王ではない一人の少女の声。
返事をする者はいない。
広すぎる部屋に、静寂だけが残る。
リリスは瞼を閉じた。
零に父の代わりを求めているわけではない。
零は零だ。
それでも、長く忘れていた温もりを思い出すきっかけになったことだけは否定できなかった。
白銀の魔王は枕へ顔を埋めたまま、しばらく動くことができなかった。




