第五十八環 「魔王が隣に座る朝」
——早朝。魔王城・訓練場。
朝靄の漂う訓練場を、淡い光の膜が包んでいた。
防音結界。
石畳の中央では、二つの影が向かい合っている。
零は神装を起動せず、両手を軽く上げて重心を落としていた。魔力も能力も使わない、純粋な体術の構えだ。
対するルシアの右手には、刃を潰し、安全術式を施した訓練用の短剣が握られていた。
黒い刃が朝の光を受け、鈍く輝いている。
刃渡りは短く、間合いは零の拳より僅かに長い程度。小柄で、魔導師として後衛に立つことの多いルシアには、取り回しに優れた短剣が最も適していた。
「いくわよ」
ルシアが地面を蹴った。
魔導師である彼女の身体能力は、クオンやシエラには及ばない。だが、足運びに迷いはなかった。
クオンから教わった重心移動の基礎。それをもとに、零が実戦向けに調整した動き。
ルシアは零の正面を避け、斜めに踏み込む。
逆袈裟に短剣を振り上げた。
零が半歩だけ後退する。黒い刃先が胸元を掠めて通過した。
だが、ルシアは止まらない。
振り上げた短剣を即座に切り返し、今度は首筋を狙って横薙ぎに振るう。
零は身を沈めて刃を潜り、ルシアの脇を抜けようとした。
「——甘い!」
ルシアの左手が零の袖を掴んだ。
力任せではない。零が踏み込んだ勢いを利用し、体勢を前へと崩す。その喉元を狙い、右手の短剣を突き出した。
だが、零の反応が僅かに上回る。
掴まれた腕を軸に体を回転させ、ルシアの右手首を取る。短剣の軌道が外れ、二人の体が入れ替わった。
「っ——」
ルシアの背中が、零の胸元へ押しつけられた。
右手首を押さえられ、短剣を封じられている。さらに零の足が、ルシアの退路を塞いでいた。
密着した背中から零の体温が伝わる。
今朝、目を覚ました時のことが脳裏を過った。
大きくはない寝台の中。零を挟んで眠っていた自分とシエラ。驚いて目を覚ました零の顔。
ルシアの耳が、僅かに赤くなる。
しかし、動きは止めなかった。
「……こういう時は——!」
ルシアは後頭部を勢いよく振り上げた。
狙いは零の顎。
零が反射的に顔を逸らす。手首を押さえていた力が僅かに緩んだ。
その瞬間、ルシアは腰を落とし、拘束された腕を内側へ捻る。零の腕を潜り抜けるように体を回し、素早く距離を取った。
短剣を構え直す。
頬はまだ赤い。呼吸も僅かに乱れている。
それでも、真紅の瞳から集中は途切れていなかった。
「……あんたが教えた通りよ。掴まれたら、まず相手の意識を散らす」
「ああ。今の判断は悪くない」
「悪くない、じゃないわ。完璧だったでしょ」
「本当に完璧なら、今ので一本取れてる」
「……次は取るわよ」
ルシアが短剣を握り直す。
今日は、近接戦闘訓練を正式に始めた初日だ。
基礎体術はクオンが教え、零は武器の扱いと実戦形式の組手を担当する。いずれはルシア自身の魔術も組み込み、近距離であっても戦える独自の戦闘術へ発展させる予定だった。
あの森で味わった無力感を、二度と繰り返さないために。
零の隣で戦える自分になるために。
「もう一回」
ルシアが再び踏み込む。
今度は右へ切り込むと見せかけ、重心だけを残して左へ。零の視線が動いた瞬間、短剣の切っ先が鋭く翻った。
先ほどよりも速い。
その一閃を、零は紙一重で受け流した。
◇
同刻。魔王城・リリスの執務室。
朝の光が差し込む執務机で、リリスは一枚の羊皮紙を指先につまんでいた。
物資の発注書だった。
記されているのは、几帳面で真っ直ぐなルシアの文字。
『特大寝台——一台。零の寝室用。至急手配願います』
備考欄には、さらに理由が添えられていた。
『現状の寸法では、複数人での就寝に支障あり』
「……ふうん」
リリスの口元が、ゆっくりと持ち上がった。
複数人。
昨日まで一人で眠っていた零の部屋で、いったい何が起きたのか。考えるまでもない。
「ルシアとシエラ、ね」
別に驚きはなかった。
ルシアが零へ特別な感情を抱いていることには、とうに気づいている。シエラが零を生涯唯一の番と認めたことも承知している。
一人の男を複数の女が愛することは、魔界ではそれほど珍しくない。
先代魔王であった父も、そうだった。
父の隣には、いつも複数の女がいた。争い、嫉妬し、それでも誰一人として父のもとを離れなかった。
リリスは発注書へ、もう一度視線を落とした。
「……あいつ、魔王城に来てそんな経ってないわよね」
呆れたように呟きながら、ペンを取る。
零は、まだ何者でもない。
異世界から召喚された人間であり、人界の王へ復讐を誓う神装使い。戦闘能力は急速に伸びているが、魔王軍における正式な地位さえ持っていない。
にもかかわらず——四座の中心には、既に零がいる。
ルシアも、シエラも、レイラも、クオンも。
それぞれ異なる理由で、零の周囲へ集まり始めていた。
偶然ではない、そうさせる何かが、あの青年にはある。
「まあ、いいわ。許可」
発注書へ魔王の署名を書き込む。
ただし、理由もなく零を甘やかすつもりはない。
リリスが気にかけているのは、神装第二位階《無窮蛇装》。
クオンとの戦いで見せた、己の存在を無限循環の内側へ固定する黒い蛇装。その力が魔王軍にとって有用なのか。あるいは、いずれ制御不能になる危険を秘めているのか。
自分の目で確かめる必要がある。
「……少し近くで観察してみましょうか」
リリスはそう呟くと、発注書を机に置いた。
朝食の時間が近い。
白銀の髪を払い、黒と赤のマントを整える。リリスは何でもない顔で執務室を出た。
◇
朝の食堂は、いつも通りの喧騒に包まれていた。
肉の焼ける匂いと、焼きたてのパンの香り。食器が触れ合う音と、魔族兵たちの笑い声が石造りの空間に反響している。
零は四座用の長卓へ向かい、この二週間ですっかり定位置となった椅子を引いた。
腰を下ろした直後——食堂の空気が変わった。
静かな足音。
振り返るまでもなく、誰が近づいているのか分かった。
「おはよ」
白銀の髪が零の視界へ流れ込む。
リリスは何の前触れもなく、零の隣にある椅子を引いた。
上座ではない。
零の、真隣だった。
肩が触れそうな距離へ魔王が腰を下ろす。完璧に整えられた黒と赤の装束から、微かな甘い香りが漂った。
「何、そんな顔して。隣に座っちゃ悪い?」
「……いや。珍しいと思っただけだ」
「たまには気分を変えてもいいでしょ」
深紅の瞳が、楽しそうに細められた。
食堂中から視線が集まっている。
魔王が四座と食事を共にすること自体は珍しくない。しかし、特定の誰か、それも人間の青年の隣へ自ら座るなど、これまでなかった。
やがて、食堂の入口にルシアとシエラが現れた。
二人は同時に足を止めた。
零の隣に座るリリス。
ルシアが普段使っている席を、魔王が占めている。
真紅の瞳と青い瞳が交差した。
短い目配せだけで、二人の意思が一致する。
ここで騒げば、魔王の前で醜態を晒すことになる。まずは様子を見る。
二人は零の向かい側に並んで座った。
「あら、二人ともおはよ。今日は向かいなのね」
「……おはようございます、魔王様」
ルシアは平静を装ってパンを手に取った。
しかし、千切る指に僅かに力が入っている。
「おはよう、魔王様。今日はこっちに来たんだ。珍しいね」
シエラの声は普段と変わらず軽い。
ただし、頬杖をついた指先が一定の間隔で卓を叩いていた。
「珍しい、珍しいって。私がどこに座ろうと自由でしょ」
リリスは白銀の髪を弄びながら、零の左腕へ視線を落とした。
正確には、衣服の下にある《夢幻抱擁》へ。
リリスの指先が零の手首へ触れる。
神装の残留魔力を読み取るように、そこへ僅かな魔力を流した。
「循環経路にまだ負荷が残ってるわね。今日は夕方まで第二位階の使用禁止」
深紅の瞳が零を射抜く。
「夕方に私が直接見る。それまでは壊さないように」
「魔王様が、直接?」
ルシアの手の中で、パンが潰れた。
「そうよ。五日後の作戦会議までに、零の戦力と《無窮蛇装》の危険性を把握しておきたいの」
リリスは平然と答え、零の手首から指を離した。
理由は明確だった。
そこに恋情も独占欲もない。ただ、魔王として戦力を見定めようとしているだけ。
しかし、零との距離が近すぎる。
ルシアとシエラにとっては、それだけで十分に警戒すべき事態だった。
「あ、そうだ。寝台の件、許可を出しておいたわ」
何気ない一言だった。ルシアとシエラが同時に固まる。
「三人用なんでしょ?」
リリスは果実を一切れ口に運び、楽しげに二人を見た。
「……足りる?」
「な、何をおっしゃってるんですか、魔王様!」
「あら。別にいいのよ。五人用でも——」
リリスは四座の顔を順番に見渡した。
ルシア。シエラ。そして、まだ食堂に来ていないレイラとクオン。
最後に、自分の指先で卓を一度叩く。
「——六人用でも」
「六人!?」
ルシアの顔が一気に赤くなる。
シエラも言葉を失い、青い瞳を僅かに見開いていた。
六人という数字が意味するところを、二人とも瞬時に理解してしまったのだ。
「冗談よ」
リリスは笑っている。
どこまでが本当に冗談なのか、表情からは読み取れない。
「それより、夕方の話」
リリスの深紅の瞳が、再び零を捉えた。
「零の力——私が直接見極めさせてもらうわ」
食堂の喧騒が一瞬、遠のいた。
周囲の兵士たちまで食事の手を止めている。
魔王が自ら戦士の相手を務める。
それは単なる訓練ではない。その者を、魔王自身が戦力として認めたことを意味する。
「結構、本気なんだね」
シエラが探るように言った。
軽い口調とは裏腹に、その目は笑っていない。
「当たり前でしょ。クオンに起源回帰まで使わせた力よ。放っておけるわけないじゃない」
リリスは立ち上がり、零の肩を軽く叩いた。
「夕方、闘技場で待ってる。遅刻しないでね」
「何をするつもりなんですか?」
ルシアの問いに、リリスは足を止めた。
白銀の髪越しに振り返り、唇を愉快そうに歪める。
「別に殺しはしないわよ」
一拍置いて。
「——多分ね」
そう言い残し、リリスは食堂を出ていった。
静寂の残る卓で、零は自分の左腕へ視線を落とす。
《夢幻抱擁》は沈黙している。
だが——その奥に眠る無限の蛇が、夕方を待ち望むように微かに脈打っていた。




