第五十九環 「全力で戦いたい」
——午前。魔王城・訓練場。
拳と拳が交差した。
鈍い音が、朝の訓練場に響く。
神装なし。魔力強化なし。武器も使わない。
純粋な肉体と技術だけによる組手。
クオンの拳が、零の頬を掠めた。
直撃していない。それでも巻き起こされた風圧だけで、皮膚が鋭く痺れる。
能力を封じてなお、鬼族の膂力は人間の常識を遥かに超えていた。
零は上体を半歩分だけ後ろへ逃がし、クオンの拳を紙一重で躱す。そのまま踏み込み、伸びきった腕の内側へ潜り込んだ。
狙いは脇腹。
腰の回転を乗せた左拳を叩き込む。
「……」
クオンは回避しなかった。
零の拳を硬い腹筋で受け止め、その瞳を僅かに細める。
直後、左脚が動いた。
零の足を内側から刈り取ろうとする低い蹴り。零は片足を浮かせて躱し、その勢いのままクオンの側面へ回り込んだ。
肘。掌底。膝。
三連撃。
クオンはその全てを腕一本で受け流した。
だが——反撃が来ない。
いつものクオンなら、零が三発打ち終えるより先に懐へ踏み込み、一撃で地面へ叩き伏せている。
今日は違った。
クオンは常に一拍待っている。
零の動きを確認してから、必要最低限の力で迎撃していた。
踏み込みも浅い。
拳の速度も抑えられている。
本来なら石畳を砕くはずの一歩が、乾いた足音を立てるだけで終わっていた。
「……集中してないな」
零が距離を取り、構えたまま告げる。
「している」
「嘘だな」
「……」
クオンは否定しなかった。
そのまま右拳を放つ。
真っ直ぐで、正確な一撃。
零は両腕を交差させて受け止めた。
ガード越しに衝撃が伝わり、靴底が石畳の上を僅かに滑る。だが、それだけだった。
起源回帰を使ったクオンの拳とは、比較にもならない。
いや——普段のクオンの一割にも満たない。
「……つまらん」
零に聞こえるか聞こえないかという声で、クオンが零した。
拳を下ろし、構えを解く。
瞳に宿っているのは、戦闘への歓喜ではない。
苛立ち。
そして——行き場のない渇望だった。
「リリスに止められたからか?」
朝食後、リリスはクオンへ直々に命じていた。
今日の訓練では《起源回帰》を使わないこと。零にも《無窮蛇装》を使わせないこと。
夕方の腕試しを万全の状態で迎えるため、負傷と過度な消耗は避けること。
ルシアとシエラからも、念を押されている。
『零に大怪我させたら、明日の訓練は中止するから』
『夕方までに回復できない怪我を負わせたら、私が魔王様に報告するよ』
二人の顔を思い出したのか、クオンの眉間に皺が寄った。
「命令には従う」
「なら、何が不満なんだ」
「お前は強い」
クオンは即答した。
飾ることも、言葉を選ぶこともしない。
「私が全力を出せる、数少ない相手だ」
零と真正面から向き合う。
「あの日、お前は私の起源回帰を正面から受け止めた。私の拳から逃げず、最後まで立っていた」
クオンが右拳を握る。
肌の下で筋肉が盛り上がり、左目の下に刻まれた赤い紋様が微かに脈打った。
あの戦いを思い出している。
鬼族の根源へと回帰し、理性を保ったまま全能力を引き上げる切り札。
原初真名《羅刹》。
対する零は、神装第二位階《無窮蛇装》を発動した。
互いに持てる力の全てを叩きつけ、最後は同時に限界へ達した。
決着は——引き分け。
クオンにとって、あれほど心が満たされた戦いは久しぶりだった。
「なのに、今日はこんな戦いをしなければならない」
クオンの声に、僅かな苦さが混じる。
「ルシアもシエラも、お前の体を心配している。それは分かる。リリスの命令が正しいことも分かっている」
一歩、零へ近づいた。
「だが——私は、お前と全力で戦いたい」
薄橙色の瞳が、零を真っ直ぐに捉える。
「それだけだ」
鬼族の戦士としての、純粋な渇望。
しかし今のクオンの胸にあるものは、それだけではなかった。
全力で戦えば、零を傷つけるかもしれない。
最悪の場合、壊してしまうかもしれない。
以前なら、それでも構わなかった。戦場で壊れるなら、その程度の相手だったというだけだ。
だが今は零を失いたくないと思っている。
全力でぶつかりたい。
傷つけたくない。
相反する感情をどう扱えばいいのか、クオン自身にも分かっていなかった。
零は構えを解いた。
「なら、俺を鍛えてくれ」
「……?」
「お前が遠慮せず、全力を出せるくらいまで」
零はクオンの拳へ、自分の拳を軽く当てた。
「今日みたいな制限のある訓練にも意味はある。全力を出せないなら、力の制御を覚えればいい」
「力の、制御」
「ああ。敵を壊すだけが強さじゃないだろ」
クオンは自分の拳を見つめた。
鬼族の起源は、破壊。
より強く、より速く、より激しく。目の前にあるものを打ち砕くことこそ、クオンが追い求めてきた強さだった。
力を抑える。
相手を壊さず、必要な場所へ必要な威力だけを届ける。
それもまた、自分には足りない強さなのかもしれない。
「……分かった」
クオンが再び拳を構える。
先ほどまでとは、僅かに目が違っていた。
「もう一度だ」
「ああ」
「今度は——お前の体を壊さない限界を探す」
「できれば、最初から見つけてくれ」
「それは無理だ」
即答だった。
零が僅かに顔を引きつらせる。
クオンの口元が、本当に僅かに持ち上がった。
「だが、努力する」
地面を蹴る。
放たれた拳は先ほどより速い。
それでいて、威力は正確に抑えられていた。
零が身を捻って躱す。
クオンはすぐに追撃せず、自分の拳へ視線を落とした。力の流れを確かめ、次の一撃へ移る。
全力で破壊するためではない。
いつか、失いたくない相手と全力で戦い続けるために。
クオンにとって初めてとなる、力を制御する訓練が始まった。
◇
——午後。魔王城・屋上。
穏やかな風が、魔王城の上を流れていた。
いつもならシエラと空中戦を行う時間だ。
しかし今日は、零の背に魔力の翼は展開されていない。
零は屋上の中央に座り、その背後にはシエラが立っていた。
「動かないで。今から魔力を流すから」
シエラの両手が、零の肩へ触れる。
掌から流れ込んだ金色の魔力が、零の体内へ浸透していった。
それは治癒魔法ではない。
傷を塞ぎ、失われた生命力を補う術はない。
シエラが行っているのは、竜族特有の強靱な魔力循環を利用した身体調整だった。
滞った魔力を流し、強張った筋肉を解す。《夢幻抱擁》の使用によって乱れた循環経路を、正常な状態へ近づけていく。
傷そのものは治らない。
蓄積した疲労も完全には消えない。
それでも、夕方までに本来の動きを取り戻す助けにはなる。
「朝はルシア。その後はクオン。毎日よく壊れないよね」
シエラの手が肩から背中へ移る。
背骨に沿って温かな魔力が流れ、張り詰めていた筋肉が少しずつ弛緩していった。
「今日は二人とも抑えていた」
「抑えてあれなんだ」
「クオンは不満そうだったけどな」
「あの子は全力で殴り合うことが愛情表現みたいなところあるから」
シエラが苦笑する。
「でも、今日の夕方はリリス様が直接来る。零には万全でいてもらわないと困るんだよね」
掌の位置が、零の背中から腰へ下がる。
乱れた魔力の流れを探り当て、一つずつ整えていく。手つきは丁寧で、普段の軽い態度からは想像できないほど慎重だった。
「先に言っとくけど、強化はしてないからね」
「分かってる」
「リリス様に余計な魔力を混ぜたまま挑んだら、すぐ見抜かれるし。下手したら私まで怒られる」
シエラは零の背中へ額を預けた。
空色の髪が風に揺れ、零の首筋へ触れる。
「正直、少し心配なんだ」
声から、いつもの軽さが消えた。
「リリス様が本気になったら、私でもまともに戦えない。起源回帰を使ったって——理性を失って暴れる今の私じゃ、勝てるかどうか以前の問題だし」
魔王リリス。
四座の全員が忠誠を誓いながら、その力の底を知らない存在。
普段は余裕のある笑みを浮かべ、玉座から魔界を見守っている。だが、ひとたび戦場へ立てば、その存在だけで敵軍の心を折る。
「でも、まあ——零なら大丈夫か」
自分へ言い聞かせるように、シエラが呟いた。
零の首筋へ指先を這わせる。
そこには、以前シエラが残した番の魔力が、薄く残っていた。
その感触を確かめ、ようやく小さく息を吐く。
「……ねえ、零」
「どうした」
「リリス様が朝、隣に座ったじゃない」
魔力を流す手は止まっていない。
だが、声の調子が僅かに変わった。
「あれ——どう思った?」
零はすぐに答えなかった。
「突然で驚いた」
「それだけ?」
「神装の状態を確認するためだったんだろ」
「……まあ、そうなんだけどさ」
シエラの翼が落ち着かなさそうに小さく動いた。
リリスが現時点で零に恋愛感情を抱いていないことは、シエラにも分かっている。
あれは魔王としての関心だ。
急激に成長し、四座全員を引きつけ始めた人間への観察。魔界の戦力として、危険性と可能性を見定めようとしているにすぎない。
それでも、竜族の本能は、番へ近づく強大な存在を無条件には受け入れない。
「別に、嫉妬してるわけじゃないよ」
「……そうか」
「……今の間、何?」
「何も言ってない」
「言ってないから気になるんだけど」
シエラが零の肩を軽く抓った。
痛みを感じない程度の、ささやかな抗議。
「リリス様が零に興味を持つのは当然だと思ってる。零は強くなってるし、これからもっと強くなる。それに——」
言いかけて、口を閉じる。
四座が自然と零の周囲へ集まり始めている。
強さだけでは説明できない何かが、零にはある。
リリスもそれを感じ取っているのではないか。
そんな考えが、一瞬だけシエラの胸を過った。
「……ううん。何でもない」
両手から流れていた金色の光が、ゆっくりと弱まっていく。
シエラは最後に零の肩へ魔力を巡らせ、体内の循環を確認した。
「これで調整は終わり。傷が治ったわけじゃないから、無茶はしないでね」
「善処する」
「信用できないなあ」
零の前へ回り込み、青い瞳で顔色を確認する。
「それでも——リリス様の前で格好悪いところを見せたら、私の番として恥ずかしいからね」
シエラは冗談めかして笑った。
だが、その手は零の頬へ触れたまま。
「ちゃんと帰ってきてよ」
小さく付け加えた言葉だけは、冗談ではなかった。
零が頷く。
シエラはようやく安心したように手を離し、黒い竜翼を広げた。
次はレイラとの訓練。
そして、その先に——魔王が待っている。




