第五十六環 「五人の居場所」
——夕方。魔王城・会議室。
王城を映していた立体図が消え、会議室に静寂が戻った。
リリスは立ったまま、四座を一人ずつ見渡す。
先ほどまで口元に浮かべていた笑みは、既に消えていた。
深紅の瞳に宿っているのは、魔界を統べる者の意思。
これから戦へ向かうため、部下へ命令を下す魔王の眼だった。
「ここからは、各自の任務を伝える」
最初に、緑色の瞳へ視線を向ける。
「レイラ」
名を呼ばれたレイラが、静かに背筋を伸ばした。
零と二人きりの時に見せていた柔らかな表情はない。
幻術と諜報を担う四座として、主君の言葉を待っている。
「人界へ送る斥候を選別しなさい」
「人数は?」
「精鋭を……50人ね、ツーマンセルで25組ってところかしら」
あまりにも大勢を送り込めば、それだけ発見される危険性が増す。
加えて、《永劫支配》による精神汚染の危険もある。
捕らえられた斥候が王印を刻まれ、逆に魔界側の情報を持ち帰る可能性さえあった。
「精神耐性だけじゃ足りないわ」
リリスが指を一本ずつ立てる。
「隠密行動。魔力遮断。人間への擬態。それに、視覚を封じたまま行動できること」
「私の幻術で、《永劫支配》の光だけを認識から外す?」
「ええ。ただし、それで完全に防げるとは考えないで」
リリスの声が低くなる。
「王城内部へは入れない。まずは王都の外側から、城の構造、兵力、物資の流れ、警備の交代時間を洗い出しなさい」
「精神耐性の基準は?」
「あんたの幻術に三十秒耐えられること。視界を封じられても冷静に退路を選べる者。それ以下は送らない」
レイラの目が僅かに細められた。
「慎重だね」
「使い捨てにする気はないから」
それは魔王として、当然のように発せられた言葉だった。
だが、レイラはその言葉の奥にあるものを理解していた。
一度だけ、小さく頷く。
「……了解。候補の選別に二日もらう。出発前に、私が全員へ対精神術式を施す」
「任せるわ」
次に、リリスは真紅の瞳へ顔を向けた。
「ルシア」
「はい、魔王様」
ルシアが即座に反応する。
ダークレッドのツインテールが揺れ、膝の上で握られていた手が僅かに強張った。
「異形の魔物の研究を続けなさい」
あの森に現れた、植物型の生物兵器。
魔力を吸収し、周囲の魔法を無効化し、宿主へ寄生して増殖する怪物。
それを造った力は、《永劫支配》と同質のものだった。
「あれが王城や王都へ配備されている可能性がある。魔力無効化の仕組み、寄生への対処法、物理攻撃以外の弱点。すべて調べて」
リリスはそこで一度言葉を切った。
ルシアの左腕へ視線を向ける。
傷そのものは、既に治っている。
だが、あの森で刻まれたものまで消えたわけではない。
「……辛いなら、別の者へ任せるけど」
「いいえ」
ルシアは迷わなかった。
真紅の瞳で、リリスを真っ直ぐ見返す。
「私にやらせてください」
声は僅かに震えていた。
それでも、決して目を逸らさない。
「あれを直接見て、生きて帰ってきたのは私です。部下たちが何に殺されたのか——私が突き止めます」
恐怖から逃げない。
失った者たちの死を、次の犠牲を防ぐための知識へ変える。
それが今のルシアにできる、弔いだった。
リリスは数秒間、その瞳を見つめる。
やがて、小さく頷いた。
「頼んだわよ」
「はい、魔王様」
頬が僅かに紅潮する。
任されたことへの誇りと、信頼されたことへの喜び。
ルシアの背筋が、さらに伸びた。
リリスの視線が、空色の髪へ移る。
「シエラ」
「は〜い」
シエラは椅子の背へ身体を預けたまま、軽く片手を上げた。
姿勢こそ普段通りだが、青い瞳には真剣な光が宿っている。
「竜族の情報網を使って、人界側の情報を集めなさい」
「神装について?」
「それだけじゃない。王都周辺の空路、対空防衛、潜入部隊が撤退に使える経路。それから、人界と接点を持つ竜族にも話を聞いて」
「了解。あの辺りを飛んだことのある同族なら、何人か心当たりがある」
「神装については、第四席を最優先」
因果へ干渉する《唯一正道》。
ドゥ・マーガを自由にさせたままでは、ほかの四聖剣を追い詰めても、敗北する未来だけを排除される。
「文献、伝承、噂話。何でもいい。能力の穴を見つけなさい」
「分かった」
「それと——第五席」
リリスの声が僅かに低くなる。
「存在だけでも確かめて。無理に接触する必要はない。情報がなければ、ないという事実を持ち帰りなさい」
「そっちは慎重に調べる。王が隠してる相手なら、下手に触らない方がいいしね」
いつもの軽い口調。
だが、シエラは危険性を正しく理解していた。
最後に、リリスは薄橙色の瞳へ視線を向けた。
「クオン」
「……ああ」
クオンは腕を組み、待っていた。
「魔力を封じられた状況でも戦える部隊を編成しなさい。あの異形が複数現れた場合、最後に頼れるのは純粋な物理戦力よ」
「鬼族を中心にする」
「それだけじゃ駄目。鬼族が対応できない状況も想定して、複数の種族から選びなさい」
クオンは少し考えた後、頷いた。
「分かった」
「それと、零の近接訓練も継続」
その瞬間、クオンの口角が僅かに上がった。
「零も部隊に入れる」
「本人の許可なく、勝手に部隊員へ数えないで」
「戦えるぞ」
「それは今日見たから知ってるわよ」
リリスが呆れたように息を吐く。
「ただし、《無窮蛇装》の負荷が大きすぎる。今の零は、全力で使えば数分しか戦えない」
深紅の瞳が、零へ向けられた。
「零。あんたは引き続き、四座との訓練を続けなさい」
「分かった」
「五日後までに、第二位階をもう少し扱えるようになっておくこと。今のまま実戦で使えば、敵を倒す前に自分が潰れるわよ」
軽い口調。
だが、その裏には明確な信頼があった。
零ならば、さらに先へ進める。
リリスはそう確信している。
「各自、持ち場へ戻りなさい。五日後に一度、進捗を報告。その情報を基に——作戦を実行へ移せるか判断する」
四座が一斉に立ち上がる。
ルシアが零の横を通り過ぎる際、小さく呟いた。
「……明日の朝も、よろしく」
続いて、レイラが緑色の瞳を向ける。
何も言わず、零にだけ分かる穏やかな笑みを残して歩き出した。
クオンは零の前で足を止める。
拳を握り、金色の瞳で真っ直ぐ見据えた。
「明日もやる」
「今日と同じ訓練をか?」
「次は——引き分けない」
それだけ告げ、クオンは歩き出した。
最後に残ったシエラが、零の隣へ並ぶ。
空色の髪が肩へ触れた。
「お疲れ」
青い瞳で零を見上げ、当たり前のように尋ねる。
「今日——部屋、行っていい?」
◇
会議室の扉が閉じた。
張り詰めていた空気から解放され、全員の足取りが僅かに緩む。
シエラは零との距離を保ったまま、返事を待っていた。
番としての誘い。
隠す気など、微塵もない。
「ちょっと」
廊下の空気が凍る。
ルシアが足を止めていた。
真紅の瞳がシエラを射抜く。
「夜は私の時間なんだけど」
「え? いつ決まったの?」
「決まってるでしょ! 訓練後の復習と、明日の予定確認があるんだから!」
「それ、訓練じゃん」
シエラが余裕の笑みを浮かべる。
「私のは訓練じゃないから」
ルシアの頬が一気に赤くなった。
怒り。
羞恥。
そして、言い返せない悔しさが混ざった色。
「あ、あんたね——!」
「二人で行けばいいのに」
背後から、レイラの声がした。
腕を組み、緑色の瞳で二人を交互に眺めている。
呆れたような表情。
だが、口角は確実に上がっていた。
「二人で零の相手をすれば、時間の取り合いもしなくて済むでしょ?」
「はぁっ!?」
ルシアの顔が、耳まで真っ赤に染まる。
「な、何言ってんのよ!」
シエラも一瞬だけ目を見開いた。
すぐに、面白がるような笑みを浮かべる。
「……へえ。レイラにしては面白い提案」
「面白くない! 全然面白くない!」
「零はどうしたい?」
レイラが緑色の瞳を細める。
からかうことならできる。
冗談めかして、零を困らせることもできる。
けれど——本気の言葉だけは、まだ口にできなかった。
「選べないなら、まとめて面倒を見てもらうのも手だと思うけど?」
「レイラ! あんた何言ってんの!」
「まあまあ。ルシア、落ち着きなよ。顔が真っ赤だよ?」
「誰のせいよ!」
騒がしい声が、長い廊下へ反響する。
少し離れた場所では、クオンが腕を組んでその光景を眺めていた。
「……よく分からないが」
四人の視線が集まる。
クオンは何の含みもなく、率直な感想を口にした。
「零は人気だな」
その言葉によって、ルシアの顔がさらに赤くなった。
◇
——夜。魔王城・食堂。
長いテーブルに、温かな料理が並んでいる。
肉。
パン。
果実。
湯気を立てるスープ。
先ほどまで戦争について話していたとは思えないほど、食堂は賑やかな空気に包まれていた。
「ほら、ちゃんと食べなさい」
ルシアが零の皿へ肉を載せる。
「今日の訓練で、身体も魔力も使いすぎてるんだから。回復させないと明日に響くわよ」
「分かってる」
「分かってないから言ってんの」
その隣から、シエラが自分の皿を差し出した。
「私のも食べる? 今日いっぱい飛んだし、肉を食べて力をつけないと」
「ちょっと。私が先に渡したでしょ」
「先とか関係なくない? 零が食べたい方を食べればいいじゃん」
「そういう問題じゃないのよ!」
昼食時にも見たようなやり取り。
だが、今夜の中心は二人の口論ではなかった。
向かい側で、レイラが頬杖をついている。
紅茶のカップを口元へ運びながら、騒がしい二人と零を眺めていた。
ルシアの真っ直ぐな好意。
シエラの、遠慮のない愛情。
零との自然な距離の近さ。
——羨ましい。
そんな感情が、胸の奥で小さく疼いた。
自分は、あの二人のようにはなれない。
零をからかうことならできる。
秘密を共有した夜から、挑発的な仮面を外すことも少しずつできるようになった。
それでも——本気の気持ちだけは言葉にできない。
零は、自分にとって特別な存在だ。
理解者。
同じ痛みを知る者。
だが、その感情が恋なのか、共感なのか、それとも過去に縋る依存なのか。
レイラ自身にも、まだ分からなかった。
カップを置き、零を見る。
金色の瞳と目が合いそうになり——咄嗟に逸らした。
「……らしくない」
誰にも聞こえない声で呟く。
テーブルの端では、クオンが黙々と肉を食べていた。
しかし、薄橙色の瞳は時折零へ向けられている。
今日の戦闘。
自分の全力へ食らいつき、最後には正面から拳を受け止めた姿。
戦士として興味を持っている。
それだけなら、以前から分かっていた。
だが——今は違う。
零が他の者と話していると、僅かに胸が騒ぐ。
零とは、もっと戦いたい。
そして、敵ではなく隣にいてほしい。
その感情を何と呼ぶのか、クオンはまだ知らなかった。
「……難しいな」
「何が?」
シエラに尋ねられ、クオンは首を横へ振る。
「分からない。だから、後で考える」
考えることを放棄し、再び肉を口へ運んだ。
◇
テーブルの上座。
リリスは頬杖をつき、その光景を眺めていた。
ルシアが零へ食事を勧める。
シエラがその隣へ割り込む。
レイラが視線を逸らす。
クオンが零を盗み見る。
四座が——一人の男を中心に、少しずつ色づいている。
深紅の瞳が、遠い記憶を見るように細められた。
——父も、こうだったのかしら。
先代魔王。
リリスの父。
魔界史上最強と謳われた男。
幼い頃に見た光景が、現在の食卓へ重なる。
父を囲んでいた、先代の四座。
そして——父の隣へ座っていた、リリスの母。
五人の女たちは笑い、怒り、時には嫉妬し合いながら、それでも誰一人として父の傍を離れなかった。
父は、誰か一人だけを選ぶことはなかった。
けれど——誰一人として見捨てることもしなかった。
リリスの母も、そんな父を愛した五人のうちの一人だった。
「…………」
銀の杯を傾ける。
深紅の酒が、リリスの唇を濡らした。
視線の先では、零がルシアの言葉に応え、差し出された料理を食べている。
顔ではない。
持っている力でもない。
傷ついた者を拒まず、いつの間にか人の中心に立っている。
その在り方が——どうしようもなく父に似ていた。
「……似てるのよね。あんた」
小さな呟きは、食堂の喧騒に紛れた。
リリス自身は、まだ知らない。
四座を見守るために座っているその場所が——いつか、自分自身の居場所へ変わることを。




