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第五十四環 「見えているのに、認識できない」


——午後・後半。魔王城・訓練場。


空から降りた零の身体には、まだ風の感触が残っていた。


魔力の翼で雲の合間を駆けた高揚感。


そして、シエラが打ち明けた《起源回帰(オリジネーション)》への恐怖。


それらが胸の奥へ沈んでいる。


だが、今は次の訓練へ意識を切り替えなければならない。


訓練場の木陰では、レイラが待っていた。


幹へ背を預け、開いた本へ視線を落としている。


風に揺れる、くすんだ金色の髪。


長い耳。


零が近づくと、緑色の瞳が文字の上から持ち上がった。


「遅い」


短い言葉だった。


以前のような、相手を試す響きはない。


仮面を外した、柔らかな声。


零にだけ聞かせる、素のレイラの声だった。


「悪い。シエラとの話が長引いた」


「……ふうん」


レイラの瞳が細められる。


何を話していたのか気になる。


だが、それを素直に尋ねることはしなかった。


本を閉じ、幹から背を離す。


近づいてきたレイラの視線が、零の全身を上から下へ移動した。


表面的な傷は、治療薬とシエラの生命力によって塞がっている。


それでも、身体の動きに残る僅かな硬さまでは隠せない。


《無窮蛇装(ウロボロス・アペイロン)》の反動。


《起源回帰》したクオンの拳によって、骨と内臓へ刻まれた疲労。


そうした些細な違和感を、レイラの目は見逃さなかった。


「……本当に、ぼろぼろだね」


レイラが小さく息を吐く。


「今日は身体を動かさない訓練にしようか」


「軽めにするのか?」


「うん。軽めに——」


一拍置き、レイラの口角が上がった。


「というのは、嘘」


「……おい」


「身体は動かさない。でも、内容まで軽いとは言ってないよ」


レイラの指先が、零の額へ触れた。


「安心して。零の精神がどこまで耐えられるのか。どこから先が本当に危険なのか——私は誰よりもよく知ってる」


ほんの一瞬、緑色の瞳に暗い影が差した。


幻術の逆流によって、零の記憶へ触れた夜。


レイラは、零の中に刻まれたものを直接見ている。


だから必要以上に手加減はしない。


けれど、決して壊れる場所まで踏み込みもしない。


「私が見てるから。危なくなったら、すぐ止める」


その言葉とともに、レイラの指が宙へ弧を描いた。


空間が歪む。


訓練場の景色が、水面に映った像のように揺らぎ始める。


木々が溶けた。


地面が消えた。


陽光さえ失われ暗闇が零を包み込む。


レイラの幻術領域。


上下も左右も分からない、完全な闇。


それでも、零の精神は揺らがなかった。


記憶や感情へ直接侵入する幻術は、零の精神へ深く入り込めない。


だが、すべての幻術を無効化できるわけではなかった。


五感へ虚偽の情報を与え、存在しない空間を知覚させる幻術。


現実の景色そのものを魔力で覆い隠す術。


そうした外側からの干渉までは、精神耐性だけでは防げない。


暗闇の中へ、レイラの姿が浮かび上がった。


挑発的な笑みはない。


ただ真っ直ぐ零を見つめる、素の表情。


「今日は、攻める側の訓練」


レイラの声が、方向のない空間へ響く。


「零の精神へ直接入り込むのは、今の私でも難しい。だから今日は逆。零が相手の認識を崩す側になる」


指が鳴る。


暗闇の中に、五つの影が現れた。


輪郭だけを持つ、人型の幻影。


それぞれが異なる方向を向き、周囲を警戒している。


「この影に、認識への弱体化をかけて」


「幻術を使えってことか?」


「少し違う」


レイラが一歩近づく。


肩が触れそうな距離。


「勘違いしないで。相手の心へ幻を植えつけるわけじゃない。零に、そんな繊細な精神干渉はまだ無理」


遠慮のない言葉だった。


だが零を貶しているのではない。


できることと、できないことを正確に見極めている。


「零がやるのは、《夢幻抱擁(ウロボロスサーキット)》で相手の認識精度を弱くすること」


レイラが人差し指を立てる。


「目を見えなくするんじゃない。零の姿は見えている。足音も聞こえる。でも——相手の意識が、それを重要な情報として拾い上げられないようにする」


「見えているのに、認識できない」


「そう。私の幻術が、存在しないものを存在すると信じ込ませる力なら——零の力は、そこにあるものを意識から滑り落とす」


緑色の瞳が、真剣に零を見上げた。


「《夢幻抱擁》なら、できるはず」


声が小さくなる。


零にだけ届くほどに。


「私が教えるから」


僅かに間を置き、レイラは続けた。


「……私にしか、教えられないことだから」


長い耳の先が、ほんの少し赤く染まる。


それを隠すように影へ向き直り、レイラは指導者の顔へ戻った。


「まずは、あの影が零を認識する精度を弱めて。急激に落としたら気づかれる。薄く、自然に」


零は左腕の腕輪へ意識を向けた。


神装が脈動する。


普段は、相手の身体能力や魔力、攻撃の威力へ作用させている弱体化。


その対象を——認識の精度へ切り替える。


最初の影へ干渉した。


次の瞬間、その輪郭が崩れ、暗闇へ溶けていく。


「違う」


レイラの声が飛ぶ。


「影そのものを弱体化させてどうするの。消すのは対象じゃない。対象が零を捉える力」


影が元の姿へ戻された。


二度目。


今度は意識を集中させ、影の視覚認識だけを一気に低下させる。


人影が零を見失った。


だが、すぐさま周囲へ顔を巡らせ、警戒するように構えた。


「それも駄目。急すぎる」


「見失わせたぞ」


「突然見えなくなったら、そこに何かいるって教えてるようなものでしょ」


レイラが零の腕へ手を添える。


細い指を通じて、幻術の魔力が流れ込んできた。


「もっと薄く。相手自身にも、認識が変化したと気づかせない」


三度目。


零は急激に力を落とさなかった。


影から自分へ向けられている意識。


その繋がりを慎重に捉え、少しずつ細くしていく。


視覚を奪わない。


音も消さない。


零という存在に与えられる、認識上の優先順位だけを弱めていく。


やがて、影の視線が零の上を通り過ぎた。


見えている。


だが、そこに敵がいるとは理解できていない。


影は警戒を解き、零へ背を向けた。


「……そう。それ」


レイラの手が、零の腕から離れる。


「今の感覚、覚えて」


零は干渉を維持したまま、影へ近づいた。


背後まで進む。


それでも影は振り返らない。


だが、零が剣を顕現させた瞬間——影が勢いよく振り向いた。


干渉が解除されている。


「攻撃の意思を向けた瞬間に切れたな」


「今はそれでいい。最初から何でもできたら、教えることがなくなって困るし」


レイラは小さく笑った。


「初期段階では、一度に一体だけ。攻撃すれば解除。零を強く警戒している相手や、視覚以外の感覚が鋭い相手には効きにくい」


「使いどころは限られるな」


「暗殺、潜入、撤退。それに——一瞬だけ相手の意識から外れれば、零には《武装転移》がある」


零は頷いた。


僅かな時間でも認識から外れられれば、死角へ武器を射出し、その位置へ転移できる。


正面戦闘でも、使い方次第では大きな隙を生み出せる。


「名前をつけるなら——《認識希釈(フェイドアウト)》かな」


レイラが零の周囲を一周し、様々な角度から状態を観察する。


「幻術じゃなく、概念干渉による認識弱体化。私の術より、ある意味たちが悪い」


「褒めてるのか?」


「もちろん」


飾りのない賞賛。


緑色の瞳が、柔らかく細められた。


「零にしかできないやり方だよ」


どこか嬉しそうだった。


自分の領域へ零が踏み込んできたことが。


そして、自分の技術が零の中で新たな形へ変わったことが。


訓練は静かに続いた。


成功するのは、まだ数回に一度。


維持できる時間も短い。


それでも零は、新たな戦い方の感覚を確実に掴み始めていた。



     ◇



——夕方。魔王城・会議室。


重厚な扉が閉じられた。


薄暗い室内の中央には、長い楕円形のテーブルが置かれている。


その上座に、リリスが座っていた。


椅子の背へ流れる白銀の髪。


室内を見渡す深紅の瞳。


黒と赤の魔王装束が、静かな威圧感を放っている。


右側には、ルシアとレイラ。


左側には、シエラとクオン。


そしてリリスの正面に、零が座っていた。


「全員揃ったわね」


リリスがテーブルへ肘をつき、組んだ指の上へ顎を載せる。


一人ずつ視線を向け、最後に零を見た。


「本題に入る。人界の王——アルトリウスの討伐を見据えた情報整理よ」


空気が変わった。


訓練場の熱とも、食堂の温もりとも違う。


戦へ向かう者たちの空気。


リリスが指を鳴らす。


テーブルの上に魔力が集まり、人界の王城と周辺地形を再現した立体図が浮かび上がった。


「昨日、零から聞いた情報を整理する」


王城の中央に、赤い光が灯る。


「神装《永劫支配(エターナル・レガリア)》。精神支配と生物改造。特に厄介なのは、前者ね」

リリスが立体図を指先で回転させる。


「兵士だけじゃない。街の人間まで駒にされている可能性がある。大軍で正面から攻めれば、こちらの兵まで奪われかねない」


ルシアが腕を組み、真紅の瞳で王城を睨む。


「数で押すほど、向こうの戦力を増やすことになるわけね」


「そういうこと」


「精神支配の有効範囲は?」


レイラが零を見た。


先ほどまでの柔らかな表情は消え、緑色の瞳に鋭い光が宿っている。


「距離による制限はある? それとも、一度支配されたらどこまで離れても命令を受け続ける?」


「あと、生物改造って具体的にはどこまでできるの?」


シエラが立体図を覗き込む。


「魔獣を作り変えるだけ? それとも、人間や魔族まで?」


クオンは腕を組み、簡潔に尋ねた。


「……要は、王を殺せばいいんだろう」


リリスが僅かに口角を上げる。


「最終的にはね。問題は、どうやってそこまで辿り着くかよ」


深紅の瞳が、零を見据えた。


「あんたが一番、あの男を知ってる。聞きたいことが三つある」


リリスが指を一本立てる。


「一つ目。《永劫支配》による精神支配の条件と限界。どうすれば支配されて、どうすれば解除できるのか」


二本目。


「二つ目。王城の構造、兵力、配置。あんたが知っている範囲で構わない」


三本目。


「三つ目——人界の王、アルトリウスの弱点」


全員の視線が、零へ集まった。


零は記憶を辿りながら、静かに口を開く。


「まず、精神支配の条件だが——顕現した《永劫支配》が放つ光を、直接見ることだ」


短い沈黙。


ルシアの眉が寄る。


「見る? 視界へ入れるだけで支配されるってこと?」


「正確には、直接視認した者の精神に、支配の種になる王印が刻まれる」


零は立体図の上に浮かぶ赤い光を見つめた。


「一度見ただけで、完全に自我を失うわけじゃない。最初は王の言葉への警戒心や抵抗感が薄れるだけだ」


だが——繰り返し光を浴びれば、王印は深く根を張る。


命令へ逆らえなくなり、自分の意思と王の意思の区別が曖昧になり、最後には完全に自我を奪われる。


「アルトリウスは、それを祝福の光だと偽っていた」


零の声が低くなる。


「即位式や演説のたびに《永劫支配》を顕現させ、兵士や王都の住民へ王印を刻んだ。本人たちは、自分が支配されていることにも気づいていない」


「最悪ね……」


ルシアが拳を握る。


「距離は?」


レイラの問いに、零は首を横へ振った。


「正確な限界は分からない。ただ、アルトリウスから離れるほど、命令が届くまでに時間がかかり、強制力も弱まっていた」


「王印そのものは?」


「距離を取っても消えない。奴が死ねばどうなるのかも不明だ」


リリスが指を組み直す。


「解除方法は?」


「俺が知る限りでは二つ。一つは、アルトリウス本人が解除すること」


零は一度言葉を切った。


「もう一つは——自分を自分たらしめる意思が、王の命令を上回ることだ」


緑色の瞳が鋭くなる。


「極端に精神耐性が高ければ、抵抗できる?」


「可能性はある。だが、普通の精神力では難しい」


零の声が、僅かに低くなった。


一華を失った日。


妹の死を目の前で見せられ、神装を覚醒させられた直後。


アルトリウスは《永劫支配》によって、零を完全な兵器へ変えようとした。


だが、最後まで消えなかったものがある。


一華を奪った男を殺す。


その憎悪だけは、王の命令でも塗り替えられなかった。


「俺のケースは——特殊だった」


全員が、その言葉の意味を知っている。


だが、幻術の逆流によって零の記憶を直接見たレイラだけは、その異常さを知識ではなく体感として理解していた。


「対策は、光を直接見ないこと」


シエラが腕を組む。


「目を守るか、視覚以外の方法で戦う。それに、精神防御を重ねる」


「ただし、どこまで防げるかは分からない」


零の言葉に、会議室が静まる。


その中でクオンが腕を組んだまま呟いた。


「……つまり、目を閉じて殴ればいいのか」


リリスが小さく笑う。


「あんたの場合は、本当にできそうだから困るのよね」


「できるぞ」


即答だった。


「冗談としては、悪くない」


レイラが立体図へ手を伸ばす。


その指先から幻術の膜が広がり、王城を示す赤い光だけを覆い隠した。


「私の幻術で、《永劫支配》の光だけを認識から外す。完全に防げる保証はないけど、直接見るよりは遥かに安全なはず」


「ルシアは魔力探知。シエラは風と竜族の感覚。クオンは気配。視覚を封じても、あんたたちなら戦える」


リリスの視線が、最後に零へ向けられる。


「零は既に支配を拒絶した経験がある」


テーブルの上で、《永劫支配》を示す赤い光が幻術に覆われて消える。


敵の能力は、まだ分からないことが多い。


それでも——攻略のための最初の糸口は、確かに見え始めていた。


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