第五十三環 「零を忘れるのが怖い」
——午前。魔王城・中庭。
穏やかな風が、木々の間を通り抜けていく。
葉が擦れ合う音。
揺れる木漏れ日。
その光が、零の顔へまだらに降り注いでいた。
零は動けなかった。
正確には、動くなと言われていた。
《無窮蛇装》は既に解除され、左腕にはいつもの腕輪が収まっている。
服はところどころ破れ、乾いた血と土が張りついていた。腕には亀裂のような痣が走り、装甲越しにクオンの拳を受けた左腕は、まだ指先まで痺れている。
早朝には、ルシアの実戦級魔術。
その直後には、通常状態のクオンとの連戦。
最後には、《起源回帰》を解放したクオンとの全力戦闘。
午前中だけで受けた傷の数は、これまでの訓練とは比較にならない。
だが全身を走る痛みよりも先に感じるものがあった。
柔らかさ。
温もり。
零の頭を、シエラの太腿が支えていた。
膝枕だった。
空色の長い髪が零の顔へ垂れ、頬を微かにくすぐっている。
視線を上げれば、青い瞳が零を見下ろしていた。
愛おしそうに。
そして、少しだけ呆れたように。
細い指が、零の黒髪を優しく梳いていく。
額にかかった髪を払い、傷の残る頬へ触れ、また髪へ戻る。
ゆっくりと。
何度も繰り返す。
「なるほど。それで零ってば、こんなになっちゃってるの」
声は柔らかかった。
責めているわけでも、呆れているわけでもない。
そこにあるのは、隠しきれない心配だった。
「ルシアの実戦級魔術を受けた直後に、クオンの《起源回帰》でしょ? 一日で両方を相手にするなんて——君、壊れたいの?」
「壊れるつもりはないんだけど……」
「壊れようとしてる人って、だいたいそう言うんだよね」
冗談めかして笑いながらも、髪を撫でる指は止まらない。
シエラのもう一方の手は、零の胸元に置かれていた。
そこから淡い魔力が流れ込んでいる。
治癒魔法ではない。
竜族が持つ膨大な生命力の一部を分け与え、零自身の治癒能力を一時的に高めているのだ。
傍らには、治療薬の入っていた空瓶も転がっていた。
切り傷や火傷は、少しずつ塞がり始めている。
だが、骨や内臓へ蓄積した疲労までは消えない。
「ほら、動かないの。せっかく治療薬も使ったんだから」
「この後、お前との訓練だろ」
「だから休ませてるの。今の零を空から落としたら、さすがに私が怒られるし」
「落とす前提なのか?」
「まさか。番を落としたりしないよ」
シエラが悪戯っぽく笑う。
風が吹いた。
髪が大きく揺れ、その一房が零の顔へかかる。
竜族特有の甘い香りがした。
シエラは髪を払う代わりに、そのまま零の頬を指先でなぞった。
クオンの拳によってできた痣へ触れる。
ほんの僅かに、青い瞳が曇った。
「……それにしても」
頬に触れたまま、シエラが呟く。
「強くなったね、零」
その声には、誇らしさがあった。
同時に——僅かな寂しさも混じっている。
「クオンが《起源回帰》を使うくらいだもんね。あの子、本気で楽しかったんだろうなぁ」
零の髪を梳く指に、少しだけ力が入った。
無意識なのだろう。
シエラ自身は気づいていないようだった。
クオンが零を認めた。
四座の奥の手まで解放し、全力をぶつけた。
零もそれに応え、最後には引き分けた。
喜ぶべきことだと、シエラにも分かっている。
それでも、胸の奥に生まれた小さな熱までは消せない。
「……私との訓練でも、そのくらい本気を出してくれる?」
逆さまに重なった青い瞳。
その奥に、僅かな甘えと独占欲が滲んでいる。
竜種の根源的な欲求。
番である零に、自分だけを見てほしいという願い。
指が額から頬へ、そして顎へとゆっくり滑った。
「午後は私の番でしょ。楽しみにしてるから」
シエラは微笑んだ。
いつもの余裕を取り戻した、大人びた笑み。
だが、その瞳の奥には確かな熱が宿っていた。
クオンとの戦闘が想定以上に長引いたため、午前後半に予定されていた飛行訓練は、昼食後へ延期されている。
レイラとの幻術訓練も、それに合わせて時間を後ろへずらしていた。
「その前に、少しでも寝ておきなよ」
「ここでか?」
「何か問題ある?」
シエラの尻尾が、零の肩へ緩く巻きつく。
逃がさないと言わんばかりに。
「……ない」
「よろしい」
満足そうに答え、シエラは再び零の髪を撫で始めた。
穏やかな風と、柔らかな温もり。
零は目を閉じた。
僅かな時間だけ、戦いの疲労へ身を委ねた。
◇
——昼。魔王城・食堂。
休息を終えた零は、一度自室へ戻って着替えた。
ボロボロになった服を脱ぎ、新しい黒を基調とした衣服に袖を通す。
シエラから分け与えられた生命力と治療薬のおかげで、表面的な傷は大半が塞がっていた。
それでも、身体の芯に残る疲労までは消えていない。
ルシアの炎。
クオンの拳。
その衝撃が、まだ骨の奥に刻まれている。
食堂へ入ると、既にクオンが席についていた。
「おう」
クオンは大量の肉を頬張りながら、片手を上げた。
《起源回帰》の反動なのだろう。
いつも以上の料理が並べられている。
皿は七枚。
そのすべてに、山のような肉が盛られていた。
零が向かいへ座る。
するとクオンは、手をつけていなかった肉の皿を一枚、無言で零の前へ押し出した。
「食え。身体が足りてない」
短い言葉。
だが、そこに込められた意味を零は理解していた。
認めた戦士への敬意。
そして、明日もまた戦うための不器用な気遣い。
「ありがとう」
零は皿を受け取った。
「ちょっと、クオン。あんたばっかり食べてないで、少しは残しなさいよ」
声とともに、ルシアが食堂へ入ってきた。
トレイを持ち、ダークレッドのツインテールを揺らしながら歩いてくる。
そして零の隣へ、迷うことなく腰を下ろした。
零の顔と新しい服を一瞥する。
大きな怪我が残っていないことを確認したのか、僅かに頷いた。
「……まあ、生きてるならいいわ」
口では素っ気なく言いながら、トレイに載っていたデザートの小皿を零の前へ置く。
プリンだった。
何も説明せず、ルシアは自分の食事を始める。
「あら、ルシア。随分と素直じゃないね」
レイラが紅茶のカップを片手に現れ、零の斜め向かいへ座った。
緑色の瞳が、零の全身を確かめるように動く。
新しい服。
塞がりきっていない傷。
疲労の残る顔。
「……午前中だけでそれ? 零、本当に壊れるよ」
「うるさいわね。私のせいじゃないし!」
「半分くらいはルシアのせいでしょ」
「……三割よ」
「認めてるじゃん」
レイラがくすくすと笑う。
ルシアは頬を膨らませたまま、スープへ視線を落とした。
「はーい、私も混ぜて」
今度はシエラが、大皿を抱えて合流した。
ルシアの反対隣へ座り、当然のように身体を寄せる。
肩が触れ合った。
「午後は私の番だからね。ちゃんと食べて、少しでも回復しときなよ〜?」
青い瞳が、柔らかく零を見つめる。
だが、その奥には訓練への期待も宿っていた。
クオンが肉を咀嚼しながら、零とシエラを交互に見る。
「……シエラ。あまり壊すなよ。明日も私と戦う」
「え、それを私に言う?」
「今日壊したのは私だ。だから、明日の分は残せ」
「……何、その理屈」
「取り合いになってるね」
レイラが紅茶を啜りながら呟く。
からかうような緑の瞳は、どこか温かかった。
「なってないわよ!」
ルシアが即座に否定する。
「なってるじゃん」
「なってない!」
「私は取り合ってるよ?」
シエラが笑顔で認めた。
ルシアのフォークが、皿へ小さな音を立てて落ちる。
クオンは会話の意味を理解していないのか、首を傾げながら肉を口へ運んでいた。
零は賑やかな食卓の中で、黙々と食事を進める。
身体が栄養を求めていた。
クオンから渡された肉。
ルシアが置いたプリン。
湯気を立てる温かな料理が、疲れた身体へ染み渡っていく。
周囲の声が重なる。
ルシアとレイラの軽い口喧嘩。
シエラの楽しそうな笑い声。
クオンが黙々と肉を咀嚼する音。
——魔王城へ来たばかりの頃には、想像もしなかった光景だった。
最後のパンを口へ運び、零は席を立つ。
「もう行くの?」
シエラが見上げた。
「少し休んでから、午後の訓練に備える」
「了解。じゃあ一時間後、訓練場でね」
頷いた零が食堂を出る。
その背中を——四つの視線が見送っていた。
◇
——午後。魔界上空。
風が、零の全身を包んでいた。
遥か眼下に、魔王城が見える。
黒い城壁。
尖塔。
城下町へ続く街道。
そのすべてが、今は小さく見えた。
零は空を飛んでいる。
神装《夢幻抱擁》の魔力循環を応用した飛行術。
シエラから教わった技術だった。
初めて飛んだ時は、姿勢を保つことすらできなかった。
だが今は違う。
魔力の翼で風を捉え、上昇し、旋回し、速度を自在に変えられる。
隣では、空色の髪が風に流れていた。
シエラが黒い竜翼を大きく広げ、零と並んで空を駆けている。
翼が風を捉えるたび、身体が滑るように前へ進む。
優雅で、迷いのない飛行。
青い瞳が時折零を確認し、そのたびに嬉しそうな笑みを浮かべていた。
番と同じ空を飛ぶ。
竜族にとって、それがどれほど特別なことなのか。
シエラの表情を見れば、言葉で説明されなくても分かった。
雲の合間を縫う。
同時に上昇し、互いの周囲を回るように旋回する。
二人の描いた軌跡が、空へ一つの円を残した。
零はシエラに速度を合わせながら、口を開く。
「シエラが、《起源回帰》を使うと——どうなるんだ?」
風に声が攫われる。
それでも、竜族の聴覚は零の言葉を聞き逃さなかった。
シエラの表情が変わった。
先ほどまで浮かべていた笑みが消える。
眉が僅かに寄り、口元が明確に歪んだ。
嫌悪。
そして——恐怖。
翼の動きが、一拍だけ乱れた。
「……嫌よ」
短い言葉だった。
いつもの軽い口調ではない。
シエラは速度を落とし、零と視線を合わせる。
青い瞳が揺れていた。
「私のは、あんまり面白くないから」
誤魔化すように笑おうとする。
だが、笑みは形にならなかった。
風に煽られた髪が顔へかかる。
シエラはそれを払おうともせず、正面へ視線を戻した。
「クオンのは、分かりやすいでしょ? 鬼族の起源は破壊。身体能力が一気に跳ね上がって、力で全部打ち砕く。単純で、強くて——格好いい」
その声が、僅かに震える。
「でも、私のは——強くなるだけじゃ済まないの」
黒い竜翼が、一度大きく羽ばたいた。
巻き起こった風が、零の黒髪を揺らす。
「私が《起源回帰》を使うと、理性が——消える」
ぽつりと告げる。
「人の姿を保てなくなって、巨大な竜へ変わる。本当の意味で、竜になるの」
現在の竜族よりも遥かに巨大で、遥かに強大だった原初の竜。
その姿へ回帰したシエラの戦闘力は、通常時の三十倍近くまで跳ね上がる。
クオンたちの《起源回帰》とは、上昇率そのものが違う。
「言葉も、感情も、記憶も——全部、竜の本能の底に沈む」
シエラの手が、僅かに震えていた。
「目の前にいるのが敵か味方かも分からなくなる。ただ壊して、焼いて、喰らう。それだけの存在になる」
竜族は、現存する魔族の中でも原初種に近い。
そのため《起源回帰》との親和性が、他種族とは比較にならないほど高かった。
だが、強すぎる力に精神が耐えられない。
一度、原初竜へ変貌すれば、自らの意思で解除することさえできない。
疲れ果て、周りを破壊し尽くして、初めて、何も無くなったその場所で一人、正気を取り戻す。
「番への執着だけは残るって、言われてる」
シエラが零を見た。
青い瞳に宿っているのは、訓練へ向けていた期待でも、先ほどの独占欲でもない。
純粋な不安だった。
「でも、それが今の私と同じ気持ちなのかは分からない」
番を守ろうとするのか。
誰にも渡したくないと、その腕の中へ閉じ込めるのか。
それとも、強すぎる執着によって——番すら傷つけてしまうのか。
原初竜となった者の思考を、正確に知る術はない。
「私が戻るには、外から本能を鎮めてもらうしかない。でも、あの姿の私に近づける人なんて——ほとんどいない」
通常時の三十倍に達する、巨大な原初竜。
その攻撃を掻い潜り、直接触れなければならない。
失敗すれば、待っているのは死だ。
「だから——使いたくない」
声が小さくなった。
風の音だけが、二人の間を流れていく。
シエラは胸元へ手を当てた。
昨夜、零に告げた言葉。
番は自分だけ。
その事実が嬉しくて、誇らしくて、何よりも大切だった。
だからこそ、怖い。
「零のことも、分からなくなるかもしれないから」
青い瞳が、金色の瞳を見つめる。
「私が私じゃなくなって——零を傷つけるかもしれない」
シエラは泣いていなかった。
けれど、その声は僅かに震えていた。
「それが、一番怖いの」




