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第五十ニ環 「無限と羅刹」


——午前。魔王城・訓練場。


多層障壁の内側を、二つの影が駆け抜けた。


先に仕掛けたのはクオンだった。


踏み込みと同時に地面が爆ぜる。


橙色の光を残し、原初の鬼が一直線に零へ迫った。


速い。


通常状態とは比較にならない。


神装第二位階《無窮蛇装(ウロボロス・アペイロン)》によって知覚を増幅していなければ、姿を捉えることさえできなかっただろう。


クオンが戦斧を振り上げる。


一切の迷いがない。


細かな加減を捨てた、純粋な破壊の一撃。


巨大な刃が振り下ろされるより早く、周囲の空気が押し潰された。


零は避けなかった。


神装と接続された意識で、クオンとの間に存在する距離を認識する。


一。


刃が届くまでに残された、僅かな距離。


零はその数値へ干渉した。


一を——無限へ。


クオンの戦斧が止まった。


否。


止まってはいない。


振り下ろされた刃は、確かに零へ近づき続けている。


それでも届かない。


零と刃の間に残された僅かな距離が、無限に引き延ばされているのだ。


「——!」


クオンの橙色の瞳が見開かれた。


どれほど力を込めても、刃は零の身体へ到達しない。


力が足りないのではない。


速度が遅いわけでもない。


攻撃が届くという結果そのものを、零の神装が拒絶している。


障壁の外で見守っていたリリスが、僅かに目を細めた。


「距離という概念への干渉……第二位階では、そこまでできるのね」


だが——クオンは諦めなかった。


鬼族の本能が、目の前の異常に対する答えを導き出す。


戦斧から片手を離した。


そして、拳を握る。


全身を覆う赤い紋様が、一斉に明滅した。


《起源回帰》によって増幅された闘気が、右拳の一点へ集束していく。


あまりの密度に空間が軋み、拳の周囲に黒い亀裂が生まれた。


「おおおおッ!」


クオンが、零との間に横たわる無限を殴りつける。


理論ではない。


魔法でも、概念操作でもない。


ただ破壊する。


それこそが、原初の鬼が持つ唯一にして絶対の答えだった。


クオンの拳が前進する。


引き延ばされた距離が激しく歪み、《無窮蛇装》の胸元を巡る蛇の紋章が明滅した。


零の頭に、焼けるような痛みが走る。


「——っ!」


無限そのものが砕かれたわけではない。


零が展開しているのは、距離を無限へ近づけ続けるための概念回路。


その演算へ、クオンの圧倒的な出力が正面から叩きつけられている。


一つの現象を維持するために必要な処理が、急激に増大していく。


限界を超えた。


距離の歪みが砕け散った。


クオンの拳が零へ迫る。


回避は間に合わない。


零は咄嗟に左腕を掲げた。


拳が、漆黒の装甲へ直撃する。


轟音。


多層障壁の最表層に巨大な波紋が走り、そのうちの一枚が砕け散った。


衝撃を受けた零の身体が、後方へ吹き飛ばされる。


地面に叩きつけられ、そのまま十数メートルにわたって滑った。装甲が大地を抉り、粉塵が長い尾を引く。


それでも、零は倒れなかった。


片膝をつき、地面へ指を食い込ませて踏み止まる。


漆黒の装甲に、目立った傷はない。


だがその内側で、零の左腕が痺れていた。


骨が軋んでいる。


指先の感覚も薄い。


《無窮蛇装》が衝撃を無限に分散してなお、完全には殺しきれない威力だった。


「……これが、《起源回帰》か」


バイザーの奥で、零の金色の瞳が輝く。


クオンは追撃しなかった。


逃げるつもりがないと分かっているからだ。


戦斧を構え直し、嬉しそうに牙を覗かせている。


零は立ち上がった。


次に操るのは、クオンとの距離。


先ほどとは逆。


無限へ引き延ばすのではなく——一を、零へ。


二人の間に存在していた距離が消失した。


瞬間、零の姿がクオンの眼前に現れる。


漆黒の剣が閃く。


クオンは戦斧を戻せない。


迷うことなく左拳を振り上げ、刃の側面を殴りつけた。


火花が散る。


剣の軌道が逸れた直後、クオンの右拳が零の顔面へ迫る。


零は上体を反らして回避。


すれ違いざまに剣を消し、短剣を逆手に顕現させる。


クオンの脇腹へ刃を走らせた。


闘気の防壁と短剣が衝突する。


赤黒い光が弾け、薄い血の線がクオンの肌に刻まれた。


「……!」


クオンは一度だけ傷へ視線を落とした。


流れ出した自らの血を見て笑う。


《起源回帰》によって呼び起こされた闘争本能が、歓喜に震えている。


「いい」


大きく踏み込み、拳を振り抜く。


「お前は——いい!」


拳の連打。


一発一発が、直撃すれば戦闘不能では済まない威力を秘めている。


零は距離を引き延ばし、装甲で受け、攻撃の方向を逸らす。


同時に武器を切り替え、クオンの間隙へ反撃を差し込んでいく。


拳と剣。


力と概念。


橙色と金色の光が、訓練場を縦横無尽に駆け巡る。


クオンの拳が空を切る。


その余波だけで地面が捲れ上がった。


零は距離を消して背後へ移動し、大剣を振り下ろす。


クオンが振り返り、腕を交差させて受け止めた。


重ねられた増幅によって、大剣の威力が跳ね上がる。


クオンの両足が地面へ沈んだ。


それでも、原初の鬼は倒れない。


両腕を強引に振り開き、大剣を弾き返す。


零の姿勢が崩れた。


クオンは零ではなく足元の大地へ拳を叩き込んだ。


「——っ!」


零の認識外から、地面を介した衝撃が襲いかかる。


距離を引き延ばす対象を絞りきれない。


地面が爆発し、巻き上げられた岩石と衝撃波が零の全身を打ち据えた。


漆黒の装甲に細い亀裂が走る。


零の口元から、血が零れた。


クオンも無傷ではない。


腕や脇腹には斬撃の跡が増え、赤い紋様の上を血が流れている。


互いの血が、砕けた大地へ落ちた。


障壁の外では、リリスが三度目の補強を行っていた。


攻撃の衝撃を受けるたび、多層障壁が外側から一枚ずつ砕けていく。そのたびに、リリスが新たな層を即座に再構築していた。


深紅の瞳が、二人の姿を追う。


「……こっちに来て、僅か十三日」


通常状態とはいえ、零はクオンを二度破った。


今は《起源回帰》したクオンと、正面から渡り合っている。


「本当に、とんでもない子ね」


呟いたリリスの口元には、微かな笑みが浮かんでいた。


何合打ち合ったのか。


既に誰も数えていない。


クオンの動きが、僅かに鈍り始める。


《起源回帰》は絶大な力を与える反面、肉体へ凄まじい負荷をかける。赤い紋様が明滅し、荒い呼吸がクオンの口から漏れていた。


零も同じだった。


《無窮蛇装》による複数の概念操作は、脳と神装を猛烈な速度で消耗させている。


視界が揺れる。


全身を覆っていた装甲も、ところどころが光の粒となって崩れ始めていた。


互いに、次が最後だと理解した。


クオンが大きく踏み込む。


残されたすべての闘気を、右拳へ集中させていく。


空間が歪む。


魔法ではない。


純粋な力の密度に、世界の側が耐えきれず悲鳴を上げている。


原初の鬼が象徴する、破壊。


そのすべてを宿した拳だった。


「——零ィッ!」


クオンが、初めて訓練中に零の名を叫んだ。


零は剣を顕現させる。


クオンとの距離を引き延ばせば、この攻撃を回避できる可能性はあった。


《武装転移》で背後へ逃れることもできる。


それでも、零は動かなかった。


クオンが、すべてを込めている。


ならば、自分も正面から応えたい。


《無窮蛇装》に残された増幅を、右腕と剣へ集中させる。


漆黒の装甲が軋んだ。


蛇の紋章が強烈な金色の光を放つ。


クオンの拳。


零の剣。


互いの全力が——真正面から衝突した。


一瞬、世界から色が消えた。


遅れて、轟音が訓練場を揺るがす。


多層障壁の外周が一斉に砕け、黒と赤の破片となって飛び散った。


「まったく——!」


リリスが両手を掲げる。


深紅の魔力が溢れ出し、残された障壁を瞬時に補強。二人の激突によって生じた衝撃を、訓練場の内部へ押し戻す。


やがて、粉塵が晴れた。


二人は、まだ立っていた。


零の剣は根元から折れている。


《無窮蛇装》の右腕も砕け、光の粒となって零れ落ちていた。


クオンの拳からも、纏っていた闘気が消えかけている。


橙色の瞳が明滅する。


限界だった。


クオンの片膝が地面についた。


同時に零の装甲が崩れ、露出した膝が大地へ落ちる。


《起源回帰》が解除される。


クオンの全身を覆っていた赤い紋様が消え、燃えるような橙色の瞳が元の色へ戻っていった。


《無窮蛇装》も完全に解除され、漆黒の光が零の左腕へ集束する。そこには再び、元の腕輪が収まっていた。


どちらも立ち上がれない。


どちらも、戦いを続ける力を残していなかった。


障壁が解かれる。


リリスが二人の間へ歩み寄り、呆れたように息を吐いた。


「そこまで。これ以上は、本当に死ぬわよ」


深紅の瞳で両者の状態を確認する。


そして、静かに告げた。


「戦闘結果は——引き分けね」


反論はなかった。


零もクオンも、相手を完全に倒してはいない。


全力を出し切り、同時に限界を迎えた。


紛れもない引き分けだった。


クオンが荒い呼吸を繰り返しながら、零を見た。


その顔には、心の底から満たされた笑みが浮かんでいる。


「……引き分けだ」


一度そう認めてから、クオンは僅かに首を横へ振った。


「だが——戦士としては、お前の勝ちだ」


「……どうしてだ」


「最後の一撃。お前は、逃げられた」


クオンは零の左腕へ視線を向ける。


「距離を伸ばすことも、武器へ飛ぶこともできた。それでも逃げずに、私の拳を正面から受けた」


金色の瞳が、真っ直ぐ零を映している。


「力では互角だった。だが、その覚悟に——私は負けた」


「逃げるのも戦術だろ」


「そうだ。だから、これは勝敗の話じゃない」


クオンが手を伸ばす。


零も腕を上げ、その手を握った。


力はほとんど残っていない。


それでも二人は、互いの手を支えにして立ち上がった。


「零」


クオンが名前を呼ぶ。


「お前と戦うのは、楽しい」


飾り気のない、真っ直ぐな言葉。


「だから、もっと強くなれ。私も強くなる」


握った手に、僅かに力が込められた。


「いつか、もう一度やる。その時も——私の前から逃げるな」


「分かった」


零が頷く。


クオンは満足そうに笑った。


それから、ほんの少しだけ表情を曇らせる。


「それと——敵にもなるな」


「……クオン?」


「お前と本気で戦うのは楽しい。でも、お前を殺すために戦うのは——嫌だ」


自分でも初めて気づいた感情なのだろう。


クオンは不思議そうに胸元へ手を当てた。


戦士として強者を求めている。


けれど、零には敵として立ってほしくない。


「私の隣で戦え」


短く告げる。


命令のようでいて、その実は不器用な願いだった。


零は握った手を離さず、答えた。


「ああ。俺も、そのつもりだ」


クオンの瞳が、僅かに揺れた。


やがて、いつもの静かな笑みが浮かぶ。


「……そうか」


その一言は、どこか嬉しそうだった。

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