第四十九環 「番になった朝」
——早朝。魔王城・零の自室。
窓から、淡い光が差し込んでいた。
魔界の朝日は、人間界のものとは異なる。
紫がかった薄明かりが窓から滲み、静かな部屋を柔らかく照らしている。
零が目を開けた。
腕の中には、シエラがいた。
長い髪が、シーツの上へ広がっている。
黒い竜角が、零の顎のすぐ下にあった。
シエラは零の腕を抱き枕のようにして、穏やかな寝息を立てていた。
薄い寝衣の襟元。
首筋には昨夜の名残が、一つだけ残っている。
その寝顔には、普段の余裕ある笑みも、昨夜見せた不安もない。
ただ満ち足りたような、安らかな表情。
翼は、いつの間にか背中へ収まっていた。
それでも尻尾だけは、零の腰へ緩く巻きついている。
離さないとでも言うように。
「……ん……」
零が動いた気配に気づき、シエラの耳がぴくりと動いた。
青い瞳が、ゆっくりと開く。
寝ぼけたまま、零の顔を見上げた。
「……おはよ〜」
甘く、柔らかい声。
昨夜の余韻を残した唇が、僅かな笑みを作る。
「……おはよう」
「あと五分」
シエラは再び目を閉じた。
腰へ巻きついた尻尾が、きゅっと零を締めつける。
「朝の訓練がある」
「知ってる。でも、あと五分」
「ルシアが来るぞ」
「来たら来たで、起こしてもらえばいいよ」
幸せそうに呟き、零の胸元へ顔を埋める。
その直後。
コンコン。
規則的で、少し強いノックが響いた。
シエラの耳が、再び動いた。
だが目は開かない。
「零。起きてるでしょ」
扉の向こうから、ルシアの声が聞こえた。
平静を装っている。
それでも普段より僅かに硬い。
「治療班から、軽い術式訓練なら許可が出たわ。場所は中庭じゃなくて、第三訓練場」
ルシアが事務的に予定を伝える。
「リリス様の指示で、防音結界のある場所を使うことになったから。訓練開始は三十分後よ」
「……分かった」
零が答える。
扉の向こうで、短い沈黙があった。
「それと——」
ルシアの声が、少しだけ低くなる。
拗ねたような響き。
それでも、その奥には零の体調を気遣う柔らかさが滲んでいた。
「朝の訓練、遅れるんじゃないわよ」
「分かってる」
「……ならいいわ」
扉の向こうから、足音が遠ざかっていく。
零の胸へ顔を埋めていたシエラが小さく笑った。
「……怒ってた?」
青い瞳が、薄く開く。
「いや」
零は、足音の消えた扉を見た。
「どちらかといえば——燃えてた」
「あはは。ルシアらしい」
シエラは腰へ巻きつけていた尻尾を解き、ゆっくりと身体を起こした。
シーツを胸元へ引き寄せながら、空色の髪を手櫛で整える。
指先が、首筋に残る昨夜の名残へ触れた。
一瞬だけ顔を赤くする。
それでも隠そうとはしなかった。
むしろ、大切なものを確かめるように、その痕を優しく撫でる。
「……また、こうして隣で眠ってもいい?」
青い瞳が、零を見つめた。
もう、昨夜までの不安はない。
竜族の本能だけではない。
シエラ自身の意思によって結ばれた、確かな想いがそこにあった。
「ああ」
零が答える。
シエラの顔へ、幸せそうな笑みが広がった。
「じゃあ、約束ね」
小指を差し出す。
零が自分の小指を絡めると、シエラは満足そうに頷いた。
◆
——早朝。魔王城・食堂。
零が食堂の扉を開ける。
すでにシエラを除く全員が席についていた。
ルシアが真っ先に零を見る。
真紅の瞳が、襟元へ一瞬だけ向けられた。
衣服に隠れているが首筋には、昨夜シエラが残した薄い痕が覗いている。
ルシアのこめかみが、僅かに動いた。
「……遅い」
短い言葉。
だが、その声に強い棘はなかった。
ルシアは隣の椅子を引き、零へ座るように示す。
いつもの席。
「悪い」
零が、ルシアの隣へ腰を下ろした。
それから少し遅れてシエラが食堂へ入ってきた。
「おはよー」
空色の髪には、いつも以上の艶がある。
頬には僅かに赤みが残り、その表情は穏やかだった。
声にも隠しきれないほど、満ち足りた響きがある。
シエラは零の反対側へ座ると、自然に身体を寄せた。
肩が触れ合う距離。
ルシアのこめかみが、再びぴくりと動いた。
それでも、何も言わない。
(……分かってるわよ)
ルシアは皿へ視線を落とした。
(分かってるけど——目の前でやられると、やっぱり腹立つわね)
レイラは、紅茶のカップ越しに二人を見ていた。
緑色の瞳が、愉快そうに細められる。
「……ふぅん」
その一言だけで、全てを察していた。
零とシエラの距離。
二人の表情。
以前とは明らかに異なる、互いを意識した空気。
そしてシエラの首筋へ残された、薄い痕。
「シエラ。首、隠した方がいいんじゃない?」
にこりと笑う。
善意からの忠告ではないことは、誰の目にも明らかだった。
シエラが、自分の首筋へ触れる。
一瞬だけ顔を赤くしたが、すぐに余裕のある笑みを取り戻した。
「別に、隠すつもりないけど」
「あ、そう。随分と堂々としてるね」
レイラが、紅茶を一口飲む。
「……まあ、番だもんね。当然の権利ってこと?」
その言葉にルシアのフォークが皿へ触れた。
カチン。
小さな音。
だが、確実に響いた。
クオンは、山盛りの肉を頬張りながら首を傾げていた。
金色の瞳が、零とシエラを交互に見る。
「……今日は、二人の匂いが同じだな」
食堂の空気が止まった。
ルシアが勢いよくクオンを見る。
「クオン! 朝から何言ってんのよ!」
「駄目なのか?」
クオンは、本気で分からないという顔をしていた。
遠回しに尋ねるという発想が、そもそもない。
「昨夜、正式に番になったのか?」
あまりにも直接的な質問に、今度こそ食堂の空気が凍りついた。
シエラは一瞬目を丸くし次の瞬間、にっと笑った。
「さあ、どうでしょう?」
「シエラも答えなくていいから!」
ルシアの顔まで赤く染まる。
レイラは口元を隠しながら、楽しそうに肩を揺らしていた。
「大人の話だよ、クオン」
「……私も大人だ」
「そういう意味じゃないんだけどね」
「よく分からない」
クオンは首を傾げたまま、再び肉へ齧りついた。
上座からリリスの声が飛ぶ。
「はい。朝からうるさい」
全員の視線が、上座へ向いた。
「さっさと食べなさい。訓練に遅れるわよ」
リリスの深紅の瞳が、一瞬だけ零を見た。
続いて、シエラへ。
首筋へ残された痕。
満ち足りた表情。
二人の距離。
(——まあ、番だしね)
リリスはフォークで果物を刺し、口へ運んだ。
甘い。
「……ただし」
深紅の瞳が、シエラを鋭く射抜く。
「今日の訓練に支障を出したら、許さないわよ」
「大丈夫、大丈夫。むしろ絶好調」
「……寝不足の顔で言われても、説得力ないんだけど」
「あはは……」
シエラが、気まずそうに頬を掻く。
朝食が進んでいく。
食堂の空気は—昨日までの重さから一転していた。
失った者たちのこと。
人界の王への怒り。
これから始まる戦い。
全てが消えたわけではない。
完全に元へ戻ったわけでもない。
それでも、日常の輪郭は、確かに戻り始めていた。
零は静かにパンを齧りながら、羊皮紙に書かれていた今日の予定を思い返す。
早朝は、ルシアとの魔法訓練。
午前は、クオンとの近接戦闘。
続いて、シエラとの飛行・空中戦訓練。
午後は、レイラとの幻術耐性訓練。
夕方には、リリスと人界の王に関する情報を整理する。
忙しい一日になる。
「零」
ルシアが席を立つ。
いつもの魔女帽子を深く被り、真紅の瞳を零へ向けた。
「食べ終わったなら行くわよ。第三訓練場」
「分かった」
零も席を立つ。
シエラが、その背中へ声をかけた。
「頑張ってね、零」
「……朝から随分、余裕じゃない」
ルシアが振り返る。
シエラは、楽しそうに笑っていた。
「まあね。私、番だから」
「——っ!」
「でも、ルシアの時間を邪魔するつもりはないよ」
シエラの青い瞳が、真っ直ぐにルシアを見る。
からかいだけではない。
ルシアと零の間にあるものを、シエラも認めていた。
ルシアは数秒間黙った後小さく鼻を鳴らす。
「……当たり前でしょ」
そして、零の袖を軽く引いた。
「行くわよ」
二人が、並んで食堂を出ていく。
シエラは、その背中を穏やかに見送った。
レイラが、紅茶を飲みながら呟く。
「……少しずつ、形が決まってきたね」
誰へ向けたわけでもない言葉。
リリスだけが——その意味を理解したように、僅かに目を細めていた。




