第五十環 「私の師匠はあんた」
——早朝。魔王城・地下訓練場。
魔王城の地下深くに設けられた、第三訓練場。
壁も床も天井も、分厚い魔力遮断素材で覆われている。幾重もの防音結界が張り巡らされ、内部で発生した音や衝撃が外へ漏れることはない。
ここは通常の訓練に使われる場所ではなかった。
四座同士が、実戦に近い出力で打ち合うための空間だった。
訓練場の中央に立った零は、周囲へ視線を巡らした。
壁際には、赤、青、黄、白——属性ごとに色分けされた魔石が並べられている。そのすべてに細かな術式が刻まれ、淡い光を放っていた。
「……ルシア。今日は何をやるんだ?」
問いかけても、ルシアはすぐに答えなかった。
ダークレッドのツインテールが、地下を流れる微かな風に揺れる。黒い魔女帽子の下では、真紅の瞳が零を真っ直ぐに射抜いていた。
いつものような講義はない。
準備運動の指示も、課題の説明もない。
ただ、ルシアは右手にした杖を持ち上げた。
その動きに呼応して、壁際に並んだ魔石の一つが赤く輝く。
膨大な魔力が流れ込み、訓練場の空気が震えた。肌を刺すほどの熱が生まれ、室温が急激に上昇していく。
「——避けなさい」
それだけだった。
直後、轟音とともに炎が放たれた。
訓練用に威力を落とした火球ではない。実戦級の炎柱が床を舐め、零の身体を正面から呑み込もうと迫る。
「——っ!」
零は咄嗟に横へ跳んだ。
炎柱が背後の壁へ直撃する。激しい爆炎が広がる寸前、壁面に刻まれた術式が起動し、炎を吸収した。
それでも焦げた臭いが訓練場を満たしていく。
着地した瞬間、別の魔石が青白く輝いた。
「遅い」
三本の氷槍が、零の退路を塞ぐように扇状に放たれる。
さらに上空では黄色い魔法陣が展開されていた。
氷槍とほぼ同時に、三方向から雷撃が降り注ぐ。
魔界最強の魔導師。
その名に恥じない、容赦のない多重詠唱だった。
零は神装《夢幻抱擁》を起動した。
左腕の腕輪が脈動し、無限を象徴する蛇の紋様が淡い光を放つ。
周囲に弱体化領域を展開。迫る氷槍の速度と威力を削りながら、身体を捻って隙間を抜ける。
その肩を、雷撃が掠めた。
鋭い痺れが腕を駆け抜ける。
だが直撃する寸前、雷に刻まれていた停止術式が反応していた。致命傷を与える威力だけが消え、衝撃と痛みだけが残される。
零はそこで、ようやく気づいた。
この訓練場に並べられた魔石は、魔力を供給するためだけのものではない。
すべての攻撃に、緊急停止術式が組み込まれている。
ルシアは本気に近い魔法を放っている。だが、零を殺すつもりはない。
「本気かよ——」
「当たり前でしょ」
ルシアの声が、熱気の向こうから返ってきた。
冷たいのではない。
むしろ、その瞳は燃えていた。
昨夜から胸の奥に残っていた感情も。自分の不甲斐なさも。零の成長に置いていかれたくないという焦りも。
そのすべてを、魔法へ変えている。
ルシアが杖を振り抜いた。
左右の魔石が同時に輝き、炎と氷が一本の刃を形作る。
相反する二属性を接触させながら崩壊させない、常識外れの魔力制御。
ルシア自身は魔力枯渇から回復しきっていない。だからこそ、外部の魔石から供給される魔力だけを、自らの手足のように操っていた。
傷ついた身体を無理に酷使しているわけではない。
それでも、その技量は紛れもなくルシア自身のものだった。
距離が詰まる。
炎氷の刃が、零の喉元を目がけて振るわれた。
零は後退しながら防御結界を展開する。
刃と結界が衝突した。
甲高い音。
次の瞬間、零の結界に無数の亀裂が走った。
「——!」
結界が砕け散る。
訓練を始めてから、ルシアの攻撃が、零の防御を正面から破壊したのは初めてだった。
しかし、刃は零の首へ届く寸前で静止した。
表面に刻まれた安全術式が発動し、炎と氷が光の粒となって消えていく。
ルシアは既に後方へ跳んでいた。
「ほら、次。ぼうっとしてんじゃないわよ」
十五発の炎弾が、一斉に生成される。
時間差。変則軌道。死角からの迂回。
これまでの訓練で使っていた定型的な攻撃ではない。実戦で敵を追い詰め、逃げ場を奪うための魔法だった。
零は弱体化領域を最大まで広げた。
炎弾の威力を削り、速度を落とし、その間を駆け抜ける。避けきれない一発だけを剣で切り払い、別の一発との距離を引き延ばす。
だが、ルシアの攻撃は止まらない。
むしろ零が対応するたびに、その一段先へと組み替えられていく。
やがて、零の額から汗が滴り落ちた。
息が乱れる。
腕や頬には、小さな火傷と擦過傷が増えていた。
それでも、倒れない。
ルシアの魔法を見極め、受け流し、少しずつ彼女との距離を縮めていく。
そして——最後の炎弾を、零の剣が切り裂いた。
炎が消えた。
熱を含んだ煙が、荒れ果てた訓練場を漂う。
壁には焦げ跡が残り、床には砕けた氷が散乱していた。魔石の多くは魔力を使い切り、既に光を失っている。
零は膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返していた。
全身が痛む。
ルシアの攻撃を、完全に捌ききれたわけではない。
だが——最後まで立っていた。
ルシアは杖を下ろし、深く息を吐いた。
その表情は、どこか晴れやかだった。
真紅の瞳に滞留していた鬱屈が、先ほどまでの炎とともに消えている。
「ま、今日はこれくらいで許してあげるわ」
腰に手を当て、少しだけ得意そうに顎を上げる。
零は呼吸を整えながら顔を上げた。
「……許すって、何をだよ」
「何でもいいでしょ」
ルシアは素っ気なく言い放った。
昨夜、零とシエラが一夜をともにしたこと。
それに何も感じなかったと言えば、嘘になる。
けれど、これは嫉妬に任せた仕返しではない。
ルシアは零の強さを確かめたかった。そして何より、自分自身が再び戦えることを——自らの魔法で証明したかったのだ。
ルシアは杖を収め、零の前まで歩み寄った。
先ほどまでの激しさが嘘のように、その表情は真剣だった。
「あと——頼みがあるの」
「頼み?」
「私にも、その……魔術以外の戦い方を教えて」
僅かに言い淀みながらも、ルシアは目を逸らさなかった。
「あの魔物と戦って、嫌ってほど分かった。魔導師は魔法を封じられたり、懐に入られたりしたら脆い。今までは火力で押し切れたけど——人界と戦うなら、それだけじゃ足りない」
左腕に残った傷を、右手でそっと押さえる。
その傷は治癒魔法で塞がれている。
だが、あの森で味わった無力感は消えていなかった。
「もう二度と、何もできないまま仲間を失いたくない。だから、近接戦闘の基礎だけでも身につけておきたいの」
「それなら、クオンに教わるのが一番だ」
近接戦闘において、クオン以上の師はいない。
零の答えは当然のものだった。
しかし、ルシアの唇が不満そうに尖った。
「……あんたがいいの」
短い言葉だった。
けれど、意思は強かった。
「あんたと訓練する時間が減るでしょ。それに——私が師匠と思えるのは、あんたくらいなの」
言い切った直後、自分の言葉の意味に気づいたのか、ルシアの耳が赤く染まる。
「べ、別に深い意味はないわよ! あんたの戦い方を覚えた方が、実戦で連携しやすいってだけ。効率の問題なんだから」
早口で言い訳を重ねるルシアを見ながら、零は少し考えた。
「……基礎だけは、クオンにも見てもらおう」
「だから、私はあんたに——」
「間違った身体の使い方を覚えたら、実戦で死ぬ。そこは近接戦闘の専門家に任せるべきだ」
正論を返され、ルシアが言葉に詰まる。
零はそのまま続けた。
「その代わり、武器の扱いと実戦形式の相手は俺がやる。《夢幻抱擁》なら、ルシアに合う武器も用意できる。魔法を近接戦に組み込む方法も、一緒に考えよう」
「……本当に?」
真紅の瞳が、一瞬だけ輝いた。
すぐに取り繕うように視線を逸らしたが、上がった口元までは隠せていない。
「まあ、それならいいわ。最初から断られるとは思ってなかったし」
強がる声は、僅かに弾んでいた。
「明日から始めるか」
「決まりね」
ルシアは黒いマントを翻し、訓練場の出口へ向かう。
扉の前まで進んだところで、不意に振り返った。
「次はクオンとの訓練でしょ。怪我しすぎないようにしなさいよ」
一度、零の傷を確認するように目を細める。
「あんたが壊れたら、明日の近接訓練ができないんだから」
それだけ告げ、ルシアは地下訓練場を出ていった。
遠ざかっていく足取りは軽い。
ダークレッドのツインテールも、どこか嬉しそうに揺れていた。
一人残された零は、荒れ果てた訓練場の中央で息を吐いた。
身体中が痛む。
ルシアの本気は、想像していた以上だった。
それでも——悪くない痛みだった。
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