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第四十八環 「ツガイと呼べるのは私だけ」


——夜。魔王城・零の自室。


「——重い?」


シエラの問いが、静かな部屋へ落ちた。


零はすぐに答えなかった。


繋いだ手を見つめ、言葉を選ぶ。


「——重いとは思う」


シエラの指が、びくりと震えた。


青い瞳に浮かんでいた光が、僅かに揺らぐ。


零は、その手を離さなかった。


「一生に一度なんだろ。軽いわけがない」


シエラが顔を上げる。


金色の瞳が、真っ直ぐに自分を見ていた。


「人間の俺には、番ってのがどれほど重大なものなのか、まだ完全には理解できてない」


零の指が、シエラの手を握り返す。


「だから、その気持ちを軽く扱いたくない」


「零……」


「誰が一番なのかなんて、今の俺には答えられない。でも——」


一度、言葉を区切る。


「お前は魅力的だ」


シエラの青い瞳が、大きく見開かれた。


「俺も、お前に隣にいてほしいと思ってる」


一瞬、時間が止まった。


シエラの唇が震える。


瞬きをした拍子に、長い睫毛の先へ光が溜まった。


泣いてはいない。


泣いていないはずなのに青い瞳が赤く潤んでいく。


「——っ」


声にならなかった。


いつも余裕のある笑みを浮かべている竜族。


魔王軍随一の機動力を誇る、空の支配者。


そんなシエラが十八歳の青年の一言で、崩れかけていた。


「……ばか」


掠れた声。


次の瞬間、シエラの身体が前へ倒れた。


零の胸へ、全身を預ける。


空色の髪が零の肩へ広がり、竜角が顎の近くへ触れた。


シエラの体温が、服越しに伝わってくる。


温かい。


そして僅かに震えていた。


零は、その身体を受け止めた。


何も言わず。


拒むこともなく。


シエラは零の胸へ顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。


最初はただ、甘えていた。


猫のように頬を擦り寄せる。


髪が、零の首筋をくすぐった。


黒い竜角が顎へ軽く触れるたび、小さく「ん」と声を漏らす。


零の心臓の音を聞いている。


規則的で。


静かで。


温かい。


それだけで安心できた。


「……あったかい」


零の服を掴んでいた手から、少しずつ力が抜ける。


代わりに両腕が零の腰へ回された。


「ねえ——知ってる?」


シエラの唇が、零の耳元へ近づく。


甘い囁き。


だが、少しだけ鼻声だった。


「先代の魔王様、奥さんが五人いたんだよ?」


「…………」


何を言われたのか理解するまで、零には数秒かかった。


シエラの指が、零の胸元の服を掴んでいる。


顔は見えない。


零の胸へ埋めたまま。


しかし、髪の隙間から覗く耳が、真っ赤に染まっていた。


「……つまりさ」


震える声。


それでも、シエラは言葉を止めなかった。


「魔界では、複数の相手を愛すること自体は珍しくないっていうか」


シエラが、僅かに顔を上げる。


「ルシアも、レイラも、クオンも——零を大切に思ってる」


そのことには、ずっと前から気づいていた。


「三人が、あんたとどんな関係を選ぶのか。それは私が決めることじゃない」


誰かの気持ちを、シエラが代わりに許すことも、拒むこともできない。


「でも、少なくとも——私は構わない」


青い瞳が、金色の瞳を見上げる。


涙の名残が残る瞳。


それでも、その奥には竜族としての誇りが宿っていた。


「——ただし、番は私だけだから」


それだけは譲れない。


竜族の本能が。


そしてシエラ自身の心が。


唇が、微かな笑みを作った。


泣きそうな顔で、それでも嬉しそうに笑っていた。


「……ずるいでしょ、私」


零は、すぐには答えなかった。


シエラの頬へ、そっと手を添える。


「ずるくはない」


「でも——」


「譲れないものがあるのは、俺も同じだ」


一華のこと。


人界の王への復讐。


そして今、自分の傍にいてくれる者たち。


「お前が番を大切にしてることも分かってる」


零の親指が、シエラの頬を撫でた。


「全部を理解できてるわけじゃない。それでも——俺は、その気持ちから逃げたくない」


シエラの瞳が、再び潤む。


「……そういうところ、本当にずるい」


「どっちがだよ」


零が僅かに笑う。


シエラも、涙を残したまま笑った。


再び、零の胸へ顔を埋める。


「……もう少しだけ、こうしてていい?」


「ああ」


シエラの腕へ力がこもった。


零も、その背中へ手を回す。


静かな時間が流れる。


やがてシエラの声が小さくなった。


「私のこと、魅力的って言ったよね」


「言ったな」


「……責任、取ってよ」


顔を上げる。


青い瞳孔が縦に裂け、その奥へ金色の光が滲んでいた。


竜族の本能が、表へ現れ始めている。


だが、以前のように、その本能へ呑まれてはいない。


零の意思を確かめるように、シエラは動きを止めていた。


二人の距離が近づく。


互いの吐息が混じり合う。


「嫌なら——止めて」


囁く声は、僅かに震えていた。


「今日だけは——ちゃんと、君の番にして」


最後の一線を、零へ委ねる。


零は、シエラの青い瞳を見つめた。


「番の全てを理解できているわけじゃない」


シエラの表情が、不安に揺れる。


「それでも——俺も、お前を選びたい」


金色の瞳に、迷いはなかった。


零の手が、シエラの頬から後頭部へ滑る。


空色の髪を、優しく掻き上げるように。


そして——唇を重ねた。


「——っ、ん……」


シエラの身体が震える。


驚いたように見開かれた青い瞳が、すぐに閉じられた。


シエラは自ら零の背中へ腕を回し、離さないように引き寄せる。


唇が一度離れる。


熱を帯びた青い瞳が、零を見上げた。


「……零」


掠れた声で、名前を呼ぶ。


「もっと——近くに来て」


シエラの黒い竜翼が広がった。


誰にも渡さないと主張するように——二人の身体を包み込む。


窓の外では、魔界の夜を照らす二つの月が、ゆっくりと雲の向こうへ隠れていった。


◆


同刻。魔王城・廊下。


ルシアは、零の部屋へ続く廊下を歩いていた。


明日の予定について、補足を伝え忘れていた。


ただ、それだけだった。


やがて、零の部屋が見えてくる。


扉の前まで来たところで足が止まった。


中から、微かな声が聞こえた。


誰の声なのか。


考えるまでもない。


ルシアの真紅の瞳が、一度だけ大きく揺れた。


唇を噛む。


拳を握る。


黒いマントの裾が、僅かに震えた。


胸の奥がちくりと痛んだ。


分かっていた。


シエラは、零を一生に一度の番として選んでいる。


こうなる可能性も、最初から理解していた。


それでも、実際にその時が来れば、何も感じないわけではない。


ルシアは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。


自分と零の間に生まれたもの。


弱さも、涙も、全て受け止めてもらった夜。


それが、シエラとの関係によって消えるわけではない。


シエラが番であることと、自分と零の絆は別だ。


どちらかを消さなければ、成立しない関係ではない。


「……別に、譲ったわけじゃないから」


誰もいない廊下で、小さく呟いた。


今夜はシエラの番。


ただ、それだけだ。


ルシアは扉を叩かず、静かに踵を返した。


自室へ戻り、扉を閉める。


ベッドへ腰を下ろし、天井を見上げた。


「……明日の訓練、覚悟してなさいよ」


僅かに頬を膨らませる。


それでも、真紅の瞳には以前のような不安はなかった。


「私は私で——明日も、あいつの隣にいるんだから」


ルシアは毛布を被り、目を閉じた。


嫉妬が消えたわけではない。


それでも、零との間にあるものを、もう疑ってはいなかった。


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