第四十七環 「ツガイの重さ」
——夜。魔王城・廊下。
夕食を終え、零は食堂を出た。
廊下は薄暗く、壁に並んだ魔力灯が淡い紫色の光を放っている。
「——零」
背後から呼び止められた。
振り返ると、ルシアが立っていた。
赤みがかったダークレッドのツインテールが揺れる。
真紅の瞳は、零を真っ直ぐに見上げていた。
その手には一枚の羊皮紙が握られている。
「はい、これ。明日の予定」
差し出された羊皮紙を、零が受け取る。
その瞬間ルシアの指先が、零の手へ触れた。
ほんの一瞬。
偶然を装うには、僅かに長い接触。
だが、ルシアはすぐに手を引っ込めた。
「……ありがとう」
「別に。四座としての仕事よ」
そう言いながら、耳の先が赤く染まっている。
「……それと」
ルシアの視線が泳いだ。
言葉を探すように。
それでも逃げなかった。
「今日の会議で、話してくれたこと」
真紅の瞳が、もう一度零へ向けられる。
「……ありがとう。私たちを信じてくれて」
それだけ告げると、ルシアはくるりと背を向けた。
黒いマントが翻る。
「おやすみ。明日も早いんだから、ちゃんと寝なさいよ」
早足で歩き去っていく。
揺れるツインテールと赤い耳が、少しずつ廊下の向こうへ遠ざかっていった。
零は、受け取った羊皮紙を開く。
【予定】
早朝:ルシアとの魔法訓練
※治療班の許可が出た場合のみ
午前:クオンとの近接戦闘訓練
午前後半:シエラとの飛行・空中戦訓練
正午:昼食
午後:レイラとの幻術耐性訓練
夕方:リリスとの会議
※人界の王に関する情報整理
夜:自由時間
零は羊皮紙を折り畳み、自室へ向かった。
◆
——夜。魔王城・零の自室。
扉を閉め、外套を脱ぐ。
椅子へ腰を下ろし零は長く息を吐いた。
今日一日で、全てを話した。
今まで隠していた過去。
一華を奪われた日のこと。
神装《夢幻抱擁》が覚醒した理由。
人界の王への憎しみ。
全て。
話したことで心が軽くなったのかと聞かれれば、分からない。
痛みが消えたわけではない。
憎しみが薄れたわけでもない。
それでももう、一人で抱える必要はなくなった。
コンコン。
扉が叩かれた。
軽いリズム。
聞き慣れた音だった。
「……入れ」
扉が開く。
空色の長い髪。
白い竜角。
青い瞳は僅かに潤んでいた。
「……やっほ」
いつもと同じ、軽い挨拶。
だが、その声は少し掠れている。
シエラは部屋へ入り、背後の扉を閉めた。
普段浮かべている余裕の笑みは、どこにもなかった。
「……角、お願いしてもいい?」
「ああ」
二人は、ベッドの縁へ並んで座った。
シエラが零の方へ身体を傾ける。
黒い竜角が、零の手の届く位置へ差し出された。
零の指が、角の根元へ触れる。
ゆっくりと。
一定のリズムで撫でていく。
シエラの身体が、びくりと震えた。
「ん……っ」
青い瞳が閉じられる。
強張っていた肩から力が抜けていく。
いつもの五分間。
番を求める本能を、零の温もりで落ち着かせるための時間。
だが、今日は少しだけ違っていた。
シエラの手が、零の膝へ置かれている。
指先が、零の服を強く掴んでいた。
「……ねえ、零」
名前で呼んだ。
普段は「君」と呼ぶことの方が多い。
その声は微かに震えていた。
「今日の話、聞いてて……すごく、きつかった」
いつもの余裕が剥がれていく。
「君が、いつも笑ってるのを見てた。ふざけたり、私たちの訓練へ付き合ったり」
指先が、零の膝を掴む力を強める。
「それも全部——あの記憶を抱えたままだったんだって思ったら」
シエラが唇を噛んだ。
「……悔しい」
閉じていた瞳が開く。
潤んだ青い瞳が、零を見上げた。
「私、番なのに。何も知らなかった」
涙は流れていない。
だがその一歩手前で、懸命に堪えていた。
「ねえ。私じゃ——足りない?」
声が小さくなる。
「あんたを番に選んだのに。一番近くにいたいって思ってるのに」
シエラの視線が、零の金色の瞳と重なる。
「君が一番辛かった時、私はいなかった」
零は、角を撫でていた手を止めた。
その手を、シエラ自身が両手で包み込む。
「……ルシアは知ってたの?」
言葉には、僅かな棘があった。
番である自分より先に、ほかの誰かが零の過去を知っていたのではないか。
その不安が滲んでいる。
「いや。ルシアは知らなかった」
「……じゃあ、誰も?」
「レイラだけだ」
シエラの指先が、僅かに強張った。
「訓練中、幻術が逆流した。俺の記憶が、レイラの中へ流れ込んだんだ」
零は、シエラの瞳を見たまま続ける。
「レイラが無理に聞き出したわけじゃない。俺が、自分から話したわけでもない」
知ったきっかけに、特別な意図があったわけではない。
——ただの事故。
だが、その記憶を共有した後に零とレイラが築いたものまで、偽物になるわけではなかった。
シエラの唇が、きゅっと結ばれる。
納得はできた。
意図的に隠されていたわけではない。
それでも。
「……そっか」
声が小さかった。
「事故でも、レイラは君の過去を知ってた。私は知らなかった。それは事実でしょ」
責めているのではない。
ただ悔しいのだ。
番として、一番近くにいたい。
零の喜びだけではなく、痛みまで分け合いたい。
「……私さ」
シエラが、零の手を包んだまま続ける。
「あんたを番に選んだ時、すごく嬉しかった」
竜族にとって、番は一生に一度。
本能が選び、命が尽きるまで変わらない相手。
一生現れない個体もいる。だが、自分は——
「だから——零のこと、全部知りたい」
シエラは一度息を吸った。
「辛いことも、痛いことも。全部」
そして僅かに首を横へ振る。
「でも、今すぐじゃなくていい。無理に聞き出したいわけじゃないから」
青い瞳が、真っ直ぐに零を映す。
「零が話せる時に、聞かせて」
シエラの手は、僅かに汗ばんでいた。
これだけの言葉を口にするために、どれほど勇気を振り絞ったのか。
「もう、一人で抱えないで」
その声は震えていた。
それでも目だけは逸らさない。
「私、ここにいるから」
零は、包まれた手を見つめた。
過去には、誰も連れていけない。
どれほど願っても、一華を失ったあの日へ戻ることはできない。
「……あの時は、まだ出会ってなかった」
シエラの青い瞳が揺れる。
「過去には、誰も連れていけない。でも——今、お前はここにいる」
シエラが目を見開いた。
やがて泣きそうな顔で、小さく笑う。
「……うん」
指先へ、さらに力が込められた。
「だから、これから先は私が自分で選んで、零の隣にいる」
竜族の本能に命じられたからではない。
ツガイだから仕方なく、でもない。
シエラ自身の意思で——零の隣を選ぶ。
「……ああ」
短い返事。
だが、零の手がシエラの手を握り返した。
「っ——」
シエラの顔が、一気に赤くなる。
空色の髪の下から覗く耳まで、真っ赤に染まっていた。
「……あんたさ、そういうところ、ずるい」
小さく呟く。
それでも——手は離さなかった。
しばらくの間、二人は何も言わずに座っていた。
繋いだ手から、互いの温もりだけが伝わってくる。
やがて、シエラが俯いた。
「……私、重いかな?」
零が視線を向ける。
シエラの青い瞳には——再び、不安が滲んでいた。
番だから。
竜族だから。
一生に一度だから。
その想いが軽いはずはないことを、シエラ自身が誰よりも理解している。
まだ出会ってそこまの期間は経ってない。
零にとって、自分は復讐のための仲間の一人にすぎないかもしれない。
それなのに、全てを知りたい。
隣にいたい。
離れたくない。
そんな気持ちを、押しつけているのではないか。
「番って——君が望んだわけじゃない」
シエラの指が、零の手の甲を無意識になぞる。
「私の本能が、勝手に選んだだけで」
言葉が詰まる。
いつもなら、余裕のある笑みで誤魔化せた。
だが、今日だけはできなかった。
「君にはルシアもいる。レイラも、クオンもいる」
全員が、それぞれの形で零を大切に思っている。
「私だけを特別扱いしてほしいとか——そういうんじゃなくて」
そこまで言って、シエラは唇を結んだ。
まとまらない感情。
それでも、嘘だけはつきたくなかった。
「……でも、やっぱり誤魔化せない」
顔が赤い。
耳まで赤く染まっている。
魔王軍随一の機動力を誇る、空の支配者。
魔王直属四座の一角を担う竜族が——今は、ひどく小さく見えた。
「私、零の一番近くにいたい」
シエラが、もう一度問いかける。
「——重い?」
答えを待つ青い瞳が、不安に揺れていた。




