第四十六環 「復讐はもう、一人じゃない」
——夕方。魔王城・会議室。
全員の視線が、零へ集まっていた。
リリスの深紅。
ルシアの紅玉。
シエラの蒼。
レイラの翠。
クオンの橙。
零は席に座ったまま、一度、目を閉じた。
人界攻略のため。
あの日のことを話す。
今まで、一人で抱えてきたものを。
全て。
「……一年前。俺と妹——天津一華は、人界の王によって異世界から召喚された」
静かな声だった。
感情を押し殺しているのではない。
何度も思い返し、苦しみ、今では涙すら流せなくなった記憶を事実として語る声。
「召喚の名目は『勇者召喚』。人界の王は、魔界へ対抗するための兵器として、俺たちを呼んだ」
リリスの眉が僅かに動いた。
「召喚されたのは、俺と一華の二人。王は、俺たちには神装の適性があると言った。だが、用意されていた神装は、一つしかなかった」
零の手が、無意識に左手首へ触れた。
蛇が己の尾を喰らう腕輪。
神装《夢幻抱擁》。
「王は最初から、俺に神装を与えるつもりだった。だが——その覚醒には、条件があった」
沈黙。
全員が、零の次の言葉を待っている。
「——身近な者の死だ」
ルシアが息を呑んだ。
シエラの組んでいた腕に、僅かに力が入る。
クオンの拳が、膝の上で握られた。
レイラだけが——静かに目を伏せた。
彼女は、すでに知っている。
幻術が逆流したあの日。
零の記憶と、痛みの全てを見ていた。
「神装は、魔力とはまた違う、精神力、のようなもので起動する。そして、その強い力を扱うためには、前もってそれに見合った代償を必要とする」
零はそのまま言葉を続ける。
「王は——最初から、全て計算していた」
零の金色の瞳が開く。
その奥では、暗い炎が揺れていた。
「召喚から三日目。王は、一華を兵士たちの前へ差し出した」
声が僅かに低くなる。
「俺は鎖で拘束されていた。動くことも、目を逸らすこともできなかった」
零の指が、膝の上で僅かに震えた。
「兵士たちは、一華の尊厳を踏みにじった。——俺の目の前で」
ルシアが立ち上がりかけた。
だが、隣にいたレイラが静かに腕を掴み、首を横へ振った。
ルシアの真紅の瞳が、レイラへ向けられる。
その表情を見て理解した。
レイラは、知っていたのだ。
この先を。
零は続けた。
「一華は泣いていた。俺に助けを求めていた。それでも俺は——何もできなかった」
会議室の空気が凍りつく。
クオンの瞳が、怒りで揺れていた。
黒曜石のテーブルへ置かれた拳が白くなり、表面に細い亀裂が入る。
シエラの表情からも、普段の余裕が消えていた。
唇を強く引き結び、青い瞳に静かで深い怒りを宿している。
「そして——王が命じた」
零の声が、平坦になった。
感情が限界を超えた先にある、空虚な静けさ。
「一華を殺せ、と」
誰も言葉を発しなかった。
「一華は、最後に俺を見た」
今も、あの日の光景が焼きついている。
涙に濡れた顔。
震える唇。
それでも——兄を安心させようと浮かべた、弱々しい笑顔。
「『お兄ちゃん——』って。それが——最後の言葉だった」
長い沈黙。
「一華が死んだ瞬間、神装が覚醒した」
零の左手首にある《夢幻抱擁》が、微かな光を放つ。
「王の計画どおりだ。妹の命を代価にして——俺は、この神装を手に入れた」
光は、すぐに消えた。
「王はその後、神装《永劫支配》で俺を支配しようとした。精神への干渉。思考と感情を塗り替え、王へ絶対服従させる力」
零の唇が僅かに歪む。
笑みとも、苦痛ともつかない表情。
「——だが、効かなかった」
リリスの深紅の瞳が見開かれた。
「一華の死を目の前で見て、俺の精神は一度壊れた。そして——《夢幻抱擁》が、その欠片を繋ぎ直した」
人間として元へ戻ったわけではない。
失ったものが戻ったわけでもない。
それでも、零が零として立ち続けられる形へ、神装が精神を再構築した。
「それ以来、精神汚染も、幻術も、操作も——俺の奥までは入ってこられない」
金色の瞳が、リリスを真っ直ぐに見た。
「一度壊れ、繋ぎ直されたものは——同じ方法じゃ、二度と壊せない」
静寂。
「王は動揺していた。少なくとも——あの時の俺には、そう見えた」
零は、淡々と語り続ける。
「その隙を突いて、俺は城を逃げ出した。神装を持ったまま」
だが、本当に王の計画を破って逃げられたのか。
なぜ、厳重に警備された王城から脱出できたのか。
今になって考えれば、不自然な点はいくつもあった。
それでも当時の零には、立ち止まって考える余裕などなかった。
「それが——一年前」
零が、全員を見渡す。
「それから俺は人界を彷徨い、魔界へ辿り着いた。人界の王を——殺すために」
誰も、すぐには口を開けなかった。
やがて、リリスが立ち上がる。
深紅の瞳には、冷たく静かな怒りが燃えていた。
「——そう」
白銀の髪が、魔力を帯びた風に揺れる。
「王を殺す。そこは変わらない」
リリスの視線が、零を真っ直ぐに捉えた。
「でも——覚えておきなさい」
魔王としての威圧ではない。
一人で復讐を背負ってきた零へ向けられた、確かな意思。
「これはもう、あんた一人の復讐じゃない」
リリスが、ルシア、シエラ、レイラ、クオンを順番に見た。
反対する者は一人もいない。
「私たちの戦争よ」
零の金色の瞳が、僅かに揺れた。
復讐心が消えたわけではない。
一華を奪われた痛みも、王への憎しみも、何一つ薄れていない。
それでも——初めてだった。
自分の過去を知ったうえで。
共に戦うと、誰かに言われたのは。
◆
——夕方。魔王城・食堂。
いつもと同じ長いテーブル。
いつもと同じ席。
上座にリリス。
その周囲に四座と零。
豪勢な料理が並んでいた。
魔界の獣肉。
魚。
色鮮やかな野菜。
湯気を立てるスープ。
食欲を誘う香りが、食堂を満たしている。
だが、誰も口を開かなかった。
リリスはフォークを持ったまま、皿を見つめている。
深紅の瞳に、いつもの余裕はない。
料理を一口、二口と運び、それきり、手を止めた。
フォークが皿の縁へ触れる、小さな音だけが響く。
ルシアも、スープを一口飲んだだけだった。
真紅の瞳が、テーブルの木目へ向けられている。
(——目の前で、妹を)
自分が森で味わった恐怖。
魔法を奪われ、仲間を助けられず、死を待つしかなかった無力感。
零はそれよりもさらに残酷な形で、大切な妹を奪われた。
ルシアは唇を噛んだ。
それ以上、食事へ手を伸ばせなかった。
シエラはグラスへ手を伸ばし途中で止めた。
酒ではなく、水を選ぶ。
珍しいことだった。
一口飲み、肉を一切れだけ口へ運ぶ。
咀嚼が遅い。
普段なら絶えない軽口も、今は出てこなかった。
(あの子が笑っている時も、ふざけている時も)
青い瞳が、零の横顔を見る。
(ずっと——あの記憶を抱えたままだったんだ)
零と目が合う前に、視線を逸らした。
レイラは、紅茶のカップを両手で包んでいた。
料理には、ほとんど手をつけていない。
すでに知っていた内容だった。
それでも、全員の前で零自身の言葉として語られたことで、記憶の重さが、この場を満たす空気のように感じられた。
(……零)
紅茶へ口をつける。
温かいはずなのにひどく冷たく感じられた。
そして、クオン。
目の前に積まれた皿は、三枚。
たった三枚だった。
いつもなら十枚程度は軽く平らげる。
無言のまま肉を山のように積み上げ、次々と口へ運ぶ。
それが、普段のクオンだった。
だが今は四枚目へ手を伸ばし、途中で止めている。
薄橙色の瞳が、自分の拳を見つめていた。
会議中、テーブルの下で握った拳はまだ微かに震えていた。
(目の前で、仲間を殺された)
(それなのに——何もできなかった)
戦士にとって、最も耐え難い無力感。
クオンには、その痛みが理解できた。
肉を一切れだけ口へ運ぶ。
噛み、飲み込む。
それ以上、手は動かなかった。
沈黙が続いた。
食器が触れ合う音。
誰かが水を飲む音。
それだけが、広い食堂へ響いている。
零だけは、静かに食事を続けていた。
いつもと変わらない速度。
いつもと変わらない表情。
慣れたわけではない。
ただ、この記憶を抱えたまま生きる方法を、覚えてしまった。
だからこそ、周囲の沈黙の意味が分かった。
自分のために彼女たちが痛んでいる。
零はパンを皿へ置き、五人を見渡した。
「……食え」
全員の視線が集まる。
「冷める」
それだけ告げ、零は再び食事へ手を伸ばした。




