第四環 「魔王直属四座《クアトリア》」
「じゃあ次、私ね」
軽い声と共に、シエラが訓練場の中央へ歩き出した。
先ほどまでルシアが立っていた場所には、まだ焼け焦げた跡が残っている。
ルシアは観覧席に腰を下ろし、腕を組んだまま不機嫌そうに頬を膨らませていた。
「……言っとくけど、私が弱いわけじゃないからね」
「分かってるって」
シエラは笑いながら片手を振った。
「どう見ても相性最悪だったし」
「フォローになってない!」
真紅の瞳で睨みつけるルシアを無視し、シエラは零へ向き直った。
先ほどまでの気楽な笑顔。
だが、その奥にあるものが変わっている。
天津零はそれに気付いた。
「……やる気になったみたいだな」
「そりゃね」
シエラが小さく笑う。
「ルシアをあそこまで一方的に封じる人間なんて、初めて見たから」
空色の髪が風に揺れた。
「だから――ちょっと試したくなった」
次の瞬間。
シエラの背中から、巨大な翼が広がった。
黒に近い深い青。
表面を覆う鱗が光を反射し、その一枚一枚が鋼よりも硬質な輝きを放っている。
同時に、頭部から伸びた竜角の周囲へ青白い魔力が集まった。
「天津零」
シエラが笑う。
「空、飛べる?」
「いや」
「そっか」
翼が大きく羽ばたいた。
「じゃあ――頑張って」
爆音。
石畳が砕けた。
シエラの姿が消える。
「――ッ!」
零が咄嗟に上を見る。
遥か上空。
一瞬で数十メートルまで高度を取ったシエラが、空中で身体を翻していた。
その口元へ青白い光が集束していく。
「まず一発!」
竜炎。
人間の扱う炎魔法とは違う。
熱だけではない。
竜種そのものが内包する魔力を炎へ変換して放つ、純粋な破壊。
青白い奔流が空から降り注いだ。
零の手首で蛇が輝く。
「夢幻抱擁」
円環を描く蛇が己の尾へ噛み付いた。
襲い来る竜炎の勢いが、一気に削ぎ落とされる。
だが。
「……重い」
完全には消えない。
ルシアの炎とは違った。
弱体化してなお、腕に圧力を感じる。
零は横へ跳んだ。
直後、竜炎が石畳を抉る。
爆発。
砕けた破片が雨のように降り注いだ。
「へえ」
上空からシエラの楽しそうな声が響く。
「全部消せるわけじゃないんだ」
「お前の炎が特殊なのか?」
「さあね」
シエラが翼を傾ける。
次の瞬間には、零の右後方。
「自分で考えてよ」
魔力弾。
零が振り向きながら手をかざす。
弱体化。
魔力弾が霧散する。
だがその瞬間には、シエラはもういない。
左。
頭上。
背後。
死角から次々と攻撃が飛んでくる。
「っ……!」
零は防ぐ。
弱体化する。
時には打ち消す。
それでも反撃へ移れない。
「速いな」
「竜だからね!」
笑い声だけが聞こえる。
零は空へ向かって炎弾を放った。
夢幻抱擁によって増幅された火球。
直撃すれば、魔族であっても無傷では済まない。
だが。
「遅いよ」
シエラが翼を畳む。
急降下。
火球を紙一重で躱し、そのまま零の頭上を通過する。
風圧だけで身体が揺れた。
零は舌打ちする。
攻撃は弱体化できる。
威力も増幅できる。
だが――
当たらなければ意味がない。
観覧席でレイラが口元に笑みを浮かべた。
「苦戦してるわね」
「当然よ」
ルシアが少し嬉しそうに答えた。
「シエラは四極でも特に機動力がおかしいもの。空中戦で捕まえようなんて――」
その言葉が止まった。
零が攻撃をやめたからだ。
ただ立つ。
構えすら解いた。
「……ん?」
シエラが高度を上げる。
「諦めた?」
「いや」
零は静かに答えた。
「見てるだけだ」
「私を?」
「ああ」
何度目かの旋回。
急降下。
魔力弾。
急上昇。
左旋回。
竜炎。
零は避けるだけ。
反撃しない。
一度。
二度。
三度。
シエラの眉が僅かに動いた。
「……何してんの?」
零は答えない。
ただ金色の瞳で、空を追う。
軌道。
高度。
翼を開く角度。
攻撃前の癖。
シエラは速い。
だが、無秩序ではない。
生物である以上、必ず動きには繋がりがある。
そして。
六度目。
シエラが急降下した。
右から左へ抜ける。
その直前。
天津零は、まだ誰もいない空間へ向けて炎弾を放った。
「え?」
シエラの目が見開かれる。
自分から、その射線へ飛び込んだ。
「っ――!」
翼を強引に捻る。
火球が頬を掠めた。
空色の髪が数本、焼け落ちる。
着地。
シエラの足が石畳を滑った。
初めて。
シエラが地上へ降りた。
「……今の」
頬へ触れる。
指先に焦げた髪。
「狙った?」
「次にそこへ来ると思った」
短い答え。
シエラは零を見つめた。
そして。
「あは」
口角が上がる。
「あはははっ!」
心底楽しそうに笑った。
「やば。君、怖いね」
再び翼が広がる。
「もっとやろうよ」
だが。
「そこまで」
リリスの声が響いた。
シエラが不満そうに頬を膨らませる。
「えー」
「本気になり始めてるでしょ、あんた」
「だって面白いんだもん」
「訓練場壊したら自分で直しなさいよ」
「やめときまーす」
あっさり翼を畳み、シエラが零へ歩み寄る。
すれ違いざま。
小さな声で囁いた。
「次は空、飛べるようになってからやろうね」
「考えておく」
「絶対だから」
シエラは満足そうに笑いながら観覧席へ戻った。
入れ替わるように。
「さて――次は私ね」
レイラがゆっくりと訓練場へ歩み出た。
黒いローブの裾が石畳を撫でる。
構えは取らない。
武器も持たない。
ただ、いつもの妖艶な笑みを浮かべているだけだった。
零は僅かに眉を寄せる。
「武器は?」
「必要ないわ」
レイラは翠色の瞳を細めた。
「あなたの神装、厄介なのよね。相手の力を弱めて、自分の力を強める」
「よく見てるな」
「当然でしょう?」
くすりと笑う。
「だから――私は、あなたが弱くできないもので戦うわ」
その瞬間。
零の視界が歪んだ。
「――っ」
石畳が消える。
訓練場が消える。
シエラも。
ルシアも。
クオンも。
そして、魔王城さえも。
残されたのは――完全な闇。
零は反射的に右腕を上げる。
「夢幻抱擁」
蛇が己の尾へ噛み付く。
紫色の光が闇を照らした。
だが。
何も変わらない。
「無駄よ」
声。
右側。
零が振り向く。
誰もいない。
「これは炎でも、雷でもない」
今度は背後。
「あなたの身体を傷つけるものですらない」
左。
「あなたの中へ入るの」
零は目を細める。
「幻術か」
「正解」
耳元。
吐息すら感じる距離から、レイラの声が響いた。
零が振り返った瞬間。
闇が砕けた。
景色が変わる。
白亜の床。
巨大な玉座。
人界の紋章。
零の呼吸が止まった。
「……」
知っている。
忘れるはずがない。
あの日。
妹が殺された。
あの場所。
「お兄ちゃん」
声。
零の身体が僅かに震える。
前を見る。
黒髪の少女が立っていた。
一華。
生前と変わらない姿。
「……一華」
妹が微笑む。
零の金色の瞳が揺れた。
一歩。
無意識に足が動く。
だが。
途中で止まった。
「お兄ちゃん」
一華がもう一度呼ぶ。
「助けて」
その身体に血が滲み始める。
衣服が裂ける。
首筋に赤い傷。
顔が恐怖に歪んでいく。
「助けてよ」
兵士たちが現れる。
笑い声。
剣。
あの日と同じ光景。
零の手が震えた。
呼吸が浅くなる。
「お兄ちゃんが弱かったから」
妹が泣く。
「私、死んだんだよ?」
零は何も答えない。
「どうして助けてくれなかったの?」
拳が強く握られる。
爪が掌へ食い込む。
「怖かった」
一華が近づく。
「痛かった」
さらに一歩。
「ずっと待ってたのに」
目の前。
「お兄ちゃんなら助けてくれるって、信じてたのに」
零の唇が震えた。
そして。
「……違う」
小さく呟いた。
幻の一華が動きを止める。
「何が?」
「お前は、一華じゃない」
妹の顔が歪む。
「……ひどいな。私のこと忘れたの?」
「忘れるわけないだろ」
零が顔を上げる。
その瞳には苦痛がある。
怒りがある。
悲しみも。
だが――迷いはない。
「だから分かる」
一歩。
零の方から妹へ近づいた。
「一華は、そんな目で俺を見ない」
「……」
「俺を恨んでたとしても、憎んでたとしても」
零は幻の妹を真っ直ぐ見る。
「最後に俺が見た一華の顔は、それじゃない」
あの日。
震えていた。
泣いていた。
それでも。
最後に一華は笑った。
自分よりも。
助けられない兄を安心させるように。
「俺は忘れない」
幻の一華が一瞬、揺らぐ。
だが。
次の瞬間。
表情が変わった。
憎悪。
「大嫌い」
零の瞳が僅かに見開かれる。
「お兄ちゃんなんて、大嫌い」
声が増える。
四方八方。
「弱いくせに」
「守るなんて言って」
「嘘つき」
「お前のせいで死んだ」
「お前が殺した」
零の頭の中へ、直接言葉が流れ込んでくる。
記憶が揺れる。
妹の最後の笑顔。
そこへ黒い靄がかかる。
笑顔が――憎悪へ変わろうとする。
零の顔から表情が消えた。
「……なるほど」
レイラの声が闇の奥から響く。
「記憶そのものを塗り替えれば、さすがのあなたでも――」
「無理だ」
即答だった。
レイラの声が止まる。
「……何?」
零の記憶の中。
泣き笑いを浮かべる一華。
その表情へ、何度も違う感情が上書きされようとする。
怒り。
憎しみ。
軽蔑。
恐怖。
しかし。
一つも定着しない。
まるで異物を排除するように。
元の記憶へ戻っていく。
「……どうして」
初めて。
レイラの声から余裕が消えた。
「何で書き換わらないの?」
零は自分の頭へ指を当てた。
「ここは俺のものだ」
短い言葉。
それだけ。
「見せられるのは構わない」
零の周囲に、無数の一華が現れる。
「思い出させるのも」
血。
悲鳴。
あの日。
「痛いものは痛い」
零の身体は震えている。
額には汗。
呼吸も乱れている。
「吐きそうなくらい、今でも苦しい」
それでも。
金色の瞳だけは揺らがない。
「けど」
一歩。
幻の中を進む。
「俺が何を思うか」
もう一歩。
「何を信じるか」
さらに一歩。
「俺が誰なのか」
零の身体から魔力が滲み出す。
「それを決めるのは――俺だ」
その瞬間。
世界が軋んだ。
幻術が。
零の精神へ食い込もうとした何かが。
弾かれる。
「――っ!」
レイラの息を呑む声。
闇に亀裂が走った。
一華が消える。
玉座が消える。
兵士たちが消える。
そして。
訓練場へ戻った。
零はその場に立っていた。
息は荒い。
拳から血が滲んでいる。
それでも倒れていない。
対するレイラは。
数メートル先で。
目を見開いていた。
笑っていない。
「……何、あなた」
零が荒い呼吸を整える。
「人間だけど」
「そういう意味じゃないわよ」
レイラの翠色の瞳が、初めて警戒を宿す。
「精神干渉そのものを押し返した?」
「さあな」
「記憶の改竄も」
レイラが一歩近づく。
「認識の誘導も」
さらに一歩。
「全部、途中で拒絶された」
零は黙る。
レイラはその顔を覗き込んだ。
「普通じゃない」
「よく言われる」
「誰に?」
その問いに。
零が一瞬だけ沈黙した。
ほんの僅か。
頭の奥に痛みが走る。
人界。
王城。
冷たい声。
命令。
頭の中へ入り込んでくる何か。
――従え。
――余に忠誠を誓え。
――お前は人界の剣だ。
零の眉間に皺が寄る。
「……昔、似たようなことをされた」
レイラの表情が変わった。
「似たようなこと?」
「俺の頭を弄ろうとした奴がいた」
「……成功したの?」
零はレイラを見る。
「今の俺を見て、そう思うか?」
沈黙。
レイラは数秒、零を見つめ続けた。
やがて。
「……ふふ」
ようやく。
いつもの笑みが戻る。
ただし。
先ほどまでとは違う。
獲物を見るような笑みではない。
純粋な興味。
「面白い」
レイラが呟く。
「力が強いんじゃない」
一歩離れる。
「あなた自身が、異常なのね」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてないわよ」
「そうか」
「でも――」
レイラが指を鳴らした。
その瞬間。
零の身体が動かなくなった。
「……っ?」
足元。
零自身の影から黒い鎖が伸びていた。
両足。
腕。
胴体。
一瞬で拘束される。
レイラが目の前まで歩み寄る。
そして。
小さなナイフを零の喉元へ添えた。
「精神で勝てないなら」
刃先がが皮膚へ僅かに食い込む。
「普通に捕まえればいいだけでしょう?」
「……なるほど」
「幻術に集中しすぎたわね」
零は鎖を見る。
「これは?」
「影魔法」
「弱体化できるな」
「できるでしょうね」
レイラが微笑む。
「でも、気付いた時には遅い」
刃先がが喉をなぞる。
「今が実戦なら、あなたの首はもうないわ」
数秒。
零は抵抗をやめた。
「……参った」
レイラが満足そうに笑う。
「素直でよろしい」
黒い鎖が霧のように消えていく。気づくと手元からナイフも消えている。
観覧席からシエラが声を上げた。
「いやいやいや、最後それアリ!?」
「何が?」
「精神攻撃効かなかったから普通に拘束って!」
「勝てばいいのよ」
「性格悪っ!」
「ありがとう」
「褒めてないって!」
ルシアは腕を組んだまま零を見ていた。
「……でも」
小さく呟く。
「今の、ちょっとおかしかったわよね」
レイラが振り返る。
「ええ」
翠色の瞳が再び零を見る。
「普通なら、幻覚を見せるだけでも多少は認識が曖昧になる」
零は拳を開く。
掌には、爪が食い込んだ傷。
「でもこの人――」
レイラの笑みが僅かに深くなる。
「自分と、それ以外との境界が異常なくらい明確なのよ」
「……?」
シエラが首を傾げる。
レイラは答えなかった。
零を見る。
その金色の瞳。
揺さぶられた。
傷付いた。
苦しんだ。
それでも。
最後まで。
一度たりとも。
自分自身を見失わなかった。
「天津零」
「何だ」
「もう一度聞くけど、あなた」
少しだけ間を置く。
「本当に人間?」
零が眉を寄せる。
「たぶんな」
「ふふっ」
レイラは楽しそうに笑いながら、訓練場の端へ戻っていった。
「ますます興味が湧いたわ」
すれ違いざま。
零にだけ聞こえる声で囁く。
「その壊れない自我――いつ、誰に作られたのかしらね」
零は振り返らなかった。
ただ。
無意識に。
右手を強く握り締めていた。
そして。
「次」
低い声。
零が前を見る。
巨大な戦斧を肩に担ぎ。
クオンが立っていた。
「私だ」




