第四十四環 「同じ空を飛ぶ」
——午前。魔王城・研究棟。
食堂を出た零は、真っ直ぐに研究棟へ向かった。
魔王城の東翼。
薄暗い廊下の奥に設けられた、魔獣の残骸や回収された魔道具を分析するための施設。
昨日の森で殲滅した異形。
あの不自然な植物型魔物の残骸も、ここへ運び込まれているはずだった。
零の腕には当然のようにシエラが絡みついている。
「研究棟? 珍しいところに行くね」
空色の髪が、零の肩へ触れていた。
腕に絡めた手を離す気配はない。
「昨日の魔物を確認したい。あの瘴気——俺の知っている力に似ていた」
「……ああ、あれね」
シエラの表情が僅かに変わった。
余裕のある笑みが消え、真剣なものになる。
「回収された記録結晶の映像なら、私も見たよ。戦闘に関係する部分だけだけど」
調査隊が携行していた記録結晶。
通信魔法は妨害されていたが、内部への記録は残っていた。
回収後、リリスとレイラが内容を確認し、ルシアの尊厳に関わる部分を除いて四座へ共有していた。
「見たのか」
「うん。あんたが異形を斬ったところと、激怒したところも」
シエラの手が、零の腕を少しだけ強く握った。
「あんたが怒った理由、何となく分かった。あれ、普通の魔物じゃないんでしょ」
「ああ。あの瘴気は、人界の王の神装が放っていたものに限りなく近い」
零の足が止まる。
「ただ、完全に同じじゃない。別の何かが混ざってる」
廊下に沈黙が落ちた。
シエラが零の横顔を見上げる。
金色の瞳には、今も暗い炎が宿っていた。
妹を奪われた時と同じ怒り。
「……なるほど。だから、あんなに」
「あの魔物は自然発生じゃない。誰かが造った可能性が高い」
零は再び歩き始める。
「人界の王が関わっているのか。それとも、同じ力を持つ別の何かがいるのか。それはまだ分からない」
シエラは腕を絡めたまま、黙って隣を歩いた。
◆
ーー研究棟・解析室。
重い扉を開けると、冷気が流れ出した。
魔力によって低温に保たれた室内。
中央の台には、異形の残骸が並べられていた。
蔓の断片。
黒い粘液を封じた瓶。
核と思われる、紫色の球体の欠片。
研究員の魔族が振り返る。
シエラと零の姿を認め、慌てて頭を下げた。
「シ、シエラ様! それに、零殿」
「気にしないで。この子が調べたいことがあるんだって」
零は台へ近づき、残骸を見下ろした。
金色の瞳が細められる。
瘴気は薄れている。
それでも確かに残っていた。
零が指先を近づける。
左腕を覆う神装《夢幻抱擁》が、微かに脈動した。
共鳴。
——いや、違う。
拒絶している。
互いの存在を許さないかのような、強い反発。
「……似ている。だが、完全に同じじゃない」
残骸の奥に、人界の王が操っていた魔力と酷似した痕跡がある。
その上へより濁った、異質な力が絡みついていた。
「王の力に、別の何かが混ざってる」
シエラが零の背後から覗き込む。
「別の何かって?」
「分からない。ただ——《夢幻抱擁》は、王の力そのものより強く拒絶してる」
人界の王よりも、さらに根源的な敵。
そんな考えが、零の脳裏を過った。
◆
——午前。魔王城・訓練場。
研究棟を出た零は、そのまま訓練場へ向かった。
シエラが腕を離したのは、訓練場の入り口へ着いた時だった。
名残惜しそうに指を滑らせ、それでも、にっと笑う。
「じゃあ、クオンの後でね。飛行訓練、待ってるから」
指先が零の手の甲を最後に撫で、離れていった。
訓練場。
クオンは、すでに中央へ立っていた。
巨大な戦斧を肩へ担いでいる。
薄橙色の瞳が零を捉えた瞬間、僅かに口角が上がった。
「遅い」
「すまない。研究棟へ寄ってた」
「……そうか」
クオンの視線が、零の全身を確認するように走る。
昨日、記録結晶に残された戦闘。
異形を一匹残らず殲滅した零。
怒りに染まった、金色の瞳。
——あれは、戦士の目だった。
「始めるぞ」
戦斧が地面を叩く。
衝撃波が砂塵を巻き上げた。
挨拶代わりの一撃。
神装《夢幻抱擁》が起動する。
零は瞬時に双剣を生成し、真横へ跳んだ。
「——っ!」
二撃目。
昨日までより重く、速い。
クオンが、訓練の段階を上げている。
戦斧が空気を切り裂き、零の黒髪を数本散らした。
「昨日の映像を見た」
三撃目。
零は双剣を槍へ切り替えた。
《夢幻抱擁》の力をクオンへ接続し、その膂力を一瞬だけ「一」へ近づける。
それでも完全には殺しきれない衝撃を、槍の柄で辛うじて受け流した。
「お前、強くなった。だから——」
四撃目。
地面が陥没する。
零は後方へ跳びながら槍を投げ、同時に短剣を生成して距離を詰めた。
「——こっちも上げる」
クオンの薄橙色の瞳が、獰猛に輝いている。
目の前の戦士が成長していくことを心から喜んでいた。
零の短剣がクオンの脇腹へ迫る。
クオンは片手で弾いた。
しかし、その瞬間には零の武器が切り替わっている。
鎖付き鉄球。
鎖がクオンの足へ絡みついた。
「——!」
一瞬の拘束。
零が跳躍し、上方から大剣を振り下ろす。
クオンは笑った。
鎖を力任せに引きちぎる。
戦斧で大剣を受け止めた。
金属が軋み、火花が散る。
「いい。お前の戦い方、好きだ」
零は着地し、距離を取った。
呼吸が荒い。
それでも立っている。
以前なら、三撃を受ける前に地へ伏していた。
今は、クオンを相手に戦いの形を作れている。
クオンが戦斧を下ろす。
褐色の肌には、薄く汗が浮かんでいた。
左目の下に刻まれた赤い紋様が、戦闘の熱を受けて微かに光っている。
「十分だ。成長が速い」
クオンが満足そうに頷く。
「……明日は、もう少し上げる。覚悟しろ」
その声はどこか嬉しそうだった。
訓練場の端では、シエラが待っていた。
壁へ背を預け、腕を組んでいる。
青い瞳が零を捉えた瞬間、ふわりと笑った。
「お疲れ。クオンを相手に、立っていられるようになったね」
「——まだまだだ」
「謙遜しちゃって。じゃあ、次は私の番」
◆
——昼前。魔王城上空。
零の背中に、魔力で構築された翼が広がっていた。
神装《夢幻抱擁》による精密な魔力制御。
シエラの飛行技術を模倣し、今では安定した飛行が可能になっている。
シエラが横へ並んだ。
黒い竜翼が風を切る。
「いいね。旋回も安定してる。——ついてきて」
シエラが急降下する。
零も即座に追従した。
地面すれすれで身体を引き起こし、再び上昇する。
以前のような危うさはない。
さらに零は、前方へ一本の短剣を射出した。
飛翔する短剣へ神装の力を接続する。
《武装転移》。
空間が歪み、零の身体が短剣の位置へ移動した。
翼による上昇から転移を組み合わせ、一瞬でシエラの前へ出る。
「……へえ」
シエラの青い瞳が、楽しそうに輝いた。
竜翼を大きく広げ、一気に加速する。
零も武器の射出と転移を繰り返し、追いすがった。
飛行と転移。
二つの機動力が、少しずつ一つの戦闘技術へ変わっていく。
「……うん。合格」
◆
——正午前。魔王城・回廊。
飛行訓練を終え、二人は並んで城内の廊下を歩いていた。
零の腕には当然のようにシエラが絡みついている。
「本当に飛ぶの、上手くなったよね。最初は墜落しかけてたのに」
「……あれは、お前が急に加速したからだろ」
「えー、あれくらいで? 竜族の基準なら散歩程度なんだけど」
シエラが、くすくすと笑う。
その指先が、訓練で僅かに汗ばんだ零の腕を撫でた。
「でも、嬉しいんだよね」
軽かった声に、確かな感情が混ざる。
「私と同じ空を飛べる人なんて、今までいなかったから」
番として選んだ相手と、同じ空を駆ける。
空を愛する竜族にとって、それは何よりも特別なことだった。
中庭へ続く回廊が見えてくる。
シエラの足が、不意に止まった。
「あ。レイラの時間か」
アーチ状の門の向こう。
くすんだ金髪が、風に揺れていた。
シエラは零の腕を、名残惜しそうに離した。
「本当は、まだ独り占めしたいけど——約束を破ったら、レイラが怖いからね」
指先が、最後に零の手の甲を滑る。
「じゃあ、ここまで。夜はまた角、お願いね」
耳元で囁き、ウインクを一つ。
空色の髪を翻し、廊下の向こうへ消えていった。
◆
——正午前。魔王城・中庭。
黒い薔薇と紫色の花が咲き誇る庭園。
中央には、小さな泉がある。
石造りのベンチに、レイラが座っていた。
長い耳。
くすんだ金髪。
本を閉じた緑色の瞳が零を見る。
かつてはリリスだけに見せていた、仮面のない静かな笑み。
今では、零の前でも自然に浮かべるようになっていた。
「……来たね、零」
零が歩み寄る。
レイラの視線が、全身を確認するように動いた。
クオンとの訓練で増えた小さな傷。
汗の匂い。
そして、僅かに残った、複数の女性の香り。
「……いろんな匂いがするね」
レイラが、意味ありげに目を細める。
「まあ、どれについて聞くかは——後で決めようか」
ベンチの隣を、軽く叩いた。
「今は私の時間でしょ。座って、零」
穏やかな声。
だが、緑色の瞳は零が隠しているものまで、全て見抜こうとしていた。




