第四十三環 「君が眠れる夜」
ーー魔獣の森・深部。
クオンが駆け出した。
地面が砕ける。踏み込んだ一歩だけで衝撃波が広がり、周囲の木々が軋む。
蹂躙。
そう呼ぶに相応しい光景だった。
森の奥から、異形の魔物たちが次々と這い出してくる。
ルシアの膨大な魔力に引き寄せられていた個体。零が斬り伏せたもの以外にも、まだ数十体が森の中へ潜んでいた。
最初の一体が蔓を伸ばす。
無数の棘を生やした蔓が、クオンの腕へ巻きついた。
ぎちぎちと音を立て、その肌へ食い込もうとする。
だが——傷一つつかない。
鬼族の強靭な肉体。
その膂力と耐久力は、人間の限界を遥かに超えている。
クオンは蔓を掴んだ。
力を込める。
硬質な蔓が、骨でも砕けたかのような音を立てて潰れた。紫色の体液が飛び散る。
「——弱い」
薄橙色の瞳には、怒りが宿っていた。
普段の寡黙な落ち着きも、食事を前にした時の無防備さもない。
今のクオンは——ただ一人の戦士だった。
巨大な戦斧が振り下ろされる。
一撃。
地面ごと、三体の異形が原形を留めずに潰れた。
土が抉れ、巨大な窪みが生まれる。木の根が千切れ、破片となって宙を舞った。
次。
左側から、五本の蔓が同時に迫った。
手足を拘束しようとする動き。
ルシアへしたように。
クオンの目が、鋭く細められた。
「——ッ!」
五本の蔓を、まとめて左手で掴む。
そのまま力任せに引いた。
蔓の先につながっていた三体の異形が地面から引き剥がされ、宙を舞う。
クオンはそれらを、別方向から接近してきた群れへ叩きつけた。
異形同士が衝突し、花弁状の口と蔓がまとめて潰れる。
さらに戦斧を横薙ぎに振るった。
巻き込まれた魔物たちが、上下二つに切断された。
「次」
一言。
クオンは足を止めない。
走る必要すらなかった。
ただ歩きながら、迫る異形を一体ずつ確実に潰していく。
正面から飛びかかってきた寄生体を、戦斧の腹で殴り飛ばす。
生じた風圧だけで、後方の小型個体が砕け散った。
逃げ出す個体もいた。
蔓を縮め、地中へ潜ろうとしている。
クオンは戦斧を逆手へ持ち替え、地面へ突き刺した。
轟音。
半径十メートルにわたって地面が隆起し、内側から爆ぜた。
土の中へ逃げ込んでいた異形が、土砂とともに放り出される。
クオンは、一体ずつ踏み潰していった。
ぐちゃり。
ぐちゃり。
鈍い音が、静かな森に響く。
「……ルシアに、何をした」
誰へ向けたわけでもない呟き。
それでも、声には隠しきれない怒りが滲んでいた。
「仲間を——あんな目に遭わせて」
瞳が燃える。
「逃げられると思うな」
最後の一体が、木の上へ逃げていた。
クオンの視線が、その姿を捉える。
戦斧を振りかぶり、投げた。
回転する巨大な刃が空気を切り裂く。
木の幹ごと、隠れていた異形を真っ二つにした。
木が倒れる。
砕けた枝と紫色の体液が、雨のように降り注いだ。
静寂。
クオンは戦斧を回収し、肩へ担いだ。
息一つ乱れていない。
周囲には、異形の残骸だけが散らばっていた。
一匹残らず。
「——クオン様!」
後方を捜索していた魔族兵から声が上がった。
クオンが振り返る。
巨大な木の根元。
太い蔓で作られた繭の中から、二人の魔術師が発見されていた。
全身を黒い粘液に汚され、意識を失っている。
それでも、胸は微かに上下していた。
生きている。
「治療班へ運べ」
「はっ!」
魔族兵たちが、二人を慎重に繭から引き出していく。
クオンはその様子を見届けてから、一度だけ零たちのいる方角を見た。
木々の隙間から、零の姿が見える。
その腕の中には、黒い外套に包まれたルシアがいた。
震えはすでに収まり始めているようだった。
「…………」
クオンの胸の奥が、僅かに軋んだ。
傷など負っていない。
異形の攻撃を受けてもいない。
それなのに胸の内側に、小さな痛みがある。
その理由だけが、分からなかった。
いや。
今はまだ、分かりたくなかった。
クオンは零から視線を逸らすと、戦斧にこびりついた紫色の体液を振り払った。
「……掃討完了だ」
リリスの方へ歩き出す。
背筋を伸ばして。
魔王直属四座として。
仲間を守る戦士として。
それ以外の感情は今は必要ない。
だが、その瞳が一瞬だけ揺れたことに、クオン自身は気づいていなかった。
◆
——午後。魔王城・医務室。
白い天井。
清潔な寝台。
治癒魔法の淡い緑色の光が、部屋全体を柔らかく照らしていた。
ルシアは寝台の上に横たわっている。
治癒班の魔族二人がかりで、左腕の裂傷を塞いでいた。
身体に残った蔓の痕。
首の絞め痕。
逃走中に負った擦過傷。
一つずつ、丁寧に治療されていく。
身体の傷は癒えていく。
だが、ルシアの真紅の瞳は、天井を見つめたまま動かなかった。
視線は虚ろだった。
身体は治癒魔法で元へ戻せても、傷ついた心まですぐに治すことはできない。
零は、寝台の横へ椅子を引き寄せて座っていた。
ルシアのすぐ傍に。
治療のため、一度外されていた黒い外套。
処置が終わった箇所から、零の温もりが残る布が再びルシアの身体へ掛けられていく。
やがて、治癒班の一人が零へ目配せした。
「……外傷の処置は終わりました。魔力枯渇による衰弱が残っていますので、今日は安静にしてください」
「——分かった。ありがとう」
治癒班が一礼して退室する。
扉が閉まった。
静寂。
二人きりになった。
ルシアはまだ、天井を見つめていた。
瞬きすら少ない。
しばらく、時間だけが過ぎていく。
やがて、その唇が、僅かに動いた。
「……みんな、朝は笑ってたの」
掠れた声。
「何も知らないで……いつもと同じように、行ってきますって」
ルシアの拳がシーツを掴む。
指先が白くなるほど、強く。
「それなのに……目の前で、あいつらに——」
声が震えた。
途中で言葉を失う。
「……私が最強の魔導師だっていうなら」
真紅の瞳は、今も天井へ向けられていた。
「どうして……守れなかったのよ」
涙は出なかった。
すでに、森で流し尽くしていた。
零は黙って聞いていた。
何も遮らず。
何も否定せず。
ルシアの痛みを、安易な慰めの言葉で消そうともしなかった。
ただ、ルシアの手の傍へ、自分の手を置いた。
触れるか、触れないか。
その程度の距離に。
ルシアの視線が、初めて天井から外れた。
すぐ傍にある零の手を見る。
やがて、真紅の瞳が金色の瞳と重なった。
ルシアの唇が震える。
何かを言おうとして。
それでも言葉にできなくて。
代わりに自分から零の手へ触れた。
指先だけで。
おずおずと、確かめるように。
温かい。
森で抱きしめられた時と、同じ温度。
「……いて」
小さな声。
「……今日だけでいいから。ここに、いて」
零の手が、ルシアの手をそっと握り返した。
「——どこにも行かない」
ルシアの瞳が、僅かに潤んだ。
それでも今度の涙は、恐怖から流れたものではなかった。
握り返された手の温もりを確かめるように、指へ力を込める。
離さないように。
窓の外では、夕日が魔界の空を赤く染め始めていた。
安心と疲労が、ようやくルシアの身体を眠りへ引き込んでいく。
瞼が少しずつ重くなる。
穏やかな寝息が聞こえ始めても、零は、その手を離さなかった。
◆
——夜。魔王城・医務室。
医務室を照らしていた燭台の火が、静かに揺れている。
ルシアの瞼が、ゆっくりと開いた。
傍らには、変わらず零がいた。
椅子へ座り、寝台へ身を預けるように眠っている。
手は今も繋がったまま。
「……本当に、ずっといたのね」
零が、その声に目を覚ました。
「起きたのか。身体は?」
「……大丈夫。少し怠いけど」
ルシアが、繋いだ手を見つめる。
長い沈黙。
やがて指先へ、僅かに力が込められた。
「零」
「どうした?」
「……もう少し、近くに来て」
零は椅子から立ち上がり、寝台の傍へ腰を下ろした。
ルシアが身を起こす。
黒い外套が、肩から僅かに滑り落ちた。
二人の距離が近づく。
「昨日のことを忘れたいからじゃない」
ルシアが、先に告げた。
真紅の瞳は揺れていた。
それでも、零から目を逸らさなかった。
「怖かった記憶を、何かで上書きしたいわけでもない。あれは消えないし……消しちゃいけないと思う」
亡くなった部下たちのこと。
自分の無力さ。
逃げるしかなかった悔しさ。
それらを忘れればいいとは、ルシア自身が思っていなかった。
「でも——」
ルシアの指が、零の服を掴んだ。
「ずっと前から、あんたに触れてほしいって思ってた」
頬が赤く染まる。
「先生って呼ばれた時も。訓練するのが楽しいって言われた時も。私たちを守ろうとしてくれた時も」
震えながら、それでも言葉を続ける。
「昨日、弱ってたから決めたんじゃない。私は——私の意思で、あんたを選びたい」
零は、すぐには答えなかった。
ルシアの瞳を、真っ直ぐに見つめる。
「今じゃなくてもいい」
零は確認するように、穏やかに告げた。
「俺はここにいる。だから、急がなくていい」
ルシアは一度目を閉じた。
自分の心に確認するように。
そして首を横に振り、再び開く。
真紅の瞳には、確かな意思が宿っていた。
「急いでるんじゃない」
ルシアが零の頬へ触れる。
「今がいいの。零と一緒に、この夜の続きを迎えたい」
零の手が、ルシアの頬へ重なった。
二人の額が触れる。
やがて、唇が静かに重なった。
燭台の火が揺れる。
窓から吹き込んだ夜風が、白いカーテンを膨らませた。
ルシアの指が、零の手を強く握る。
二人を照らしていた最後の炎が静かに消えた。
◆
——朝。魔王城・医務室。
窓から、淡い紫色の朝日が差し込んでいた。
先に目を覚ましたのは、零だった。
腕の中にはルシアがいる。
赤みがかったダークレッドの髪が、零の胸元へ広がっていた。
昨日の恐怖は、まだ消えていない。
それでも今は零の腕の中で、穏やかな寝息を立てていた。
ルシアの瞼が震える。
真紅の瞳が開いた。
「……あ」
至近距離で、目が合った。
昨夜のことが蘇ったのだろう。
ルシアの顔が、耳まで赤くなった。
「……お、おはよ」
「おはよう。身体の調子は?」
「……まだ、少し怠い。でも——大丈夫」
ルシアが小さく微笑む。
「昨日よりは、ずっと」
恐怖の記憶が消えたわけではない。
それでも真紅の瞳には前へ進もうとする、確かな強さが戻り始めていた。
二人は医務室に備えられた簡易浴室で、それぞれ身体を清めた。
ルシアは一度自室へ戻り、予備の黒い魔導服とマントへ着替える。
ツインテールを結び直す手つきに、もう迷いはなかった。
「……行くわよ。お腹減ったし」
「——ああ」
二人は並んで、食堂へ向かった。
◆
——朝。魔王城・食堂。
扉を開けた瞬間、室内の視線が集まった。
リリスは、すでに上座へ腰掛けていた。
深紅の瞳がルシアを捉え、僅かに細められる。
「ルシア」
「——おはようございます、リリス様」
「……顔色は、昨日よりマシね」
そう言いながら、リリスの視線はルシアの全身を確認していた。
歩き方。
表情。
声の張り。
まだ無理をしていないか、魔王なりの方法で確かめている。
「ちゃんと食べなさい。魔力の回復には栄養が必要よ」
「……はい」
ルシアが少しだけ笑った。
リリスの不器用な優しさが、嬉しかった。
零とルシアが並んで席へ着く。
二人の距離は以前よりも近い。
肩が触れそうなほど。
だが、ルシアに前のような照れがない。
シエラは、その変化を見逃さなかった。
空色の髪を揺らし、零の反対側へ滑り込む。
肘をテーブルへつき、零の方へ身体を傾けた。
「ねえ、零」
「どうした?」
「昨日、私の時間なかったよね」
青い瞳が零を見上げる。
僅かに唇を尖らせていた。
「ルシアの救出だったんだから、仕方ないのは分かってる。でも——約束は約束でしょ?」
シエラの手が、零の腕へ触れる。
自然に。
当たり前のように。
「今日の午前中は、私が独り占めしてもいい?」
にっこりと笑う。
その笑顔の奥には、番を求める竜の本能が、確かに覗いていた。
ルシアの真紅の瞳が、シエラの手へ向けられる。
次に零を見た。
だが、いつものように怒鳴ることはなかった。
小さく鼻を鳴らしただけだった。
「……ふん。好きにすれば」
スープを掬いながら、余裕のある横顔を見せる。
シエラが目を丸くした。
「……え? 怒らないの? いつもなら『離れなさいよ!』って言うのに」
ルシアが、ちらりと零を見る。
一瞬だけ目が合い、すぐに逸らした。
「別に。あんたが何をしようと——私は私よ」
零は、弱さも涙も全て受け止めてくれた。
二人の間に生まれたものを、ほかの誰かと比べる必要はない。
その確信が、今のルシアへ小さな余裕を与えていた。
シエラは数秒間きょとんとした後、にやりと笑う。
「へえ……何かあった? 随分、余裕じゃん」
「何もないわよ。バカじゃないの」
「ふーん。まあ、いいけど。じゃあ遠慮なく」
シエラが、零の腕へ自分の腕を絡める。
その直後、ルシアへ視線を向けた。
いつもの強気な表情。
まだ僅かに悪い顔色。
それでも、昨日より確かに力を取り戻している。
シエラの青い瞳へ、一瞬だけ安堵が滲んだ。
リリスは、カップ越しにその光景を眺めていた。
(——まだ無理はさせられない)
ルシアがシエラと言い合える程度には戻った。
その事実に、深紅の瞳が僅かに和らぐ。
(でも——あんな顔ができるくらいには、戻ったのね)




