↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/117

第四十三環 「君が眠れる夜」

ーー魔獣の森・深部。


クオンが駆け出した。


地面が砕ける。踏み込んだ一歩だけで衝撃波が広がり、周囲の木々が軋む。


蹂躙。


そう呼ぶに相応しい光景だった。


森の奥から、異形の魔物たちが次々と這い出してくる。


ルシアの膨大な魔力に引き寄せられていた個体。零が斬り伏せたもの以外にも、まだ数十体が森の中へ潜んでいた。


最初の一体が蔓を伸ばす。


無数の棘を生やした蔓が、クオンの腕へ巻きついた。


ぎちぎちと音を立て、その肌へ食い込もうとする。


だが——傷一つつかない。


鬼族の強靭な肉体。


その膂力と耐久力は、人間の限界を遥かに超えている。


クオンは蔓を掴んだ。


力を込める。


硬質な蔓が、骨でも砕けたかのような音を立てて潰れた。紫色の体液が飛び散る。


「——弱い」


薄橙色の瞳には、怒りが宿っていた。


普段の寡黙な落ち着きも、食事を前にした時の無防備さもない。


今のクオンは——ただ一人の戦士だった。


巨大な戦斧が振り下ろされる。


一撃。


地面ごと、三体の異形が原形を留めずに潰れた。


土が抉れ、巨大な窪みが生まれる。木の根が千切れ、破片となって宙を舞った。


次。


左側から、五本の蔓が同時に迫った。


手足を拘束しようとする動き。


ルシアへしたように。


クオンの目が、鋭く細められた。


「——ッ!」


五本の蔓を、まとめて左手で掴む。


そのまま力任せに引いた。


蔓の先につながっていた三体の異形が地面から引き剥がされ、宙を舞う。


クオンはそれらを、別方向から接近してきた群れへ叩きつけた。


異形同士が衝突し、花弁状の口と蔓がまとめて潰れる。


さらに戦斧を横薙ぎに振るった。


巻き込まれた魔物たちが、上下二つに切断された。


「次」


一言。


クオンは足を止めない。


走る必要すらなかった。


ただ歩きながら、迫る異形を一体ずつ確実に潰していく。


正面から飛びかかってきた寄生体を、戦斧の腹で殴り飛ばす。


生じた風圧だけで、後方の小型個体が砕け散った。


逃げ出す個体もいた。


蔓を縮め、地中へ潜ろうとしている。


クオンは戦斧を逆手へ持ち替え、地面へ突き刺した。


轟音。


半径十メートルにわたって地面が隆起し、内側から爆ぜた。


土の中へ逃げ込んでいた異形が、土砂とともに放り出される。


クオンは、一体ずつ踏み潰していった。


ぐちゃり。


ぐちゃり。


鈍い音が、静かな森に響く。


「……ルシアに、何をした」


誰へ向けたわけでもない呟き。


それでも、声には隠しきれない怒りが滲んでいた。


「仲間を——あんな目に遭わせて」


瞳が燃える。


「逃げられると思うな」


最後の一体が、木の上へ逃げていた。


クオンの視線が、その姿を捉える。


戦斧を振りかぶり、投げた。


回転する巨大な刃が空気を切り裂く。


木の幹ごと、隠れていた異形を真っ二つにした。


木が倒れる。


砕けた枝と紫色の体液が、雨のように降り注いだ。


静寂。


クオンは戦斧を回収し、肩へ担いだ。


息一つ乱れていない。


周囲には、異形の残骸だけが散らばっていた。


一匹残らず。


「——クオン様!」


後方を捜索していた魔族兵から声が上がった。


クオンが振り返る。


巨大な木の根元。


太い蔓で作られた繭の中から、二人の魔術師が発見されていた。


全身を黒い粘液に汚され、意識を失っている。


それでも、胸は微かに上下していた。


生きている。


「治療班へ運べ」


「はっ!」


魔族兵たちが、二人を慎重に繭から引き出していく。


クオンはその様子を見届けてから、一度だけ零たちのいる方角を見た。


木々の隙間から、零の姿が見える。


その腕の中には、黒い外套に包まれたルシアがいた。


震えはすでに収まり始めているようだった。


「…………」


クオンの胸の奥が、僅かに軋んだ。


傷など負っていない。


異形の攻撃を受けてもいない。


それなのに胸の内側に、小さな痛みがある。


その理由だけが、分からなかった。


いや。


今はまだ、分かりたくなかった。


クオンは零から視線を逸らすと、戦斧にこびりついた紫色の体液を振り払った。


「……掃討完了だ」


リリスの方へ歩き出す。


背筋を伸ばして。


魔王直属四座(クアトリア)として。


仲間を守る戦士として。


それ以外の感情は今は必要ない。


だが、その瞳が一瞬だけ揺れたことに、クオン自身は気づいていなかった。



 ◆


——午後。魔王城・医務室。


白い天井。


清潔な寝台。


治癒魔法の淡い緑色の光が、部屋全体を柔らかく照らしていた。


ルシアは寝台の上に横たわっている。


治癒班の魔族二人がかりで、左腕の裂傷を塞いでいた。


身体に残った蔓の痕。


首の絞め痕。


逃走中に負った擦過傷。


一つずつ、丁寧に治療されていく。


身体の傷は癒えていく。


だが、ルシアの真紅の瞳は、天井を見つめたまま動かなかった。


視線は虚ろだった。


身体は治癒魔法で元へ戻せても、傷ついた心まですぐに治すことはできない。


零は、寝台の横へ椅子を引き寄せて座っていた。


ルシアのすぐ傍に。


治療のため、一度外されていた黒い外套。


処置が終わった箇所から、零の温もりが残る布が再びルシアの身体へ掛けられていく。


やがて、治癒班の一人が零へ目配せした。


「……外傷の処置は終わりました。魔力枯渇による衰弱が残っていますので、今日は安静にしてください」


「——分かった。ありがとう」


治癒班が一礼して退室する。


扉が閉まった。


静寂。


二人きりになった。


ルシアはまだ、天井を見つめていた。


瞬きすら少ない。


しばらく、時間だけが過ぎていく。


やがて、その唇が、僅かに動いた。


「……みんな、朝は笑ってたの」


掠れた声。


「何も知らないで……いつもと同じように、行ってきますって」


ルシアの拳がシーツを掴む。


指先が白くなるほど、強く。


「それなのに……目の前で、あいつらに——」


声が震えた。


途中で言葉を失う。


「……私が最強の魔導師だっていうなら」


真紅の瞳は、今も天井へ向けられていた。


「どうして……守れなかったのよ」


涙は出なかった。


すでに、森で流し尽くしていた。


零は黙って聞いていた。


何も遮らず。


何も否定せず。


ルシアの痛みを、安易な慰めの言葉で消そうともしなかった。


ただ、ルシアの手の傍へ、自分の手を置いた。


触れるか、触れないか。


その程度の距離に。


ルシアの視線が、初めて天井から外れた。


すぐ傍にある零の手を見る。


やがて、真紅の瞳が金色の瞳と重なった。


ルシアの唇が震える。


何かを言おうとして。


それでも言葉にできなくて。


代わりに自分から零の手へ触れた。


指先だけで。


おずおずと、確かめるように。


温かい。


森で抱きしめられた時と、同じ温度。


「……いて」


小さな声。


「……今日だけでいいから。ここに、いて」


零の手が、ルシアの手をそっと握り返した。


「——どこにも行かない」


ルシアの瞳が、僅かに潤んだ。


それでも今度の涙は、恐怖から流れたものではなかった。


握り返された手の温もりを確かめるように、指へ力を込める。


離さないように。


窓の外では、夕日が魔界の空を赤く染め始めていた。


安心と疲労が、ようやくルシアの身体を眠りへ引き込んでいく。


瞼が少しずつ重くなる。


穏やかな寝息が聞こえ始めても、零は、その手を離さなかった。


 ◆


——夜。魔王城・医務室。


医務室を照らしていた燭台の火が、静かに揺れている。


ルシアの瞼が、ゆっくりと開いた。


傍らには、変わらず零がいた。


椅子へ座り、寝台へ身を預けるように眠っている。


手は今も繋がったまま。


「……本当に、ずっといたのね」


零が、その声に目を覚ました。


「起きたのか。身体は?」


「……大丈夫。少し怠いけど」


ルシアが、繋いだ手を見つめる。


長い沈黙。


やがて指先へ、僅かに力が込められた。


「零」


「どうした?」


「……もう少し、近くに来て」


零は椅子から立ち上がり、寝台の傍へ腰を下ろした。


ルシアが身を起こす。


黒い外套が、肩から僅かに滑り落ちた。


二人の距離が近づく。


「昨日のことを忘れたいからじゃない」


ルシアが、先に告げた。


真紅の瞳は揺れていた。


それでも、零から目を逸らさなかった。


「怖かった記憶を、何かで上書きしたいわけでもない。あれは消えないし……消しちゃいけないと思う」


亡くなった部下たちのこと。


自分の無力さ。


逃げるしかなかった悔しさ。


それらを忘れればいいとは、ルシア自身が思っていなかった。


「でも——」


ルシアの指が、零の服を掴んだ。


「ずっと前から、あんたに触れてほしいって思ってた」


頬が赤く染まる。


「先生って呼ばれた時も。訓練するのが楽しいって言われた時も。私たちを守ろうとしてくれた時も」


震えながら、それでも言葉を続ける。


「昨日、弱ってたから決めたんじゃない。私は——私の意思で、あんたを選びたい」


零は、すぐには答えなかった。


ルシアの瞳を、真っ直ぐに見つめる。


「今じゃなくてもいい」


零は確認するように、穏やかに告げた。


「俺はここにいる。だから、急がなくていい」


ルシアは一度目を閉じた。


自分の心に確認するように。


そして首を横に振り、再び開く。


真紅の瞳には、確かな意思が宿っていた。


「急いでるんじゃない」


ルシアが零の頬へ触れる。


「今がいいの。零と一緒に、この夜の続きを迎えたい」


零の手が、ルシアの頬へ重なった。


二人の額が触れる。


やがて、唇が静かに重なった。


燭台の火が揺れる。


窓から吹き込んだ夜風が、白いカーテンを膨らませた。


ルシアの指が、零の手を強く握る。


二人を照らしていた最後の炎が静かに消えた。


 ◆


——朝。魔王城・医務室。


窓から、淡い紫色の朝日が差し込んでいた。


先に目を覚ましたのは、零だった。


腕の中にはルシアがいる。


赤みがかったダークレッドの髪が、零の胸元へ広がっていた。


昨日の恐怖は、まだ消えていない。


それでも今は零の腕の中で、穏やかな寝息を立てていた。


ルシアの瞼が震える。


真紅の瞳が開いた。


「……あ」


至近距離で、目が合った。


昨夜のことが蘇ったのだろう。


ルシアの顔が、耳まで赤くなった。


「……お、おはよ」


「おはよう。身体の調子は?」


「……まだ、少し怠い。でも——大丈夫」


ルシアが小さく微笑む。


「昨日よりは、ずっと」


恐怖の記憶が消えたわけではない。


それでも真紅の瞳には前へ進もうとする、確かな強さが戻り始めていた。


二人は医務室に備えられた簡易浴室で、それぞれ身体を清めた。


ルシアは一度自室へ戻り、予備の黒い魔導服とマントへ着替える。


ツインテールを結び直す手つきに、もう迷いはなかった。


「……行くわよ。お腹減ったし」


「——ああ」


二人は並んで、食堂へ向かった。


 ◆


——朝。魔王城・食堂。


扉を開けた瞬間、室内の視線が集まった。


リリスは、すでに上座へ腰掛けていた。


深紅の瞳がルシアを捉え、僅かに細められる。


「ルシア」


「——おはようございます、リリス様」


「……顔色は、昨日よりマシね」


そう言いながら、リリスの視線はルシアの全身を確認していた。


歩き方。


表情。


声の張り。


まだ無理をしていないか、魔王なりの方法で確かめている。


「ちゃんと食べなさい。魔力の回復には栄養が必要よ」


「……はい」


ルシアが少しだけ笑った。


リリスの不器用な優しさが、嬉しかった。


零とルシアが並んで席へ着く。


二人の距離は以前よりも近い。


肩が触れそうなほど。


だが、ルシアに前のような照れがない。


シエラは、その変化を見逃さなかった。


空色の髪を揺らし、零の反対側へ滑り込む。


肘をテーブルへつき、零の方へ身体を傾けた。


「ねえ、零」


「どうした?」


「昨日、私の時間なかったよね」


青い瞳が零を見上げる。


僅かに唇を尖らせていた。


「ルシアの救出だったんだから、仕方ないのは分かってる。でも——約束は約束でしょ?」


シエラの手が、零の腕へ触れる。


自然に。


当たり前のように。


「今日の午前中は、私が独り占めしてもいい?」


にっこりと笑う。


その笑顔の奥には、番を求める竜の本能が、確かに覗いていた。


ルシアの真紅の瞳が、シエラの手へ向けられる。


次に零を見た。


だが、いつものように怒鳴ることはなかった。


小さく鼻を鳴らしただけだった。


「……ふん。好きにすれば」


スープを掬いながら、余裕のある横顔を見せる。


シエラが目を丸くした。


「……え? 怒らないの? いつもなら『離れなさいよ!』って言うのに」


ルシアが、ちらりと零を見る。


一瞬だけ目が合い、すぐに逸らした。


「別に。あんたが何をしようと——私は私よ」


零は、弱さも涙も全て受け止めてくれた。


二人の間に生まれたものを、ほかの誰かと比べる必要はない。


その確信が、今のルシアへ小さな余裕を与えていた。


シエラは数秒間きょとんとした後、にやりと笑う。


「へえ……何かあった? 随分、余裕じゃん」


「何もないわよ。バカじゃないの」


「ふーん。まあ、いいけど。じゃあ遠慮なく」


シエラが、零の腕へ自分の腕を絡める。


その直後、ルシアへ視線を向けた。


いつもの強気な表情。


まだ僅かに悪い顔色。


それでも、昨日より確かに力を取り戻している。


シエラの青い瞳へ、一瞬だけ安堵が滲んだ。


リリスは、カップ越しにその光景を眺めていた。


(——まだ無理はさせられない)


ルシアがシエラと言い合える程度には戻った。


その事実に、深紅の瞳が僅かに和らぐ。


(でも——あんな顔ができるくらいには、戻ったのね)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。