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第四十ニ環 「金色(こんじき)の瞳が映すもの」

——正午過ぎ。魔獣の森・深部。


零の手から放たれた刃が、ルシアへ迫っていた寄生管を切断した。


一閃。


二閃。


三閃。


神装《夢幻抱擁》から次々と展開された武器が、ルシアを拘束する蔓だけを正確に切り裂いていく。


異形たちが、甲高い悲鳴を上げた。


紫色の体液が飛び散る。


最後の蔓が断ち切られ、ルシアの身体が地面へ崩れ落ちた。


涙に濡れた真紅の瞳が金色の光を捉える。


「——零……?」


零は答えなかった。


まだ終わっていない。


金色の瞳が、魔物の残骸へ向けられる。


飛び散った体液。


千切れた蔓。


その奥に、見覚えのある魔力の残滓があった。


瘴気。


ただの魔物が放つ瘴気ではない。


零はその気配を知っていた。


身体の奥底が震える。


血が沸騰するように、全身が熱くなった。


(——この気配)


(この瘴気の残り香……)


間違えるはずがない。


あの日。


玉座の間で全身を拘束した、他者の精神と尊厳を踏みにじる魔力。


妹を奪い、絶望へ突き落とした男の力。


(——人界の王の神装《永劫支配(エターナルレガリア)》)


その魔力の残滓と——寸分違わない。


(あいつの力が、こんな場所にまで……)


宿主へ寄生し、その精神と肉体を支配する。


抵抗する力を奪い、内側から食い破って増殖する。


この異形たちは、人界の王が持つ神装と、同じ性質の力に汚染されていた。


あの日と同じことを。


妹を奪ったあの男の力が——今度は、ルシアまで蹂躙しようとした。


金色の瞳が、光を放った。


比喩ではない。


瞳孔の奥から、眩い金色の光が溢れ出す。


「——■■■■」


声にならない。


怒りが、言葉という形を超えていた。


神装《夢幻抱擁》が、激しく脈動する。


出力が跳ねあがり、臨界点を超える。


左腕を覆う腕輪から金色の紋様が伸び、黒い蛇の鱗が皮膚の上を走った。


周囲の空気が変質していく。


腕輪から広がる黒い蛇の鱗。零の全身を覆い尽くしてゆく。


夢幻抱擁(ウロボロスサーキット)、第二位階解放。


腕輪がその形を変え、零の全身を鱗のようなもので覆う。


そして、一を、∞(ムゲン)へ。


零の身体能力が跳ね上がった。


肉体の限界を超え——さらに、その先へ。


生き残っていた異形たちは、本能で悟った。


逃げなければならない、と。


蔓が一斉に地面へ潜り、逃走を始める。


だが——遅い。


零の姿が消えた。


いや。


速すぎて、姿を捉えられなかっただけだ。


一閃。


木の向こうへ潜んでいた異形が、縦に両断される。


二閃。


三閃。


四閃。


地中へ逃げ込んだ蔓が、土ごと抉り出されて切り刻まれた。


「逃がさない」


低い声。


凍りつくほど冷たい。


だが、その奥では、灼熱の怒りが渦巻いていた。


五体。


十体。


十五体。


森の奥から姿を現した異形が、一匹残らず斬り伏せられていく。


紫色の体液が木々を濡らし、地面へ染み込んだ。


挿絵(By みてみん)


クオンが追いついた時にはすでに、全てが終わっていた。


周囲に散らばる異形の残骸。


その中心に零が立っている。


既に黒い鱗は左腕にのみ浮かび上がり、だがそれは紫色の淡い光を放ち脈打っていた。


また、金色の瞳は、依然光を帯びている。


クオンは足を止めた。


薄橙色の瞳で零の背中を見つめる。


「……全部、殺したのか」


「——ああ」


短い返答。


その声は今も、怒りで震えていた。


零が振り返る。


地面へ倒れたルシアを見る。


引き裂かれた魔導服。


涙の跡。


震えの止まらない身体。


それでも生きている。


零の瞳から、金色の光が消えた。


代わりに深い安堵が滲む。


「ルシア——」


一歩、踏み出した。


だが、身体がうまく動かず、膝をつく。


身体に違和感がある。


右半身に、感覚のズレ。


零は本能的に感じ取る。


助走もつけず、神装の力を限界以上に引き上げた反動だった。


零はうまく動かない右腕を庇いながら、左腕を使って自分の外套を脱いだ。


黒い布を広げ、ルシアの震える身体へそっと掛ける。


破れた魔導服と、泥や血に汚れた肌を覆い隠すように。


丁寧に。


優しく。


そして、ルシアの身体を抱きしめた。


「——っ」


ルシアの身体が、一瞬だけ強張る。


だが、零の腕の中は温かかった。


外套越しに伝わってくる体温。


規則正しく響く心臓の鼓動。


生きている人の温もり。


「……零」


ルシアが名前を呼ぶ。


「零……っ」


二度目の声は、壊れてしまいそうなほど震えていた。


張り詰めていたものが切れた。


「——ぅ、あ……っ、ぁあああ……!」


ルシアは泣いた。


声を上げて。


魔界最強の魔導師としての誇りも、普段の気の強さも、何もかも今だけは手放して。


零の胸へ顔を押しつけ、ただ泣いた。


部下を失った悲しみで。


何もできなかった悔しさで。


死と寄生への恐怖で。


そして、助けに来てくれた安堵で。


指が、零の服を掴む。


力の入らない指で、それでも離すまいと必死にしがみついた。


「こわ……かった……っ」


途切れた声に、嗚咽が混じる。


「みんな……みんな死んで……私だけ……っ」


「魔法も……使えなくて……何も、できなくて……っ」


零は、何も言わなかった。


ただ、ルシアを抱く腕へ、少しだけ力を込めた。


彼女の頭を胸へ抱え、震える背中をゆっくりと撫でる。


「……来て、くれた」


ほとんど吐息のような、小さな声。


「もう……間に合わないって、思ったのに……」


涙は、なかなか止まらなかった。


少し離れた場所では、クオンが二人へ背を向けて立っていた。


周囲を警戒するため。


そして、二人だけの場所を守るために。


クオンは一度だけ振り返り、ルシアを抱く零の背中を見た。


だが、何も言わなかった。


戦斧を握り直し、再び森の奥へ視線を戻す。


しばらくして、ルシアの嗚咽が少しずつ収まっていった。


それでも、指は、零の服を掴んだまま。


離そうとしない。


「……ごめん」


かすれた声。


まだ、僅かに震えている。


「情けないところ……見せて……」


ルシアが涙越しに零を見上げた。


その真紅の瞳には、確かに、生きている光が戻っていた。


やがて、リリスが精鋭兵を伴って二人のもとへ到着した。


白銀の髪が、薄暗い森の中で揺れる。


深紅の瞳が地面に散らばる魔物の残骸を見下ろした。


紫色の体液。


千切れた蔓。


引き裂かれた花弁。


そして、先ほど命を落とした、若い女魔族の成れの果て。


リリスの眉が僅かに歪んだ。


「……醜い」


低く、冷たい声。


だが、その奥には、煮え滾るような怒りが渦巻いている。


リリスの靴が、蔓の残骸を踏み潰した。


ぐちゃり、と音が鳴る。


彼女は、足元を見ることすらしなかった。


「私の部下を——こんなものに」


誰へ向けたわけでもない呟き。


それだけで、周囲の空気が重くなった。


魔王の怒り。


精鋭兵たちの背筋に、冷たいものが走る。


リリスの深紅の瞳が零へ向いた。


外套を失った零。


その外套に包まれたルシアは、今も零の腕の中にいる。


身体には震えが残っていた。


それでも意識はあり、涙も少しずつ止まり始めている。


リリスは、しばらくその光景を見つめていた。


何かを見定めるように。


確かめるように。


そして、静かに歩み寄った。


「零」


「——はい」


零が顔を上げる。


金色の瞳と、深紅の瞳が交差した。


リリスの表情がほんの僅かに柔らかくなる。


ほとんど誰にも気づかれないほど、小さな変化だった。


「——ありがとう。ルシアを助けてくれて」


魔王が。


あのリリスが、精鋭兵たちの前で、一人の人間へ礼を告げた。


兵士たちの間に、小さな動揺が走る。


だが、リリスは気に留めなかった。


「あんたが先に飛び込んでくれたから——間に合った」


それだけ伝えると、視線をルシアへ移す。


黒い外套に包まれた、細い身体。


普段の気の強さが嘘のように今は脆く見えた。


リリスの深紅の瞳が、一瞬だけ揺れる。


「……ルシア」


小さく、名前を呼んだ。


しかしそれ以上は何も言わなかった。


今のルシアに必要なのは、魔王からの慰めではない。


それを、リリスは分かっていた。


再び、零を見る。


「零。今日は——ルシアに付き添ってあげて」


命令ではなかった。


頼みだった。


「身体の傷は、治療班に任せればいい。でも——今のあの子が、自分から縋ることができたのはあんただけよ」


深紅の瞳が、真っ直ぐに金色を見つめる。


「離れないであげて。あの子が落ち着くまで」


「——分かりました。必ず」


零が、迷いなく頷いた。


リリスは一つ息を吐き、二人へ背を向ける。


白銀の長い髪が翻った。


「クオン」


「ああ」


「周辺に残っている異形を掃討する。一匹も残さないで」


クオンが巨大な戦斧を肩へ担ぐ。


薄橙色の瞳に鋭い殺意が宿った。


「言われなくても」


リリスは、森のさらに奥へ視線を向けた。


汚染された魔力は、今も消えていない。


そして、恐らく零の反応から判断するに、今回の件には人界の王が関わっている。


「私の領土で、私の部下を殺した」


リリスの周囲へ、深紅の魔力が渦巻く。


「その代償——全て払わせるわ」


魔王と鬼族の戦士が、森の奥へ歩き出す。


後方では、精鋭兵たちが負傷したルシアを運ぶため、治療と担架の準備を始めていた。


零はルシアの傍を離れない。


ルシアの指も零の服を掴んだままだった。


汚染された森の中。


二人の重なった手にだけ、微かな温もりが残っていた。

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