第四十一環 「魔力を喰らう森」
——正午過ぎ。魔獣の森・東端。
森の中は異様だった。
木々の色が変わっている。
葉は黒ずみ、幹には紫色の脈が走っていた。
空気が粘つくように重い。
一帯を満たす魔力そのものが汚染されている。
リリスが先頭を歩いていた。
白銀の髪が、薄暗い森の中で異質な光を放つ。
深紅の瞳で周囲を見渡しながら、一歩ずつ確実に奥へ進んでいく。
クオンは零の隣を歩いていた。
薄橙色の瞳が、獣のように周囲を警戒している。
鼻が何かを捉えた。
「……血の匂いが濃くなってる。近い」
精鋭兵五名が、後方を固める。
誰も口を開かない。
張り詰めた空気の中、地面を踏む足音だけが響いていた。
不意に前方の茂みが揺れた。
「止まれ」
リリスの声に、全員が足を止めた。
茂みの向こうから一つの人影が現れる。
若い女魔族。
行方不明になった調査隊の制服を身につけている。
だが、衣服は破れ、全身を泥と血で汚していた。
露出した腕には、蔓に締めつけられたような赤黒い痕が残っている。
髪は乱れ、瞳の焦点も定まっていない。
ふらふらと。
幽鬼のような足取りで、こちらへ近づいてくる。
「——あ……リリス、さま……」
リリスの姿を認めた瞬間、その顔へ安堵が広がった。
膝から力が抜ける。
瞳から涙が溢れた。
「た、助けに……来て、くれ——ぉごっ」
次の瞬間。
女魔族の表情が、苦痛に歪んだ。
「——ぁ、が……っ」
両手で腹部を押さえる。
身体が激しく痙攣し、口から黒い液体が溢れ出した。
「——っ!」
クオンが一歩踏み出す。
だが間に合わない。
女魔族の腹部が、不自然に膨れ上がった。
皮膚の下で何かが蠢いている。
無数の突起が、内側から肉体を押し広げていく。
「いや……いやぁ——ッ!」
絶叫。
直後、その身体が、内側から引き裂かれた。
肉が裂ける音。
骨が砕ける音。
飛び散った血の中から、異形の生物が次々と這い出してくる。
三体。
四体。
五体。
蔓と牙を持つ、拳ほどの大きさの植物型魔物。
生まれたばかりでありながら、すでに剥き出しの敵意をこちらへ向けていた。
宿主の魔力を餌に育ち、内側から食い破って生まれる寄生型。
リリスの表情が凍りつく。
深紅の瞳へ凄まじい殺意が灯った。
だが、動いたのは零とクオンの方が先だった。
「——ッ!」
クオンの手元に、巨大な戦斧が展開される。
地面を蹴り、その身体が一気に加速した。
一閃。
振り抜かれた戦斧が、三体の魔物をまとめて叩き潰す。
肉片と紫色の体液が飛び散った。
物理攻撃は通る。
零も同時に動いていた。
左腕の神装《夢幻抱擁》から、二振りの刃を呼び出す。
魔法とは異なる原理で構築された神装の武器は、汚染された領域の中でも消えなかった。
刃が閃く。
残る二体が切り裂かれ、地面へ落ちる。
戦闘は数秒で終わった。
静寂が戻る。
地面には、若い女魔族だったものが散らばっていた。
もはや、元の姿を留めていない。
クオンが戦斧を下ろす。
薄橙色の瞳は地面を見つめたままだった。
柄を握る拳に力が入り、白くなる。
「……こいつら、中に卵を産む」
低い声。
怒りで震えていた。
リリスが静かに歩み寄り、地面に散らばる残骸を一瞥する。
「……卵を植えつけ、宿主の魔力を餌に育つ。そして最後には、内側から食い破って増殖する」
その声は冷たい。
だが、その奥には煮え滾るような怒りがあった。
「最悪ね」
リリスの靴が、まだ動いていた蔓の残骸を踏み潰す。
ぐちゃり、と鈍い音が響いた。
「ルシアの隊は、魔術師が中心だった。魔法を封じられた状態で、こんなものに襲われたら——」
そこで、言葉を切った。
深紅の瞳が森の奥を見据える。
「……ルシアは生きてる」
クオンが断言した。
リリスが視線を向ける。
「根拠は?」
「あいつは強い」
クオンは一切迷わなかった。
「死ぬ奴の匂いじゃない」
リリスの口元が——ほんの僅かに緩んだ。
「——急ぐわよ」
すぐに、魔王の表情へ戻る。
「物理攻撃が通るなら、零とクオンの出番。私は魔力吸収の範囲と限界を見極める」
深紅の瞳が、零を見た。
「零。あんたの神装《夢幻抱擁》——その強化を乗せた物理攻撃、頼りにしてる」
「ああ」
零が頷く。
一行は、さらに森の奥へ進んだ。
◆
同時刻——魔獣の森、深部。
ルシアの体力は、限界を迎えようとしていた。
左腕からの出血が止まらない。
魔力も、ほとんど枯渇している。
それでも、迫る蔓から逃げ続けていた。
だが、足がもつれた。
木の根に躓き、膝が地面へつく。
その音を、奴らは聞き逃さなかった。
ざわり。
地面が蠢く。
木の幹から。
土の中から。
無数の蔓が這い出してきた。
四方八方から、逃げ道を塞ぐように。
「——っ!」
ルシアは立ち上がろうとした。
しかし、足首へ蔓が巻きつく。
強く引かれ、背中から地面へ叩きつけられた。
肺から空気が押し出される。
「かっ——!」
目の前に、三体の異形が姿を現した。
花弁のような口を開閉させ、無数の蔓を蠢かせている。
口の両端が、にたりと歪んだ。
笑っているように見えた。
魔物たちの目が、ルシアの全身を捉える。
魔界最強の魔導師。
膨大な魔力を内包する身体。
寄生し、次代を育てるためには、これ以上ない器。
「来るな——ッ!」
ルシアが右手を突き出す。
炎を生み出そうとするが何も起きない。
周囲の魔力を吸収され、魔法を発動できない。
蔓が動いた。
足首を拘束していた一本が、ゆっくりと這い上がる。
同時に別の蔓が両腕へ巻きつき、左右へ引き広げた。
「やめ——離しなさいッ!」
ルシアの身体が、地面へ磔にされる。
黒いマントが引き剥がされ、泥の上へ落ちた。
無数の蔓が、獲物を調べるように身体の上を這う。
魔力の流れを探っているのだ。
首へ巻きついた蔓が、徐々に締めつけを強めた。
「かっ……は……!」
酸素が奪われる。
視界が白く霞んでいく。
花弁状の口が、ルシアの腹部へ近づいた。
中心から細長い管が伸び、その先端が不気味に脈打っている。
それが何をするための器官なのか。
先ほど、部下たちの最期を見たルシアには分かっていた。
「いや……っ」
真紅の瞳へ、恐怖が滲む。
「あれを……私の中に、入れるつもり……?」
魔界最強の魔導師。
誰よりも魔法を愛し、その才能と努力に誇りを持ってきた少女。
今は魔法を奪われ、身動き一つ取れない。
だが——その目から、闘志は完全には消えていなかった。
自由になった僅かな指先を動かす。
泥の中に落ちていた短剣へ、必死に手を伸ばした。
あと少し。
指先が柄へ触れる。
短剣を掴み、拘束する蔓へ突き立てた。
「——舐めるんじゃ、ないわよ……!」
刃が、蔓の一本を切り裂く。
異形が甲高い悲鳴を上げた。
だが、直後。
別の蔓が短剣を弾き飛ばした。
最後の抵抗手段が、地面を滑って遠ざかっていく。
さらに強い力で首を絞められた。
意識が遠のく。
花弁状の口が開いた。
寄生管が、ルシアの腹部へ振り下ろされる。
(——いや)
(こんなところで……)
(誰か——)
その時。
クオンの鼻が風に混じる血の匂いを捉えた。
「零。前方——真っ直ぐだ!」
クオンが指し示すより先に、零は刃を森の奥へ射出していた。
木々の隙間を抜けた武器へ向けて、神装の力を接続する。
《武装転移》。
それは、ルシアの魔力制御、シエラの飛行、レイラの空間把握を応用した妙義。
武器を投擲し、夢幻抱擁の力でパスを繋げ、そこまでの距離を0にする。
無限を0に、夢幻抱擁だからこそ成せる技。
空間が歪み、零の身体が一瞬で刃の位置へ移動した。
さらに次の武器を射出。
転移。
射出。
転移。
木々の間を縫い、誰よりも速く森を駆け抜ける。
そして、寄生管がルシアへ突き刺さる、その直前。
轟音。
森が震えた。
木々が薙ぎ倒され、地面を蹴る衝撃が周囲へ広がる。
「——てめぇッ!!」
金色の瞳が怒りに燃えていた。




