↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/117

第四十環 「帰らない魔導士」

——正午。魔王城・中央棟。


朝から、ルシアの姿はなかった。


いつもなら夜明け前に響く、扉を叩く音。


「起きなさい、訓練よ」と零を叩き起こす声。


それが聞こえない朝は魔界に来てから、初めてだった。


零は午前中を、クオンとの近接戦闘訓練に充てた。


昨日の約束どおり、神装《夢幻抱擁》から呼び出す武器を実戦形式で切り替える。


剣から槍へ。


槍から大剣へ。


さらに、弓へ切り替えて牽制し、再び接近戦用の刃を呼び出す。


何度もクオンに打ち倒されながら、零は徐々に武器を切り替える速度を上げていった。


訓練を終えた頃には、全身が汗に濡れていた。


そして、正午に差しかかろうとした時。


魔王城の廊下を歩いていた零のもとへ、一人の魔族兵が駆けてきた。


息を切らし、顔を青ざめさせている。


「天津零様——! リリス様がお呼びです。至急、謁見の間へ!」


ただの呼び出しではない。


兵士の声が、僅かに震えていた。


零が謁見の間へ到着した時には、すでにシエラ、レイラ、クオンが揃っていた。


玉座に腰掛けたリリスの表情は冷たかった。


いつもの余裕ある笑みはない。


深紅の瞳が、氷のように凍りついている。


「——全員、揃ったわね」


低い声。


空気が重い。


魔王の威圧が、広い謁見の間を支配していた。


シエラの表情も険しい。


尻尾が張り詰め、翼も僅かに開いている。


クオンは腕を組み、眉を寄せていた。


レイラだけは普段と変わらない表情を保っている。


だが、緑色の瞳の奥には、鋭い光が宿っていた。


「単刀直入に言うわ」


リリスが玉座から立ち上がる。


白銀の髪が揺れ、黒と赤の魔王装束が燭台の光を受けて鈍く輝いた。


「——今朝、魔力異常の調査へ出たルシアの隊が、定刻を過ぎても戻っていない」


沈黙。


「予定帰還時刻は一時間前。通信魔法にも応答なし。最後の定時連絡は出発から三時間後」


リリスの手に、一枚の通信記録が握られていた。


「『異常なし。予定どおり帰還する』。それきりよ」


「......場所は?」


シエラが即座に問いかけた。


普段の余裕ある口調は、完全に消えていた。


「魔獣の森の東端。ゲルハルト渓谷の手前。あの一帯では、最近になって妙な魔力反応が観測されていた。だから、ルシアに調査を任せた」


「……敵か」


クオンの短い問い。


「分からない。だから、これから確認する」


リリスの深紅の瞳が零へ向いた。


「——零。あんたも来なさい」


命令ではない。


だが、その声には有無を言わせない重さがあった。


「ルシアは、魔界最強の魔導師よ。そのルシアが通信を絶つなんて、普通じゃない。何かあったと考えるべきね」


リリスが白銀の髪を掻き上げる。


深紅の瞳には静かでありながら、灼熱の怒りが灯っていた。


「私の部下に手を出した奴がいるなら——」


膨大な魔力が、リリスの身体から溢れ出す。


その存在の圧は何もない空間ですら軋ませる。


空気が震え、壁に並ぶ燭台の炎が一斉に揺らいだ。


「——潰す」


直後、リリスは素早く指示を出した。


自らは零とクオン、精鋭兵五名を率いて、ルシアが最後に確認された地点へ向かう。


シエラは上空から広範囲を捜索。


レイラは別動隊を率い、魔力異常の外縁と退路を確認する。


敵の能力も規模も不明である以上、一方向から全員で踏み込むのは危険だった。


 ◆


——正午。魔獣の森・東端。


リリス、クオン、零。


そして、精鋭の魔族兵五名。


計八名の小隊が、転移魔法によって森の入り口へ降り立った。


リリスの深紅の瞳が、周囲を見渡す。


白銀の髪が風に靡いた。


——異常は、すぐに感じ取れた。


「……気持ちの悪い魔力ね。濁ってる」


空気が重い。


通常の魔獣の森とは違う。


何かが、この一帯を巡る魔力そのものを、汚染している。


クオンが鼻を鳴らした。


金色の瞳が、獣のように細められる。


「——血の匂いがする。複数だ」


短い報告。


だが、その声には静かな怒りが滲んでいた。


 ◆


同時刻——魔獣の森、深部。


ルシアは、巨大な木の根元へ身を潜めていた。


黒いマントは、泥と血で汚れている。


魔女帽子は失われていた。


赤みがかったダークレッドのツインテールも乱れ、片方は解けかかっている。


左腕には深い裂傷。


止血のために巻いた布にも、赤い血が滲んでいた。


真紅の瞳が揺れている。


恐怖。


怒り。


そして——無力感。


(何なのよ、あれ……)


先ほど目にした光景が、何度も脳裏に蘇っていた。


調査は、途中まで順調だった。


魔力異常の発生源へ近づき、必要な観測記録を取る。


異常が拡大していないことを確認し、帰還する。


そのはずだった。


小隊は八名。


ルシアを含め、そのほとんどが優秀な魔術師だった。


魔力異常の調査には、最適な編成。


だが、渓谷へ差しかかった時。


地面から。


木々の陰から。


それらは、前触れもなく現れた。


異形の植物。


いや、植物の姿を模した、何か。


無数の蔓が触手のように蠢き、花弁に似た口が開閉している。


大きさはさまざま。


中でも最大の個体は、周囲の木々を超えるほどの高さがあった。


ルシアは即座に炎魔法を放った。


——だが。


何も起きなかった。


練り上げた魔力が、魔法として形を成した瞬間に霧散した。


まるで、空気そのものへ溶けて消えたかのように。


「——は?」


それが、異形の能力だった。


周囲の魔力を吸収し、発動しようとした魔法を無効化する。


魔術師にとって最悪の天敵。


小隊は、瞬く間に崩された。


魔法を封じられた魔術師たちは、異形の蔓を前に為す術がなかった。


拘束され、魔力を奪われる者。


助けようとして、別の蔓に引きずられる者。


悲鳴。


骨が砕ける音。


飛び散る血。


一人の若い魔術師が、無数の蔓によって巨木へ磔にされた。


花弁状の口が胸元へ食らいつき、体内の魔力を吸い上げていく。皮膚の下へ細い根が侵入し、黒い脈となって全身へ広がった。


断末魔はやがて、声にならない呻きへ変わった。


ルシアはその全てを見ていた。


(——動け)


(動け、動け、動け——ッ!)


身体が震えていた。


魔法が使えない。


魔界最強の魔導師が目の前で殺されていく部下を、救うことすらできない。


それでも、ルシアは最後まで諦めなかった。


腰へ備えていた短剣を抜き、迫る蔓を切り払う。


一本。


二本。


三本。


しかし数が違いすぎた。


短剣を握る左腕を蔓が掠め、肉が深く裂ける。


血が噴き出した。


それでも、ルシアは残った部下を逃がそうと前へ出た。


「走りなさい! 私が時間を稼ぐから——!」


だが、返事はなかった。


振り返った時にはもう、立っている者はいなかった。


かろうじて残っていた結界術の残滓を解放し、周囲の蔓を一瞬だけ弾く。


魔力無効化の範囲にも、僅かな濃淡がある。


ルシアは最も影響の弱い外縁へ飛び込み、残った魔力を振り絞って逃げた。


逃げるしかなかった。


そして、今。


巨木の根元で、息を殺している。


左腕が痛む。


魔力も、体力も、限界に近い。


通信魔法はこの領域にいる限り、使えない。


「……くそ……っ」


ルシアは歯を食いしばった。


真紅の瞳へ、悔しさの涙が滲む。


部下たちの顔が浮かぶ。


朝、笑顔で「行ってきます」と言っていた、若い魔術師たち。


もう帰ってこない。


「……助けられなかった」


拳で地面を叩く。


泥が飛び散った。


「私が……魔界最強の魔導師なんて……っ」


魔力はない。


血も止まらない。


あの異形はまだ、すぐ近くにいる。


蔓が地面を這う音が、時折聞こえてきた。


探しているのだ。


逃げたルシアを。


(通信もできない。ここじゃ誰にも届かない)


震える手で、左腕の傷を押さえた。


(リリス様。みんな)


そして最後に。


金色の瞳を持つ少年の顔が浮かんだ。


真っ直ぐな笑顔。


「みんなのおかげで強くなれた」と言ってくれた声。


「……零」


名を呼んだ。


届くはずのない、微かな声。


「……もう、間に合わないわよね……」


自嘲するように呟く。


それでも心のどこかでは、祈っていた。

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


零たちの行く末を見届けたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。