第三十九環 「5分だけのぬくもり」
——夜。魔王城・零の部屋。
コンコン。
控えめなノック。
だが、扉の向こうから伝わってくる気配は、落ち着かなさに満ちていた。
零が扉を開ける。
そこには、シエラが立っていた。
空色の長い髪は結ばれず、肩から背中へ流れている。普段の余裕ある笑みはなく、頬がうっすらと赤い。黒い竜角が、廊下の燭台を受けて艶やかに光っていた。
「……来た」
短い言葉。
いつもの気さくな調子は、どこにもなかった。
「入る……よな?」
「うん……」
零に促され、シエラが部屋へ入る。
扉が閉まった。
二人きり。
「……五分だから」
シエラが、自分自身へ言い聞かせるように呟いた。
「ルシアとの約束。五分だけ」
尻尾が、背後で落ち着きなく揺れている。
シエラはベッドの縁へ腰を下ろし、零を見上げた。
青色の瞳は、落ち着きなく彷徨っている。
「す、座りなよ〜……って、別に私のベットじゃないけど……」
「……お、おう」
零はシエラにパンパンと叩かれた場所に座る。
距離は近い。僅かに動いただけで、互いの肩が触れた。
「……っ」
それだけで、シエラの身体が震えた。
番を求める竜の本能が、胸の奥で叫んでいる。
近い。
温かい。
求めていた存在が、すぐ隣にいる。
「じゃあ......触るぞ」
零が手を伸ばす。
指先が——シエラの黒い竜角へ、そっと触れた。
「——っ、ぁ……」
電流が走ったかのように、シエラの全身が大きく震えた。
角から伝わってくる温もり。
触れた指先から、零の魔力が微かに流れ込んでくる。
荒れ狂っていた本能が少しずつ凪いでいった。
まるで、嵐に呑まれていた海が静けさを取り戻すように。
だが、それだけでは終わらなかった。
「……零」
シエラが身を寄せる。
零の肩へ頭を預けると、空色の髪が彼の腕に広がった。
「……もう少しだけ、こうしててもいい?」
甘えるような声。
普段見せていた「余裕のある年上」の仮面は、完全に剥がれていた。
「角に五秒触ればいいんじゃなかったのか?」
「……抑えるだけなら、五秒で足りる」
「じゃあ、残りの時間は?」
「私が……こうしていたいだけ」
「そ、そうか……なるほど……」
零の指が、竜角を優しく撫でる。
円を描くように。
ゆっくりと。
「んっ……は……」
シエラが目を閉じた。
長い睫毛が震えている。
尻尾が零の腰へ伸び、離さないようにそっと巻きついた。
「……今日、食堂で」
シエラが零の肩へ顔を埋めたまま、囁く。
「みんなのおかげで強くなれたって言ってくれた時……すごく、嬉しかった」
その声は、僅かに震えていた。
「それに、リリス様へ言い返した時も……私たちのことを守ってくれているような気がして」
顔を上げる。
潤んだ青い瞳が、零の顔を間近から見つめていた。
「……ねえ、零」
シエラの尻尾が、零の腰へもう少し強く巻きつく。
「私——あんたを番に選んで、よかった」
零の指が、変わらず竜角を撫で続ける。
シエラは目を細め、猫のように零の首筋へ額を擦り寄せた。
「あったかい……零、あったかい……」
甘える声。
魔王軍最速の竜族。
四座一角を担う戦士が、今はただ、想い人の温もりを求める一人の少女になっていた。
尻尾が零を抱く力を強める。
離れたくない。
もっと触れていたい。
この温もりの中にいたい。
「……五分、短い」
シエラが不満そうに呟き、僅かに唇を尖らせた。
その直後。
コンコンコンコン。
激しいノックが響いた。
「——五分よ。開けなさい」
扉の向こうから、ルシアの声が飛んでくる。
正確に五分。
一秒の猶予もなかった。
シエラの尻尾が、びくりと跳ねた。
零の腰から、名残惜しそうに離れていく。
「……もう」
潤んだ青い瞳で、零を見上げる。
頬は赤く、唇も小さく尖ったままだった。
「……また明日」
囁くように告げ、シエラが立ち上がる。
髪を整え、表情を元へ戻そうとする。
しかし、耳の赤さだけは隠せなかった。
扉を開ける。
廊下には、腕を組んだルシアが立っていた。
真紅の瞳が鋭く細められている。
「ちょっとでももたつかせてたら、焼いてたわよ」
「……ありがとう、ルシア」
シエラは、すれ違いざまに小さく呟いた。
ルシアは答えなかった。
ただ、シエラの赤く染まった耳を一瞥し、僅かに唇を噛んだ。
シエラが廊下の向こうへ消える。
入れ替わるようにルシアが部屋へ入り、扉を閉めた。
そして、零の顔を見る。
「……あんたも顔、赤いわよ」
ルシアは椅子へ座り、いつものように魔法理論のノートを広げた。
だが、今夜は、少しだけ様子が違っていた。
ペンを指先で弄びながら、どこか落ち着かない。
真紅の瞳が零を見て、逸れて、また見て。
「……あのね」
ツインテールの先を指へ巻きつけながら、ルシアが切り出した。
「明日の午前、別件が入ってるの。リリス様から直接頼まれた調査任務。領地で観測された魔力異常の確認よ」
視線をノートへ落としたまま、続ける。
「だから——朝の訓練は、一回お休み」
その言葉には、どこか申し訳なさそうな響きがあった。
十日間、一度も休まず続けてきた早朝の魔法訓練。
それを自分から中断することが、ルシアにとっては不本意なのだろう。
「……別に、サボるわけじゃないからね。リリス様の命令なんだから。あんたが変な顔をしても、どうにもならないの」
「いや、変な顔してたか?」
零は変な顔などしていない。
ルシアが先回りして言い訳しているだけだった。
「昼には戻るから。戻ったら、遅れた分まで、みっちりやるわよ。覚悟しておきなさい」
ペンの先で、零の額をつんと突く。
「それまで、ほかの連中に鍛えてもらいなさい。クオンが明日も訓練するって言ってたでしょ」
一拍置く。
「……シエラにも——まあ、飛行訓練の続きとか、あるんでしょうけど」
シエラの名前を出した瞬間だけ、声の調子が僅かに低くなった。
先ほど見た、赤く染まった耳。
そして、同じように頬を赤くしていた零。
その光景が、頭から離れないのだろう。
「……別に、気にしてないけど」
明らかに、気にしていた。
だが、ルシアは一度深呼吸すると、乱れた感情を振り払うようにツインテールを整えた。
真紅の瞳が、零を真っ直ぐに見つめる。
「……ねえ」
声が少しだけ柔らかくなった。
「今夜の食堂でのこと。あんたが、リリス様へ言い返した時」
椅子から立ち上がり、零の前まで歩み寄る。
二人の距離が縮まった。
ルシアの頬が赤くなる。
それでも、目は逸らさなかった。
どこまでも、彼女らしく。
真っ直ぐに。
「少しだけ、誇らしかった」
「誇らしい?」
「私が教えてる相手が、あんただから」
ルシアの指先が——零の手へ触れた。
ほんの一瞬。
すぐに離れてしまうほどの、僅かな接触。
それでも、確かな温もりが残った。
「……じゃあ、今日はここまで。明日の午前、有意義に使いなさいよ」
ルシアはノートを閉じ、脇へ抱えた。
そのまま扉へ向かい、ノブへ手をかける。
そして——振り返った。
「——おやすみ、零」
小さく微笑んで、部屋を出ていく。
扉が閉まる。
廊下を歩くルシアの足音が、少しずつ遠ざかっていった。
静かになった部屋には——零の手に残された温もりだけが、微かに残っていた。




