第三十八環 「魔王の投げた爆弾」
——夜。魔王城・食堂。
長いテーブルに、数々の料理が並んでいた。
魔界の獣肉を使ったロースト。黒パン。紫色の果実を添えたサラダ。そして、湯気を立てる深紅のスープ。
いつもと変わらない夕食の風景。
だが——今夜は、どこか空気が違っていた。
リリスは上座に座り、銀のゴブレットを傾けていた。
深紅の瞳が、テーブルを囲む全員を静かに見渡している。
白銀の髪が、燭台の光を受けて揺れる。
表情は穏やか。
だが——その奥では、目の前で起きている変化の全てを読み取ろうとしていた。
魔王の目。
支配者の視線。
ルシアは、零の隣に座っていた。
いつもの定位置。
だが今夜は——普段よりも距離が近い。
少し動けば、互いの肘が触れてしまうほどに。
書類を片づけて食堂へ来てからというもの、ルシアはいつも以上に零へ話しかけていた。
「今日の訓練、どうだったの? ちゃんと食べなさいよ。あんた、細いんだから」
そう言いながら、零の皿へ肉を取り分ける。
世話焼きなのは、いつものこと。
だが、その手つきには——僅かに独占的なものが滲んでいた。
対面に座るシエラは、普段なら気軽に零へ話しかけている。
しかし、今夜は違った。
零と視線を合わせては逸らし、また合わせては逸らしている。
空色の髪の下で、耳が赤く染まっていた。
尻尾も、椅子の下で落ち着きなく揺れている。
昼間の出来事を思い出しているのだろう。
零が言った「もっと教えてくれ」という言葉が——今も胸の中で反響している。
クオンは零の反対側に座り、黙々と肉を食べていた。
だが、時折、零の方をちらりと見る。
「……肉、足りてるか?」
短い言葉。
それでも、クオンが自分から、食事中に誰かに話しかけることは珍しかった。
レイラはテーブルの斜め向かいに座り、静かに紅茶を啜っていた。
緑色の瞳が零を見ている。
しかし——他の三人とは違う。
その視線には、焦りがなかった。
余裕がある。
秘密の共有者。
それだけで——今のレイラには十分だった。
少なくとも、今は。
リリスは——全てを見ていた。
ルシアの距離の近さ。
シエラの落ち着きのなさ。
クオンの不器用な気遣い。
レイラの穏やかな視線。
四人の意識が、全て一人の青年へ向けられている。
ゴブレットの縁に唇を当てたまま、リリスの深紅の瞳が細められた。
(——面白いことになってるじゃない)
魔王軍の最高戦力。
長い時を自身と共に戦ってきた四人の女が——召喚されて僅か十日の人間に、これほど心を動かされている。
嫉妬ではない。
不快でもない。
純粋な観察。
そして——僅かな驚き。
(ルシアは分かりやすい。あの子は昔から、自分が認めた相手には一直線だから)
(シエラは——番、か。今日の魔力の乱れで、竜化しかけていたことには気づいてた。まさか、ここまでとはね)
(クオン。あの子が男に興味を示すなんて初めて見た。戦士として認めた……だけじゃないわね、あの顔は)
(レイラが一番読めない。あの子が素を見せる相手なんて——私以外には、いなかったのに)
リリスはゴブレットを置いた。
銀の器が、テーブルの上で軽い音を立てる。
その視線が——零へ向いた。
黒髪に金色の瞳。
中性的で端正な顔立ちをした、十八歳の青年。
たった十日で、魔王直属四座全員の心を動かした存在。
(……あんた、何者なのよ)
「——零」
リリスが声をかけた。
テーブルの空気が、一瞬だけ張り詰める。
四人の視線が、リリスへ集まった。
「今日の訓練、どうだった? 楽しかった?」
何気ない問いかけ。
しかし、その深紅の瞳は——零の反応だけでなく、四座の反応まで同時に観察していた。
ルシアが僅かに身を乗り出す。
シエラの尻尾が止まる。
クオンの咀嚼が遅くなる。
レイラだけは変わらず紅茶を啜っていたが、長い耳が僅かに零の方へ傾いていた。
(——ははっ。全員、聞き耳を立ててる。あんたの答えに)
リリスの唇が、薄く弧を描いた。
零は、四人の顔を順番に見た。
そして——裏表のない、真っ直ぐな笑顔を浮かべた。
「楽しかったよ。みんなのおかげで強くなれてる実感がある」
その声が、食堂に響いた。
金色の瞳が、燭台の光を受けて輝いている。
空気が——変わった。
ルシアが顔を逸らす。
ツインテールが揺れ、その隙間から覗く耳が赤く染まっていた。
「……べ、別に。あんたが真面目にやってるから、教え甲斐があるだけよ」
口調は素っ気ない。
だが——その唇の端は、ほんの少しだけ上がっていた。
シエラが水を飲む。
ゴクリ、と喉が鳴った。
青い瞳で零を見て——すぐに逸らす。尻尾は、椅子の脚へ巻きついていた。
「……そ、そう? まあ——うん。私も、教えるのは楽しかったし」
声が上擦っている。
空色の髪の下で、耳が完全に赤くなっていた。
クオンは肉を咀嚼しながら、小さく頷いた。
「お前は強くなった。明日も付き合う」
短い言葉。
だが、クオンの薄橙色の瞳には、満足と——それだけではない感情が混ざっていた。
レイラは紅茶のカップ越しに、零を見ていた。
緑色の瞳が、柔らかく細められている。
いつもの観察者の目ではない。
「……みんな、ね」
誰にも聞こえないほどの呟き。
それでも——その唇には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
リリスは、その全てを見ていた。
四人の反応を。
頬の赤さを。
視線の行き先を。
声の揺れを。
そして——零の表情を。
たった一言。
「みんなのおかげ」という、何の計算もない言葉一つで——魔王軍最強の四人が、こうも揺れる。
リリスはゴブレットに口をつけた。
深紅の液体が喉を通る。
(——天然たらし。しかも無自覚。一番厄介なやつじゃない)
「ふーん」
白銀の髪を指先で弄びながら、リリスは零を見た。
値踏みするように。
だが、どこか——面白がるように。
「みんなのおかげ、ね。——んで、誰の訓練が一番楽しかった?」
爆弾を投げた。
食堂の空気が凍りつく。
ルシアのフォークが止まった。
シエラの尻尾が跳ねる。
クオンが咀嚼をやめる。
レイラだけは紅茶を啜り続けていたが、その緑色の瞳は——僅かに笑っていた。
四人の視線が、一斉に零へ集中する。
リリスは頬杖をつき、楽しそうに笑っていた。
(さあ——どう答える?)
零は、すぐには答えなかった。
ルシア、シエラ、クオン、レイラ。
四人の顔を順番に見てから——再び、リリスへ視線を戻した。
その表情に、先ほどまでの笑みはなかった。
「……そういう聞き方は、良くないと思う」
零の声は静かだった。
だが——強かった。
「四人とも、俺に違うことを教えてくれた。誰か一人が上だなんて、俺には決められない。それに——そんなふうに比べたら、みんなが俺に使ってくれた時間、想いを、貶すことになるだろ」
金色の瞳が、真っ直ぐにリリスを見ている。
媚びも、怯えも、遠慮もない。
魔王に対して——対等に、自分の意見を伝えていた。
食堂が静まり返った。
リリスの深紅の瞳が、僅かに見開かれる。
ゴブレットを持つ手が止まり、白銀の髪が揺れた。
(——は?)
魔王に対して。
冗談めかした質問とはいえ——それを「良くない」と言い切った。
しかも、怒っているわけではない。
穏やかに。
だが、決して揺るがない声で。
ルシアが、思わず立ち上がりかける。
「あんたっ——魔王様に向かって——」
そこまで言って、止まった。
零が何のためにリリスへ意見したのか、その意味に気づいたからだ。
シエラの尻尾も止まっていた。
驚きに満ちた青い瞳で、零を見つめている。
その胸の奥に——熱いものが広がっていった。
クオンは咀嚼を完全にやめ、真っ直ぐに零を見ていた。
(——こいつは、強い)
レイラは紅茶のカップを静かにソーサーへ置いた。
緑色の瞳が、穏やかに細められている。
(——零らしい)
沈黙が続いた。
リリスと零の視線が交差する。
魔王の威圧を真正面から受けながらも、零の金色の瞳は揺らがない。
一秒。
二秒。
三秒。
「——あはははっ」
リリスが笑った。
ゴブレットを傾け、一口飲む。
そして頬杖をつくと、白銀の髪が肩から流れ落ちた。
「——あっそ」
軽い声。
だが——そこに棘はなかった。
「面白い子ね、本当に。魔王に説教するやつなんて、百年ぶりくらいに見たわ」
深紅の瞳が、柔らかく細められる。
怒りではない。
不快でもない。
零の真っ直ぐさを——認めている。
「いいわよ。悪かったわね、意地悪な聞き方をして」
あっさりと。
魔王が——謝った。
ルシアが目を丸くする。
リリスが素直に謝る姿など、滅多に見られるものではない。
「——覚えておきなさい。あんたのそういうところ、私は嫌いじゃない」
リリスは、ゴブレットの縁越しに零を見た。
深紅の瞳に、金色の光が映っている。
(仲間を守ろうとする。魔王にも臆さない。四人を貶めたくないと言い切る)
(……なるほどね。この子たちが惹かれる理由、少し分かった気がする)
食堂の空気が緩んだ。
張り詰めていた糸が解けるように、皆の身体から力が抜けていく。
最初に動いたのは、クオンだった。
肉を噛みちぎり、小さく呟く。
「……いい男だ」
ルシアは、零の肩を軽く叩いた。
「……あんた、本当にバカね。でも——ありがと」
小さな声。
だが——確かに、震えていた。
シエラは空色の髪越しに零を見て、静かに微笑んだ。
何も言わない。
それでも尻尾が、椅子の下で安心したようにゆっくりと揺れていた。
レイラは紅茶のカップを持ち上げ、零へ向けて軽く傾けた。
まるで、乾杯するように。
その緑色の瞳は——どこまでも優しかった。
(——零。あなたは、本当に……)
リリスはゴブレットを置き、何事もなかったかのように料理へ手を伸ばした。
だが——その深紅の瞳の奥には、新しい光が灯っていた。
(この四人を守ろうとする人間。——私の部下を、大事にしてくれるわけだ)
ちらりと、零を見る。
(……嫌いじゃないって言ったけど——こいつが、この城をどこまで変えるのか。もう少し見ていたいかもね)
その後、夕食は穏やかに続いた。




