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第三十七環 「譲れない夜」

——夕方。魔王城・執務室。


羽ペンが紙の上を走る音だけが、静かな室内に響いていた。


ルシアは机に向かい、黙々と書類を捌いていた。


魔王軍の補給報告。領地ごとの魔力観測記録。兵站の管理書類。


四座の中で、こうした事務仕事を最も真面目にこなしているのはルシアだった。


実際、魔法は学問的な側面も強いため、こういった情報処理は向いていた。


赤みがかったダークレッドのツインテールが、ペンを動かすたびに揺れる。ルシアは思考補助の魔道具である眼鏡の位置を直す。


真紅の瞳が数字を追い、時折、僅かに眉を顰めていた。


コンコン。


扉が叩かれる。


「……入って」


顔を上げないまま答えた。


どうせ、クオンが食事の催促に来たか、レイラが暇潰しに来たのだろう。


「……ルシア。ちょっと、いい?」


ルシアの手が止まった。


顔を上げる。


そこに立っていたのは、シエラだった。


いつもの余裕に満ちた笑みはない。


どこか真剣な表情。


怒っているわけではない。むしろ——緊張しているように見えた。


「……何よ、改まって。あんたがここに来るなんて珍しいわね」


ルシアは椅子を回し、眼鏡をはずす。


そして、シエラへ向き直った。


シエラが部屋へ入り、背後の扉を閉める。


——他の誰にも聞かれたくない話。


ルシアは、それを即座に読み取った。


「……座れば?」


シエラは部屋のソファへ腰を下ろした。


だが、その様子は落ち着かない。


尻尾が膝の上で、所在なさそうに動いている。


「……単刀直入に言うね」


青い瞳が、ルシアを真っ直ぐに見た。


「——私、零を番として認識した。竜族にとって、一生に一度の……番として」


沈黙。


ルシアの真紅の瞳が——大きく見開かれた。


「——は?」


羽ペンが指先から滑り落ち、机にぶつかった。


カタン、と乾いた音が響く。


「……番って——あんた、それ……」


「分かってる。ごめん、重い話だよ」


シエラが視線を落とした。


膝の上で、尻尾が自分の太腿に巻きついている。


自分自身を落ち着かせるように。


「竜族にとって、番は……一生に一度。見つけちゃったら、もう戻れない。他の誰も——見えなくなる」


ルシアは黙っていた。


その表情からは、感情を読み取れない。


いや——感情が多すぎて、どれを表へ出せばいいのか分からないのだ。


「実は、今日の訓練で——暴走しかけちゃって……」


シエラは、正直に話した。


隠さずに。


何もかも。


「零に、自己なんだけどね、身体を絡ませちゃって……そしたら……理性が飛んだ……」


ルシアの眉が僅かに動く。


だが、口は挟まなかった。


「あ、でも安心して。零が角に触れてくれて、それで、戻れた。……その後、対処法も伝えた。一日一回、短い時間だけ角に触れてもらえれば——暴走は抑えられるんだよ、って……」


シエラの声が、少しだけ震えた。


「……だから、お願いがある」


顔を上げる。


青い瞳が——真剣に、ルシアを見つめた。


「夜——零との時間を、数分だけもらいたい。角に触れてもらうだけ。……それだけで、翌日の訓練も安定する」


その瞬間、ルシアは理解した。


夜、零との時間。


それは、ルシアが先に約束していた時間帯だった。


毎晩行っている、魔法理論の復習。


二人きりで過ごす——あの時間。


シエラは、それを知っている。


だからこそ、こうしてわざわざ許可を求めに来たのだ。


四座同士——いや、一友人としての礼儀。


そして——ルシアへの敬意。


「…………」


沈黙が続いた。


ルシアの真紅の瞳が、複雑に揺れている。


嫉妬。


理解。


苛立ち。


そして——認めたくない共感。


「……番、ね」


椅子の肘掛けを、指先で叩く。


コツ、コツ、と規則的な音が響いた。


「……あんたが、わざわざ頭を下げに来るってことは——本気なのね」


「……うん」


ルシアは椅子から立ち上がった。


窓辺まで歩み寄り、夕焼けに染まった魔界の空を見つめる。


背中をシエラへ向けたまま、問いかけた。


「……数分でいいのね」


「……うん。角に触れてもらうだけ。極限まで時間を絞れば、一分で済む」


「…………」


ルシアが振り返った。


真紅の瞳は——鋭かった。


「——いいわよ」


「……!」


シエラの顔が上がる。


「ただし」


ルシアは指を一本立てた。


「私の時間の前。それと——五分以内。それ以上は認めない」


その声には棘があった。


だが——拒絶ではない。


条件付きの許可だった。


「……あんたが暴走して零に怪我をさせたら、本気で焼くから」


それは脅しであり——同時に、零を心配する言葉でもあった。


シエラが笑った。


安堵と感謝に満ちた、柔らかな笑顔だった。


「……ありがとう、ルシア」


「礼なんかいらないわよ」


ルシアは背を向け、机へ戻った。


落とした羽ペンを拾い上げる。


「……さっさと出ていって。書類が溜まってるの」


だが、羽ペンを持つ指は——僅かに震えていた。


シエラが扉へ向かう。


ノブに手をかけた、その時。


「……シエラ」


呼び止められ、シエラが振り返った。


ルシアは書類に目を落としたまま、顔を上げようとしない。


「——私だって、譲る気はないから」


静かな宣戦布告。


シエラは目を丸くした後——少しだけ笑った。


「……知ってる」


扉が閉まる。


執務室に一人残されたルシアは眼鏡を掛け直す。


だが、しばらく羽ペンを動かせなかった。


「……番、か。一生に一度……一千年に、一度……」


その呟きは、夕暮れに染まる部屋の中へ消えていった。



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