↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/117

第三十六環 「幻影に潜む嫉妬」

——夕方。魔王城・中庭。


夕焼けが、魔界の空を赤紫に染めていた。


シエラと別れた零は、約束どおり中庭へ向かった。


昨夜、指切りを交わした場所。


石造りのベンチ。噴水の水音。薄暮に包まれた中庭には——すでに、一つの影があった。


レイラがベンチに座っていた。


くすんだ金髪が夕陽に照らされ、緑色の瞳が本のページから上がる。


いつもの挑発的な笑みではない。


穏やかな——素の表情。


零の姿を認めた瞬間、その瞳が僅かに柔らかくなった。


「——来たね、零」


呼び捨て。


昨夜から変わった呼び方には、試すような響きも、からかうような調子もなかった。


ただ、名前を呼んでいる。


レイラは本を閉じ、ベンチの隣を空けた。


「今日はどうだった? クオンとシエラの訓練。……まあ、顔を見れば分かるけど」


零の服についた土埃。僅かに乱れた黒髪。


そして——首筋に残る、微かな痕跡。


レイラの瞳が一瞬だけ細められた。


だが、何も言わなかった。


「……さて。約束どおり、幻術の訓練を始めようか」


レイラが立ち上がる。


長い耳が夕風に揺れた。


「昨夜は、精神干渉の『受け手側』をやったでしょ。今日は——『使う側』」


緑色の瞳が、零を真っ直ぐに見据える。


教師の目。


だが、その奥には、秘密を共有した者にだけ許される親密さがあった。


「幻術の基本は三つ。視覚の書き換え、記憶への干渉、感情の誘導。零がまず目指すべきは——一つ目。視覚の書き換え」


レイラは指を一本立てた。


「精神干渉型は、零には向かない。あの精神耐性は攻めにも使えるけど、繊細さに欠ける。逆に視覚系なら——魔力制御の精度が物を言う。零の模倣能力とも相性がいい」


手のひらを翳す。


次の瞬間——レイラの姿が揺らいだ。


そこに立っていたのは、ルシアだった。


赤みがかったダークレッドのツインテール。真紅の瞳。深く被った黒い魔女帽子と、黒いマント。


完璧な複製。


だが次の瞬間には、ルシアの姿が消え、元のレイラへと戻っていた。


「これが視覚の書き換え。自分の姿を偽る幻術。相手の脳に直接干渉するんじゃなくて、光の屈折と魔力膜を利用して外見を変える。いわば、物理的な幻術だね」


レイラが零へ向き直った。


「やってみて。まずは——自分の髪の色を変えるところから」


「髪の……色?」


「そう。魔力を薄い膜にして、身体の表面に展開する感覚。夢幻抱擁の応用で……多分、零ならすぐに感覚を掴めるはず」


レイラが一歩近づき、零の手を取った。


その掌を上へ向けさせる。


「ここに魔力を集中して。薄く、透明に。その上に、色だけを——載せるイメージ」


指先が、零の掌に触れていた。


昨夜よりも——ずっと自然に。


「……焦らなくていいよ。私が見てるから」


その声は、優しかった。


仮面のない——素のレイラの声。


零は目を閉じ、掌へ意識を集中させた。


魔力を薄い膜へ変える。


透明な層で全身を包み、その上に——色を載せる。


黒い髪が揺らいだ。


金色に。


白銀に。


そして、赤みがかったダークレッドへ。


「……一回で掴んだ。やっぱりね」


感嘆ではない。


確信の声だった。


零の模倣能力が、幻術でも発揮されることを——レイラは最初から分かっていた。


「じゃあ、次。全身を覆って、他人の姿を被ってみて」


零が再び集中する。


薄い魔力膜が全身を覆い——その姿が変化した。


最初に現れたのは、ルシア。


赤みがかったダークレッドのツインテール。真紅の瞳。黒い魔女帽子に、黒いマント。


レイラが顎に手を添え、その姿を観察する。


「……似てる。八十点。帽子の影の落ち方が甘いね。ルシアはもっと深く被るから」


零の姿が、再び揺らぐ。


次に現れたのは、クオンだった。


アッシュグレーの短めの髪。白色の肌。黒い鬼角。小柄な、だが筋肉質な体つき。顔の一部に刻まれた赤い紋様。


「九十点。体格の再現がいい。ただ——クオンは、もう少し肩の力が抜けてる。常在戦場だけど、普段は脱力している。矛盾した身体の使い方をしてるんだよ」


次。


白銀の長い髪。深紅の瞳。黒い魔角。そして、黒と赤を基調とした魔王の装束。


リリス。


レイラは少しだけ目を細めた。


「……七十点。顔は似てるけど——存在感が足りない。リリス様は、そこに立っているだけで空気を変える。あれは、幻術だけじゃ再現できない」


そして——次。


零の姿が揺らいだ。


空の長い髪。青い瞳。黒い竜角。百七センチを超える長身と、余裕のある笑み。


シエラ。


だが——その瞳孔は縦に裂けていた。


翼が半開きのまま震え、角が淡い光を放っている。尻尾は、見えない何かへ巻きつこうとするように揺れていた。


竜化しかけた姿。


理性と本能の狭間で、必死に自分を保とうとしていたシエラ。


つい数時間前に——零が、間近で見た姿だった。


沈黙。


レイラの緑色の瞳が、ゆっくりと細められた。


笑みが消えている。


読み取るような視線。分析するような目。


だが——それだけではなかった。


「……随分と、詳しく見たんだね?」


声は穏やかだった。


責めるような響きはない。


しかし——明らかに、温度が下がっていた。


「瞳孔の裂け方。角の発光。翼の震え方。これは、普通に観察しただけで得られる情報じゃない。至近距離で、それなりの時間見ていないと分からない細部だよ」


零の幻術が解けた。


空色の髪が黒へ戻り、青かった瞳が本来の金色を取り戻す。


レイラが——一歩、近づいた。


緑色の瞳が、零の首筋へ向けられる。


シエラの痕跡など、肉眼ではほとんど見えない。


だが、ダークエルフの——幻術師の目は、誤魔化せなかった。


「……竜族が番を前にして竜化しかけるなんて、相当だよ」


声は柔らかい。


だが、目が笑っていない。


「何があったの? ——って聞くのは、野暮かな」


首を傾げる。


くすんだ金髪が揺れ、長い耳が微かに動いた。


「……別にいいよ。零の自由だから。ただ——」


一歩。


さらに近づいた。


零の耳元へ——レイラの唇が寄せられる。


「——私の訓練中に、他の女の竜化した姿を再現するのは……ちょっと、妬けるかな」


囁き。


吐息が耳を撫でた。


そして——すぐに離れる。


零が振り返った時には、レイラはいつもの距離まで戻っていた。


だが、その緑色の瞳には、普段見せない感情が滲んでいた。


嫉妬。


そして、自分が嫉妬していることへの戸惑い。


「……なんて。冗談」


冗談ではなかった。


その声は、僅かに震えていた。


だが——レイラはすぐに表情を切り替えた。


再び、教師の顔へ戻る。


「……模倣精度は合格。十分、実戦で使える。ただし——今後、私の前でシエラの姿になるのは禁止」


「……なんでだよ」


「集中力が乱れるから」


誰の集中力なのか。


レイラは——最後まで言わなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。